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水曜日とは?/ キャッシュワン

[ 373] くもりの水曜日
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/kisshee/

春だとおもうと聴く音楽はいっぱいあって、どうしてもギターポップをたくさん聴いてしまう血は争えないのだけれど、それ以外にも、聴く音楽はいっぱいある。冬は、ひとつの音楽をじっくりくりかえし聴くことが多いけれど、春は、本当に聴きたい音楽がいっぱい出てくる。
そのなかでも不思議なのが、なぜか春に、真心ブラザーズの「サマーヌード」を聴きたくなること。題名のとおり春のうたではないし、さわやかというわけでもないのに、どういうわけか、毎年聴いてしまう。
しかしなぜ聴いてしまうかは、実はちゃんとわかっているのです。このうたのどうしようもないせつなさが、たとえようもなく、ぼくには春を思わせる。この曲の胸をざわつかせるメロディと歌詞は、うわついた春のこころを、思わせるのです。
2008/03/31 15:17 こんにちは!ぜにょです。大変ご無沙汰しております。お元気ですか??あたしも『サマーヌード』大好きです!クラブでもかかると未だに盛り上がりますよね。あたし、ふたご曲の『サマームード』もスキです。シングルver.は、この盤に収録されているのと全然雰囲気が違って、フィッシュマンズっぽい感じでスキです。春というより真夏(しかもお盆あたりの日差しガンガンな感じ)のトラックですが…(笑)。桜もキレイなのですが、あたしはもう散ってしまった梅が楽しみです。ウチの畑に植わっている梅は大ぶりのぷりぷりした粒の梅がなるので、色々活用できるのです(漬物や、ジュースにしたり…)!季節の変わり目ですので、体調を崩さないように気をつけてくださいね!ではまた…!
2008/04/12 12:50 >ぜにょさんこんにちは。お返事遅くなってしまってすみません。「サマームード」、シングルバージョンは聴いたことがないですね。フィッシュマンズっぽいんですか。ぜひ聴いてみたいものです。最近全然クラブに行っていないのですが、ぜひクラブでも聴いてみたい曲です。桜は、京都でももうほとんど散ってしまいました。以前は梅のほうが圧倒的に好きだったのですが、最近は、どういうわけか桜もけっこう好きになってきました。でもやはり梅も好きです。うちも、実家では毎年梅の実をとって漬けていました。ぜにょさんも、体調にはくれぐれも気をつけてくださいね。>あきさんこんにちは。お返事遅くなってすみません。「サマーヌード」は、本当に胸がぎゅっとする歌ですね。そういうかんじが、きっとこの曲を春に聴きたくなる理由なのだろうと思います。
京都ではまだ梅も咲ききっていないところがあるというのに、気のはやい何本かのしだれ桜が、もう花をほころばせています。
ちょっとだけ春の嵐な、お昼休みです。空が暗くても、このウキウキする気温と風は、本当にいったいなんなんだろうと思う。
なぜだか、今年の冬は、キリンジブームでした。じゃっかん線の細い声、おしゃれなメロディ、ブルーアイド・ソウルをかんじさせるアレンジ、そして絶妙に配置された器楽、と、ぼくがはまらない要素がなかったのに(そして、ずっと聴いていたのに)、なぜかいままではまりきれずにいました。好きなミュージシャンと訊かれれば、名前をあげる存在ではありましたが、「大好き」ではなかった。やはり、じゃっかんもっちゃりしたビジュアルとデザインセンスがダメだったのかと思うのですが、いまとなっては、それも絶妙な毒として見えてしまうから、本当に好きになるというのは、おそろしいものです。
そんな(ぼくにとっては)絶妙のタイミングでリリースされた、今回のアルバム。収録12曲中、iTunesで去年配信されたものが7曲、2月の先行シングルが1曲、つまりはじめて聴く曲は、4曲。たったの4曲。ベスト盤じゃないのに。配信曲はややアレンジが変わっているものもありますが、基本的なデザインは、変わっていません。それでも、このアルバムを聴いて、損したと思わないのは、いまキリンジに恋しているからか、はたまた、このアルバムがすばらしいできだからか。しかし、仮にぼくが盲目状態になっているとしても、7曲の配信シングル、1曲の先行シングルをこのアルバムからリリースしたのですから、キリンジにとっても、自信作であることに間違いはないでしょう。
一曲目の「家路」は、配信シングルで聴いたときには、こんなにスケール感のある曲だと思わなかったのですが、いざアルバムで聴くと、かなりすばらしい。去年配信された7曲のなかで、このアルバムで聴いてもっとも印象の変わった曲が、これでした。ほかの曲は、アルバムに合わせてちょっとミックスを変えたな、とか、印象としてはその程度でしたが、この曲のイメージの変わりようは別格。
名曲「雨を見くびるな」を髣髴とさせる先行シングル「朝焼けは雨のきざし」は本当にすばらしい曲で、メロディももちろんすばらしいのですが、最近のキリンジらしい、ひねくれながらも前向きな歌詞が印象的です。
アルバムのみの曲では、「この部屋に住む人へ」がすてきな曲です。この曲と次の曲「囁きは天使のように」は、70年代シンガーソングライター的なアレンジがここちよい。このアルバムは、意外にもアルバムOmnibusに印象が近いかんじがあります。あのアルバムも、キリンジセルフ・プロデュースで、随所に、70年代SSW色がかんじられた好アルバムでした。アルバムの後半は、アコースティック・ギターが生かされたフォーキー・カントリータッチな作品が多く、緻密にアレンジされたキリンジの曲が好きな向きには、やや物足りないところもあるかもしれませんが、むしろ、こういうアレンジの作品もちゃんと発表できるようになったのが、すばらしいなと思います。
最後の「もしもの時は」は、キリンジらしいひねくれた歌詞です。この曲でしめくくるキリンジが、またすばらしい。ひょっとして、「君の胸に抱かれたい」につづく、ストーカーソング第二弾でしょうか? それとも、字面どおり胸キュンソングとして読めばいいのか? そんな二面性がまたすばらしい。
まとまりのない文章になってしまいましたが、前作DODECAGONからつづく、リズムはいまのもので、うわものは70年代的なものをやりたい、というコンセプトが、上手くはまったアルバムではないでしょうか。このアルバムでも打ち込みは多用されていますが、前作ほど打ち込み感は強くかんじません。前作が実験作とすれば、今作品は、より成熟した作品と言えるでしょう。もちろん、どちらがすぐれているというものではありません。どちらも、本当に魅力的です。
5月のライブが楽しみです。チケットはもう取ってあるので、あとは仕事の都合がつくことを祈るのみ。
まず述べておくと、ぼくは死刑廃止の立場です。それは、この本を読む前も読んだあとも、変わらない。ただ、いままで自分は、「死刑廃止」となんとなく思うだけで、そこで思考停止していたのではないか?と、まずこの本を読みはじめて恥じました。どちらかというとぼくはサヨク的な考えかたをしがちであるがゆえ、「死刑=国家による殺人、あるいは仇討ちの代行」と単純に考えて(この論理じたいが自分のなかでのあとづけなのですが、後述)、死刑はダメだ、と考えていたのです。いや、考えていたなんていう、たいそうなものではありません。なんとなく、そう思っていたのです。それこそ、島田雅彦のあの小説の登場人物のような、なんとなくなサヨク的空気。
まず、この本の内容うんぬん以前にぼくが驚いたのは、日本国民の八割が死刑存置派であるという事実。そうか、自分は少数派であったかと実感させられる機会は、いままでもすくなからずあったことながら、これにはびっくりしました。
たしかに、人を殺した人間は罰せられるべきです(ここでは、なぜ人を殺してはいけないかという問題は措いておきます)。でも、その殺人者を殺してどうなるのか? それは、殺人者がやったことと同じではないか? 殺人者を殺すことが、本当に罪を償うことになるのか?
ぼくは、けっこう子どものころから死刑はダメだと思っていたのですが(いまよりよほどものごとを考えていたかもしれない)、人を殺した人間をさらに殺してどうする? という疑問が、つねにあったような気がします。そして、幼いころからそう考えていたので、死刑は続けるべきと言うひとがこれほど多いことに、面喰ってしまったのです。
死刑の存続/廃止を考えるとき、有用性(つまり、論理)ではなく、情緒が大事であると、この本の後半で森さんは述べます。論理の上でなら、死刑を執行する論理は、完全に破綻している。殺人を減らす予防にもなっていない。それどころか、死刑をなくしたら殺人が減少したというデータすらある。殺人者を世に出さないためなら、終身刑を設ければよい(終身刑の問題は、それはそれとしてありますが)。冤罪がある以上、不可逆である死刑を執行すべきではない。etc、etc。でも、そんな論理を積み重ねても、死刑はなくならない。なぜなら、それは情緒の問題であるから。
この本に出てくるひとはみな、それぞれに「存置」「廃止」と言いながらも、こころのなかに葛藤を持っています。それほど、この問題はかっちりとは割り切れない。この本の最後に登場する、光市母子殺害事件の被害者遺族、本村洋さんですら、犯人には極刑を望みながらも、自分が死刑存置論者の旗頭にされてしまうのは望んでいないし、死刑じたいの是非についても苦悩しています。
存置、廃止、どちらが正しいなんて言うことは、不可能です。たぶん、どちらにも正しい言いぶんがあるし、ひとりひとりのなかでも、割り切ることなんてできない。
国家がどうとかそういう論理という皮をはぎとって、情緒の面で言えば、ぼくは、人は殺してはならない、死んではならないという思いが、非常に強くあります。これが、ぼくが死刑に反対する最大の基盤だと思います。だから、たとえ人の命を奪った人間であっても、その人間の命を奪うべきではない。しかし、自分の近しい人が殺されたとしたら、どうか? きっと、犯人を自分の手で殺したいと思うほど、憎いでしょう。でも、犯人と実際に接したとしたら、はたしてぼくは殺せるだろうか、あるいは、死刑を望むことができるだろうか? あるいは、自分の親しい人間が人を殺めてしまったとしたら、どうか? ぼくはそのひとに、死んで自分の罪を償え、と言えるのか? わかりません。いくら考えても、わかりません。
2008/03/17 06:56 死刑存続論が根強くあるのは(僕もその一人)きっと、そうであったほうが『楽』だからじゃないだろうかなんて思った。やはり故なく死を与えられた人のことを思うと死に対して死を持って臨むのはやむなしという考えであったり、極刑は犯罪の抑制作用(今回の日記によるとそんなことは数字上ないと言うことですが)となるであろうと言う単純明快な考えであったり。やはり僕は『楽』を考える人間であるので、感情論として同じことをされたら同じことを仕返したいし、抑制作用として長い説得や行動による諭しを持って人を変えるより、ぶん殴っちゃったりしたほうがいいやあ、などと考えてしまう人間だから、死刑存続論をとる人の意見は、共鳴してしまうところはある。でも本当はきっと『楽』なんかしないほうがいいんだろう。大変でも回り道したほうが、より人間の本質的な道に至るんだろうなと言うのも年をとるたび実感するこのごろです。難しいね。
2008/03/20 23:00 こんばんは。本当に難しい問題ですね。結局のところ、実際に当事者になったひとの発言の重みには、どんなことばもかなわないというかんじがします。被害者の遺族のかたで、犯人を殺したいと思うかたもいらっしゃるだろうし、死んでほしくないというかたもいらっしゃるだろうし。犯罪を犯したかたにしても、死んで詫びたいというかたもいらっしゃるだろうし、死ぬという前提だから改心できたというかたもいらっしゃるだろうし、死にたくないと思うかたもいらっしゃるだろうし…。本当に、ただひとつの筋立てでは語れないのが、この問題だと思います。だから、自分がこの問題について語るのはおこがましいとも思うのですが、やはり、出会ってしまったからには、きちんと考えて自分なりの「思い」を出しておきたい問題です。
2008/03/25 13:11 昨夜、帰国してみたら、またしても痛ましい事件が起こっていたのですね。遺族の方の本当の気持ちは当事者でないとわからず、対岸の火事でしかないのでしょうが、だからといっていろんなことを考えるのは無駄だと片付けてしまうのは乱暴だと思います。体験しなくても経験できる。なぜなら、想像力があるから。体験しなければわからない、というのは言い逃れにすぎない、とかつて教育実習の際、ちびっこたちに説いた日を思い出しました。殺人は死刑をもって償えるとも思わないし、犯人が死刑になったからといって、被害者の遺族の本当の慰めになるとも思えません。人は一人きりでは生きていけず、殺人者にも家族や友人や、何かの繋がりがある人がいて、それを死刑によって絶つということは、被害者のみでなく加害者の関係者たちにも多くを背負わせてしまうと思うのです。今月は花幻忌を迎えたので、いつもより多く、原民喜のことを考えています。私はヒューマニズム、死刑反対という問題で悩んで学んでいた親友が民喜の文学に出会って、あなたに似たものを書く人がいる、とアンソロジーに含まれていた彼の作品を読んだ日の衝撃は、年を経ても褪せません。先日、日米の元兵士たち、今ではおじいちゃんたちになっていますが、彼らの親善野球大会を迎えるまで、その後をテレビでちら見しました。一般の兵士たちはどちらも被害者だと思っているところが、興味深かったです。それで、迷いつつも、結局、参加しない人もいました。だから、武力解決はいけないのだ、としみじみ思いました。
2008/03/27 00:57 こんばんは。考えても、とうてい当事者のかたがたの思いにおよぶべくもないのですが、それでも、やはりどうしても考えなくてはならないことだと思います。人間の想像力というのは、人と人とのあいだにあるどうしようもないすきまを、なんとか渡れるようにできるものだと思います。これを軽んじると、悪しき経験主義や、極右にしろ極左にしろ、極端な考えに走ってしまう気がします。戦争まで話をひろげると、まだまだ語りきれないこと、どう語っていいのかわからないことがいっぱいあります。戦争にかぎらず、さまざまな対立関係において、すべて語り合うことで解決できるのかはわからないですが、すくなくとも、語り合える余地と場所をもうけるべきだというのが、いまのところのぼくの結論です。だから、死をもってすべてを終わらせてしまう(死刑囚の命も、被害者遺族の気持ちも)死刑は、ベストな手段ではないと考えます。
この本を読んで、あらためて思いました。"Pet Sounds"というアルバムは、ぼくにとって、これまでも、これからも、ずっと一生変わらずいちばん重要な音楽であると。そして、生きているかぎり、ブライアン・ウィルソンというひとの音楽を、生み出されてきたものも、これから生み出されるであろうものも、どうしようもなく聴きつづけてしまうだろうと、いや、聴きつづけないわけにはいかないだろうと。まず、この本を読んでしまっている時点で、このアルバムのことがいつも頭から離れない自分がいるのが、よくわかります。村上さんの『東京奇譚集』(新潮文庫)の挟み込みチラシに、この本の予告を見たとき、本当に興奮したし、待ち遠しかったです。
この本の筆者は、12歳から13歳のころに、"Pet Sounds"をはじめて聴いたそうです。ぼくが聴いたのも、ちょうど中学2年くらいのころでした。そのころ、正直に言って、このアルバムの歌詞の意味が正確にわかったかどうかは、わかりません。なにしろ、青春すらまだはじまったかはじまっていないかという年齢でしたから。でも、きっとある程度のことは、理解できたのだろうと思います。なにしろ、ここに書かれているのは、あるていど生きていたらだれでもかんじるような、カナシミと美しさだから。
このアルバムのコンセプトはよく、「イノセントの喪失のかなしさ」であると語られます。たしかに、アメリカという国のありようを考えたらそれも一理あるのかもしれないし(くわしく知りたいかたは、川本三郎『フィールド・オブ・イノセンス』(河出文庫)を読んでみてください)、音楽ビジネスのまっただなかに身をおいて、なおかつ当時結婚したばかりだったブライアンの心境を考えたら、そうであったのかもしれません。しかし、「幸福についての哀しい歌の集まり」、あるいは「哀しさについての幸福な歌の集まり」であるこのアルバムは、決して、「若者」だけに限定されるような作品ではないように思えます。
つまりは、このアルバムには、生きているうえでの「カナシミ」と「ヨロコビ」が凝縮されているのです。すぐれた音楽であれば、それは"Pet Sounds"でなくともなしとげられていることです。ただ、ぼくが出会った、もっとも心に残ったそういったアルバムが、この作品であったという、ただそれだけのことなのですが。しかし、そういうふうにこころに残ったアルバムは、強いです。この本の作者にとっても、きっと、そういうアルバムだったのでしょう。ぼくは、リアルタイムから30年ほど離れて、このアルバムを体験しました。しかし、本の終盤で作者も語っていますが、このアルバムは、リアルタイムで体験する必要がない(そこまで言い切ってはいませんが)。逆に言うと、今の音楽に、なんとリアルタイムで体験しなければならないものが多いことか。たしかに、それで魅力を発揮する音楽があることも、事実です。しかし、このアルバムは、いつ聴いても、人間の普遍的とも言うべき感情に訴えかけてくる。1966年だろうが、1996年だろうが、あるいは2016年だろうが、このアルバムの魅力は、変わらない。人間が存在しているかぎり。そう断言できるほどのすばらしさを、このアルバムはもっていると思います。
そう考えると村上春樹がこのアルバムを好きなのはわかるのですが(このアルバムがかかえる業と、村上さんの小説の業は、どこか似ている)、いままで"Fun Fun Fun"がビーチ・ボーイズでいちばん好き、と言いつづけていた村上さんが、この本を訳したのが、ちょっと不思議な感じがします。村上春樹とビーチ・ボーイズは結びつくけれど、村上春樹と"Pet Sounds"は結びつかない感じがしていたので。村上さんがどこかで、「みんなこのアルバムを過大評価しすぎ」みたいなことを言っていたような記憶もあります。勘違いかもしれませんが。
2008/03/16 23:08 はじめまして。としひこさんのブログで、お名前は拝見しております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。このアルバムは、もちろんブライアンのイノセントの喪失や成長への不安などがあらわれた作品です。通奏低音として、そういったものがあります。しかし、このアルバムのおもしろいところは、けっしてそれだけではない、人間の喜びや幸せや優しさも歌いこまれていることです。「カナシミ」を基調としながらも、それだけでは終わっていないというところが、何百回と聴けるひとつの理由かもしれないと思います。このアルバムにコンセプトというものがもしあるとすれば、それは、「イノセントの喪失」ではなく、「生きていくために味わうことが必要不可欠なさまざまな感情」なのではないかと、最近は考えています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
まさか、ブリグリが復活することになるなんて、一年前までは思ってもいなかったのである。いつかは復活するだろう、いや、してほしいとは思っていた。でも、もうすこしトミーは、ソロ活動をつづけるつもりなんだろうと、勝手に思っていた。
トミーの活動をそれほど熱心に追いかけていなかった(最初のほうのシングルがCCCDだったから、買う気がなくなってしまった)ぼくが、トミー・フェブラリーやそれに付随するプロジェクトの曲を、ブリグリの残りのふたりのメンバーが作っていたと知ったのは、彼らがそれを公表してからしばらく経ってからだった。
高校のときに聴いたファースト・アルバムの衝撃は、いまでも生々しい。そのころにガツンときた音楽の衝撃は、たいがいあとまで生々しく残ってしまうようだ。
いやなやつが高校にいた。背は低いが、髪を妙に伸ばしているやつだった。彼とは、生徒会(厳密には違うが、わかりやすくこう言っておく)で一緒だったのだが、生徒会で使っている部屋で偶然ふたりになったときに、ブリグリのファースト・アルバムの話をしはじめた。おたがい、洋楽が好きなことは知っていたから、音楽の話だけはできた。たぶん、そのアルバムが出た翌日か翌々日くらい、本当に出てまもない日だったはずだ。
彼はCDウォークマンまで持っていて(当時はディスクマンという名前だったか?)、それでブリグリのファーストを聴かせてくれた。一曲目から、それもイントロから、衝撃的だった。かっこよくて、しなやかだった。
その日の放課後、ぼくはブリグリのアルバムを、銀座の山野楽器に買いに行った。当時渋谷がこわく、なおかつ通り道でもなかったので、六本木のWAVEと銀座の山野楽器に毎日のように寄り道をし、「勉強」していた。六本木WAVEが突然閉店したときには、本当に悲しかった。のちに、あの六本木ヒルズを作るために店を閉めたのだと知り、六本木ヒルズに対してかなり悪感情を持ってしまった(いまはなんとも思っていないけれど)。
ブリグリの初回限定盤は、当時珍しかったデジパックで、いまから考えると、マキシシングルといいデジパックといい、彼らが意図的に、「あちら」のかたちを持ち込もうとしていたことがわかる。
ブリグリは当時、オアシスと比べられたりしていたけれど、たしかにある意味、この二つのバンドは似ている。80年代後半から90年代初頭のブリティッシュ・ロックのいいとこどり、というところで。ブリグリのファーストに入っている「Magic Place」は、露骨にマンチェスター・ブームを髣髴とさせる曲である。ブリグリはキーボードづかいも冴えていて、そこらへんも、イギリスのバンドを思い起こさせた。
なぜこんなにダサいジャケットなのかという問題は置いておくとして、すばらしいライブアルバムです。
とりあえず、佐藤さんのベースがえらくかっこいい。佐藤さんのベースを聴いてこんなに感動したのは、実ははじめてかもしれない。ミックスがいいんでしょうか。ライブで実際に聴いても、こんなにすごかったことはなかったような。
1枚目は、横浜でのオーケストラとの共演によるライブです。昔の曲にもオーケストレーションがほどこされているのですが、なんでこんなアレンジにしちゃったの、みたいな曲がない。それを、もともとくるりの曲はクラシック的な要素をもっているからだ、と言ってかたづけてしまうのは簡単ですが、それよりも、やはりいまのくるり(というか岸田繁)の気分が、こういう方向に向かっているからなのでしょうね。いまの彼なら、「青い空」にもオーケストラをほどこせそうな気がします。
京都磔磔でのライブ(2枚目)は、一転して4ピースでのライブです。少ない編成でのライブが映えるような曲が選ばれていますが、1枚目との違いは、思いのほか、かんじません。というわけで、ぼくがいま、とても残念に思っているのは、オーケストラなしで『ワルツを踊れ』の曲を演奏したライブを、観られなかったということです。あのアルバムの曲を、オーケストラなしで、どう演奏したのだろうか。
それにしても、2枚目の選曲はすごい。なんというか、くるりのライブ盤として、完璧にきわめて近いんじゃなかろうか。
横顔のポートレイトにこころ惹かれることが、多いです。横顔ポートレイトというのは、たいがいつんとすましていることが多くて、でも、なぜか親密さをかんじることが多々あります。思えば、自分の横にいるひとって、正面からの顔を見ることが存外すくない。けっこう横顔を見ていることって、多い気がするのです。横顔のポートレイトに親密さをかんじるのは、自分の横にいるひとのように見えるからかもしれません。いつかそのあたりを、「横顔の少女」イラストレーター中村佑介氏に聞いてみたい。
題名のとおり、エリック・ドルフィーにとって遺作になってしまったアルバムですが、ジャズという音楽の魅力が、ここには凝縮されているような気がします。ときに熱く、ときに美しく、ときにおしゃれに、ときに激しく、ときに崇高に、ときにユーモラスに、そして、ときにあたたかく、ときにぞっとするほど冷たく。ジャズの理論のことはよくわからないけれど、ここで奏でられているのは、オーソドックスな50年代的「ジャズ」ではないはずです。でも、まちがいなく、ジャズのエッセンスが全部つまっています。
そして、ジャズでこれほどまでに感情を豊かに表現できるひとを、ぼくはこのひとをおいてほかに知りません。感情が生のままあらわれているようでありながら、聴きやすく、そしてジェントルです。これはおそらく、だれからもその人柄を愛されたというエリック・ドルフィーというひとが、そのままあらわれているからでしょう。エリック・ドルフィーより少しあとに活躍し、同じように夭折したアルバート・アイラーの作品でも、感情が生のままかんじられると思えます。ただ、アイラーの作品はあまりにも激しく、そして痛々しい。なんというか、アルバート・アイラーの作品は、ぼくにとってはもはやジャズではなく「ロック」に近い。ジャズを聴きたいと思ったときには、アルバート・アイラーの作品は聴きたいとは思えない。でも、エリック・ドルフィーの作品は、これこそ「ジャズ」だと思わせてくれます。それが、彼にとって幸福かどうかはわかりませんが。
みなさまのセレクトが出そろってからだいたい一週間ぐらい経ちましたので、ぼちぼち曲目をば発表したいと思います。
今回のテーマ「身も心もあたたまる音楽」で、すぐに思い浮かべたのが、フォークトロニカというのか、ちょっとやさしいかんじのするエレクトロニカと、軽めのジャズでした。軽めのジャズは、あまり手持ちの音源がなかったため、ほとんど入れられませんでしたが、エレクトロニカは、厳選をかさねて、二曲を冒頭に入れました。
オルタナ・カントリー界を代表するバンドのひとつ、ジェイホークスのアルバムから選曲。このアルバム、ジャケットもかわいくてナイスです。やはりギターポップ的な曲も入れたくて、この曲を選びました。オルタナ・カントリーは、Wilco以外のバンドはなかなか日本で紹介されませんが、このバンドいいです。
オーガニックなソウル・サウンドも、なかなかあたたまる音楽のひとつです。これがJBなんかになると、あたたまるというよりも「暑くなる」ってかんじですけれども。
歌詞はちょっとビターですが、なんともあたたまる絶妙な温度感の演奏に軍配、そして脱帽。最近はちょっと音楽性が変わってきてしまいましたが、このころのフレックス・ライフはすばらしかった。
なんともここちよいスカサウンドで、「80日間世界一周」のメインテーマを奏でてくれます。ぜひ、このままの飄々としたペースで活動してください。ちなみに、このバンドは、メロディのよさも特筆もの。この曲に勝るともおとらない美しい曲を作っているので、ぜひ一聴してみることをおすすめします。
ジャズ、というよりもフュージョンな一曲。こういう軽いめのジャズは、ぼくにとってまさにあたたまる音楽です。
この人の音楽は(っつっても、このアルバムしか聴いたことはないが)、ねちっこくない、いいかんじのラテンフレーバーがなんともしゃれていて、フュージョン的な音のなかでは、聴きあきません。
元Cymbalsのボーカリスト、土岐麻子さんのメジャーデビュー第一作のオープニング曲。シンバルズは、ぼくの大学生時代いちばん大事だったバンドといっても過言ではありません。月日が経つごとに、存在が薄れるばかりか、こころのなかに確固とした位置を占めてゆくのですが、土岐さんがジャズを歌いだしたときには、驚きました。だって、お世辞にも歌が上手いとは言えないので。でも、もうすっかり、土岐麻子しか歌えない音楽、というものを確立したみたいですね。これからも、すてきなシティ・ポップをつむいでいってください。
グラサンかけた子どもがウクレレ持ってるジャケットがラブリーすぎる、オレゴンのマイナーSSWのアルバムより。こんなものまでCDになる世の中というのは、本当におそろしくてすてきです。それとともに、アメリカという国の底知れない深さをかんじます。こんなすばらしい曲を書くひとが、そこらへんにさりげなくいるっていうのは、信じられない。軽めのAORサウンドがここちよいですが、なによりすばらしいのは、そのソングライティング。
こちらも大阪のスカバンド、マイスティース。ホーン隊が抜けて、一時期の勢いはなくなりましたが、それでも若いスカバンドのなかでは、随一です。このバンドは、ときおり毛布に包まったような、あたたかくてやさしい曲をつむぎますが、この曲もそのひとつ。このバンドは、アルバムの完成度も高くて、アルバム単位でぜひ買うべきバンド。
昨年待望の再発なった、ジャマイカの生ける伝説、リコ・ロドリゲスの90年代の逸品。トロンボーン奏者でこんなにはまったひとは、いまのところこのひとをおいてほかにはいません。自身で歌う「この素晴らしき世界」は、一聴するところ飄々としていながらも、重ねてきた年月がかんじられるすばらしい作品です。
3月のニューアルバムも楽しみなキリンジの、兄のソロ作品より。このアルバムからは一曲もシングルは切られませんでしたが、もし切るなら絶対これだろう、というくらいに傑出した曲。PVもつくられていましたね。このひとにしてはすなおな歌詞を書いている感じがします。ちなみに、コーラスはクラムボンの原田郁子。すてきなシティ・ポップです。キリンジには、ゆっくりでいいから、ずっとすばらしいシティ・ポップをつむいていってほしい。
以前よりますます雑多になった聴きかたにより、なんともいろんなジャンルにまたがったコンピになってしまいましたが、案外まとまりはできたのではないかな、とひそかに思っています。さて、どうでしょうか。
光栄にも、すでに何人か、このコンピをほしいと言っていただいたかたもいらっしゃいますが(ありがとうございます)、もしほしいかたがいらっしゃいましたら、メールかコメントをいただければ幸いです。
あたたまる作品、とつらつら考えてみると、どうも、きびしさ、暗さもふくみながらのやさしさ、あたたかさに、惹かれるようです。マイナスの雰囲気によって、よりいっそうあたたかさが強調されるからかもしれないし、暗い雰囲気の曲は外の寒い空気で、やさしい雰囲気の曲はいまここのあたたかい空気だ、と無意識に思ってしまうからかもしれません。
思えば、ボサノヴァの魅力というのは、けっこうそこに還元できるような気がします。9割のやさしさと、1割のしょっぱさ。バファリンの半分は、優しさでできています。じゃあ残りの半分は?っていう話です。残りの半分に、実は、からだを楽にする成分が入っている。音楽も一緒で、やさしさだけでは、きっとひとは楽にできない。苦み、しょっぱさがあってこそ、本当にあたたまる音楽ができるのではないでしょうか。
ギターポップをずっと聴いているとたまにつかれるのは、ほとんどの含有物が「やさしさ」だからじゃなかろうか、と、最近なんとなく思っています。
2008/01/25 22:37 こんばんは。エリスの娘さんのアルバムは、まだ聴いていないのですが、よいという評判ですね。ただ甘いだけの音楽って、あたたまらないと思うんです、個人的には。言うなれば、ぼくはやらないですが、メロンに生ハムのっけるのとか、トマトに塩かけるのとか、あたたかい音楽における「しょっぱさ」は、そんなものに近い気がします。

 

[ 374] Gazing at the Celestial Blue
[引用サイト]  http://azuryblue.blog72.fc2.com/

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市職員が生活保護女性にセクシャルハラスメントを行ったとして訴えられて敗訴・賠償命令を受けた羽曳野市の件、その後 (05/24)
村野瀬玲奈の秘書課広報室:青少年インターネット規制法案に対する意見および保護者とともに行う自主的な取組みについて (+引き続き緊急行動のお願い) (05/30)
近頃、、、でもないけど、ライブドアブログを見る機会が激増している。そして、ライブドアブログに限らずではあるが、広告が表示されるブログサービスは多い。楽天やココログあたりだと、ランダムな商品広告が表示されているだけだろうと見当をつけているが、ライブドアブログの広告は、面白い。どうやら記事内容にあわせて広告を表示する仕様らしいのだが、その狙いっぷりが素晴らしいのだ。 以前かなりウケたのが、師匠の2007年09月23日付エントリ「あの自民党にも、ついにいきすぎたジェンダーフリーの魔手が!?」。自民党がなんと、男女混合名簿を使っているという大発見のレポートだったのだが、ふと見ると、そこの表示されていた広告が。。。
面白かったので、すかさずスクリーンショットを撮りコメント欄でたれ込んだ^^(当時とは、FC2のファイル格納場所設定が変わっているので、あのタレコミのURLでは表示できなくなってしまいました) そして、その後にウケタのが、2008年02月04日付の「自由を求めて」。愛らしいゲンタ君のお姿に和み、ふと、また広告に目をひかれた。 アップしてみる。 …なるほど。可愛いゲンタさんのエントリにあわせて、ゲンタさんの健康を増進するゼリーの広告を表示している訳か、と納得した。ほら、カブトムシだってゼリー食べるんだし。そして、なんの気無しにクリックして訪問してみた。たまには広告を見るぐらいも愛想ってもんだろうぐらいの気で。すると。。。亀ゼリーってそっちかいっ!!!…キャー、ごめんなさいごめんなさい。思わずスクリーンショットを採っていたので、この際に蔵出し(^^;
2008年5月23日発売の、とある新刊情報をキャッチ(笑)。稲田朋美氏、八木秀次氏、渡部昇一氏らの共著によると目にしただけで、口元がほころぶ人や下目使いになってしまう人が、当ブログのお客様には多かろうと思いつつ、、、普通の新刊だったら私がブログエントリに書きたくなる訳がないってことでしてw
書籍のタイトルは『日本を弑する人々』出版社の紹介ページにあった「内容」は「グローバリズムが日本を救う」「ご負担軽減のために宮中祭祀の廃止を」「勝者が書いた歴史を受け入れよ」……本当にそれでいいのか?同じところにあった「解説」では、「戦後レジームからの脱却」を掲げ、保守層ならびに多くの日本国民の期待を担って登場した安倍内閣は、教育基本法の改正や教育三法の成立、防衛庁の省昇格、憲法改正の国民投票法の制定など、政策では歴代内閣と比べてもはるかに大きな功績を残した。では、なぜその政権が昨年7月の参院選挙で歴史的大敗を喫したのか。また、そうした「保守退潮」の機をうかがっていたかのように台頭しつつある勢力の「狙い」とは何か。…えー? そんなに危惧してらっしゃる程、「保守体調」、、、おっと変換ミス「保守退潮」じゃないのでは?と思いますけどねぇ。「グローバル資本主義、構造改革が日本を救う」「慰安婦非難決議に対する日本の弁明は無用」「差別に泣いている人たちのために人権擁護法を」「皇室のご負担軽減のために宮中祭祀の簡素化・廃止を」「映画『靖国』の上映中止事件は、表現の自由に対する制限だ」……彼らの言説を信じていいのか?確かに、鵜呑みに信じていいとは思いませんが、だからといって、この本の著者氏らの主張を信じるかどうかは別問題でして。われらが祖国「日本」を殺し、息の根を止めようと狙う内外の確信犯、無自覚にも“善意”で日本を弑する結果を招こうとする人々を名指しで糺す。はぁ。で、その名指しされた人は誰?と思うと。 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 通巻第2207号 (6月1日発行)によると(我ながら愛読しているなぁ)、岡崎久彦氏、岡本行夫氏、加藤紘一氏、栗山前駐米大使、村田晃司氏、野田聖子氏といった面々らしい。よく知らない人もいるが、加藤紘一氏は入るだろうな(河野洋平氏は入らないのだろうか?)と思いつつ、岡崎久彦氏が俎上に上っているのが大変意外である。 ちなみに、ご購入希望の方のために、ちゃんとamazonにリンクを貼っておこう(上記の出版社の紹介ページからも購入可能)。 『日本を弑する人々』を購入希望の方はこちらから。何故、リンク先がそこ?というのは、まぁ、気にせずに(笑)。 でも、念のため、amazonの商品画面もスクリーンショットでご紹介。…2008年5月23日発売の本が、6月1日時点で売りに出されている。。。気の早い人がいるのだと、一旦買った本はしつこくもっている私は思うのだった。 ま、それやこれやの内容とかはともかく、私がこの本で一番感心した点は、そのタイトルだったりする。『日本を弑する人々』弑する?「弑逆」の弑だ。ただ単に「日本を殺す人々」ではない。主君等を殺害する場合だろう。念のため、辞書も引いておく。大辞林によると「目上の者を殺す。主君・父などを殺す」。他の辞書でも、一般的な慣用例でもそう違わないはずだ。 …ネットのごく限定した片隅で流行した言い回し「日本に住まわせてもらっている」と、この名文句を発言した大変に腰の低いネットワーカーを思い出してしまうのは私だけではないだろう。
少し前から、気になってた報道がある。私が訪問するブログあたりでは常識となっている様子だが、日本の(社会教育費は除く)教育支出額はGDP比にして3.5%ほどであり、これは、経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均である5%よりは、はっきり少ない。 この日本の教育投資額を、OECD加盟国並みにしようとしている動きがあるが、それが迷走している、らしい。 この度、遡って探した報道を日付の古い順に情報の多そうなところを、まず、チェックし直す。2008年5月1日付の読売新聞で、『 文科省と財務省が教育支出で衝突 教育支出に数値目標GDP5%、リンク切れ時用の スクリーンショット(読売080501分)はこちら』 「中央教育審議会」(文科相の諮問機関)による教育振興基本計画の答申が、4/18にまとめられたそうで、この時点で出た内容は「欧米主要国と比べて遜色ない教育水準を確保すべく、教育投資の充実を図ることが必要」という文言が入っていただけだったそうである。しかしその後、文部科学省は、教育支出額を今後10年間かけてOECD加盟国平均である5%まで引き上げるという数値目標を「教育振興基本計画」に盛り込む方針を決めた、と。しかし、財務省は歳出削減の観点から教育投資額の目標の明記に強く反対中で、いろいろやりとりがあったり、自民党文教族議員が首相官邸を訪れたりとややこしいことになっているらしい。この報道で気になる記述は、(以下、強調等は引用者による)
(略)文科省が打ち出したGDP比5・0%という数値は、経済協力開発機構(OECD)諸国が教育支出にかけている公的資金の平均値。日本は現在3・5%で、日米の大学生を比較した場合、一人あたりの公財政支出(年間)は、日本の67万円に対し、アメリカは106万円と39万円の開きがある。 中教審の審議では「教育投資の充実は国力の維持・向上に最低限必要」(安西祐一郎慶応義塾長)といった意見が相次いだが、財務省との事前折衝で数値を入れることを拒まれて断念。自民党文教族からは「この答申では教育水準は上がらない」などと強い不満があがっていた。(略)しかし、4月30日に自民党議員約20人と面会した額賀財務相は「教育への投資も重要だが、投資より効果が上がる方法もあるのではないか」と慎重で、先行きは不透明だ。 この件の報道が次に集中するのは9日。渡海紀三朗文部科学相が、この日の午前に、自民党政調の文部科学部会が主催した文相・文科相経験者との会合をもったことを受けての話。森喜朗元首相が「教育振興基本計画」は「教育予算を取るものだから」と数値目標明記を求め、渡海文科相が「教育支出を経済協力開発機構(OECD)諸国平均の対GDP比5.0%並みに引き上げる」としたそうだ。そうして、文科省原案は、教育投資について「教育への公財政支出が個人、社会の発展の礎となる未来への投資であることを踏まえ、5.0%を上回る水準を目指すべきだ」となったそうである。 9日周辺で集中した報道で面白い記述のあったのは、2008.5.9 18:43付のMSN産経。『 教育投資はGDP比5% 振興計画で文科相 財務省の反発必至、 リンク切れ時用のスクリーンショット(産経080509分)はこちら』(略)計画実現には新たに年間約7・4兆円の追加支出が必要になる。政府は5月中に閣議決定したい考えだが、財務省の反発は必至で調整は難航しそうだ。 渡海文科相は同日の閣議後会見で「与党でも数値目標を入れるべきだとの意見が出ており、入れる方向で考えたい。早急に文科省案をまとめたい」と述べた。(略)教育界や自民党文教族には、教育水準を高めるために投資増額を求める声が強い。 一方、財務相の諮問機関、財政制度等審議会(財政審)は「日本は小さな政府で子供も少ない。生徒1人当たりの公教育支出は主要先進国G5(日、米、英、独、仏)の平均を上回る」と反論している。(後略)…確認しておくと、文科省が外国(アメリカ)と比較しているのは大学生、財務省が外国(G5)と比較しているのは生徒(中学生、高校生)。 そして、20日には 教育再生懇談会が「グローバル化に伴って国際的な人材育成競争は激しさを増しており、財政的基盤の確保が不可欠」として、「教育投資額を国内総生産(GDP)比5%に引き上げる数値目標の明記などを求めた緊急提言」を発表。 というのが前振り。ようやく、私がお持ち帰りして展示したい意欲に駆られた報道に辿り着く。 2008年5月29日14時39分 読売新聞より、『 教育予算7兆増なら幼稚園無料・私大生に30万…文科省検討、リンク切れ時用の スクリーンショット(読売080529分)はこちら』29日に文部科学省が、教育支出がGDP比で3.5%から5%になった場合の増額分の予定使途を公表したことについての報道。これの表現がすごかったので感心したのだ。 (略) 低所得者世帯の大学生の授業料免除や私立の高校・大学生などへの授業料減額などに約2・2兆円をつぎ込むなど大盤振る舞いが目立つ。財務省は反発を強めており、振興計画の閣議決定は6月中旬以降にずれ込みそうだ。(略)自民党の文教族議員から「教育にかけるお金をきちんと書き込むべきだ」など“激励”の声があがり、文科省は計画原案で数値目標を織り込んだ。 一方、財務省は「財源や使途が不明」と反発。このため、文科省は増額分約7兆円の使途を急きょまとめた。 年収200万円未満の家庭の大学・短大生の授業料は免除、500万円未満は半額免除する。すべての学校施設の耐震化に約1兆円、3〜5歳児までの幼稚園と保育所の無償化費用として計約7700億円を盛り込んだ。また、文科省は同計画に教職員定数の2万5000人増員を盛り込んでおり、この人件費を1750億円と試算している。…「大盤振る舞いが目立つ」そうで、激励をわざわざ“”でくくってましてよ、奥さん。この報道単独だと、現行のGDP比で3.5%を何故5%に増やそうという動きが出てきたのか、理由が述べられてないですねぇ(他社報道を見比べたら解るにしても)。それに、どこかで少子化を問題視するオコトバを見かけるような気がするんですけど、幼稚園や保育所の無償化、結構な事じゃないのですかねぇ。 だいたい、来年即やりますってわけじゃなくて、今後10年間かけての数値目標って報道が、これに先立ってあったような? そう言う訳で。この記事を書いた読売新聞の記者氏や財務省のお役人の皆様が、以下の様な件をご存じかどうか、とても不安になったのでした。『 日本私大教連ホームページ』の『 国際人権規約・高等教育無償化条項の留保撤回を!』の出だしのみ引用、 日本政府は、国際人権規約「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約。A規約とも言われる)を1979年に批准しましたが、そのうち、高等教育の漸進的無償化を定めた第13条2項(c)をはじめ、4つの条項について留保し続けています。 高等教育無償化条項を留保している国は、締約国151カ国(05年1月25日現在)のうち、日本、マダカスカル、ルワンダの3カ国のみです。 批准から25年あまりの間、日本政府は、留保撤回を求める私たちの声に背を向け、国会審議や附帯決議も無視して、留保に固執する姿勢をまったく変えようとしていません。 こうした政府の姿勢は、世界的にみて日本の高等教育予算が最も貧困(対GDP比でOECD加盟国平均の約半分の0.5%)であること、私立大学への経常費補助がきわめて低い水準であることと直結しています。 国際人権規約「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第13条2(b)及び(c)とは、同ページから、 (b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。 『学費無償化関連資料』より「ニ)批准の際の日本の書簡」より一部引用、3 日本国は、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約第十三条2(b)及び(c)の規定の適用に当たり、これらの規定にいう「特に、無償教育の漸進的な導入により」に拘束されない権利を留保する。(略) 千九百七十九年六月二十一日国際連合日本政府代表 特命全権大使 安倍勲(署名) えーっと、日本という国は、確か、国連人権理事会の理事国で、ついさいきん、普遍的定期審査も受けてましたね?一応、人権をないがしろにしている国と対外的に見られるのは避けたいはず、なんですよね?その他に読んだサイトやブログの参考、・『捨身成仁日記』さんの2008-05-27付『確かにOECD加盟国としては夏時間不採用は少数派だね、でもね……』・毎日新聞 2008年5月29日 東京朝刊、 教育予算:「GDP5%」で攻防 文科省増額方針、財務省は反発、リンク切れ時用のスクリーンショット(毎日080529分)はこちら』・2008/05/30 01:59 共同通信、『さらに1万人教職員増要求 主幹配置や学習障害対応に』・『 国際人権A規約第13条の会』・『 全国国公私立大学の事件情報: 国際人権A規約第13条の会 アーカイブ』・2005年1月13日(木)「しんぶん赤旗」、『大学評価学会が外務省に要請 高等教育無償の国際原則実現を』・2004年11月1日(月)「しんぶん赤旗」、『「高等教育無償化」条項留保撤回を国連が勧告』憲法が保障する教育の機会均等が損なわれています。(略)これは、世界の常識から見れば異常事態です。(略)欧米諸国では、学費は無償か安価で、奨学金も返還義務のない「給付制」が主流です。高等教育をうける権利を保障するために、その無償化をすすめる ――これが世界の流れとなっています。これに対し、日本は(略)高等教育をうける権利保障という面で後進国となっています。(略) これが二〇〇一年の国連社会権規約委員会で問題となり、同委員会は、日本政府に対し、「高等教育の漸進的な無償化」条項の留保の撤回を検討することを勧告し、二〇〇六年六月末までに勧告にもとづいてどういう措置をとったのか、NGOや市民とどのような協議をしたのか、報告を要請しています。(略)いま、大学関係者の間で、これを「二〇〇六年問題」と呼び、高学費を人権問題として広く告発しようという議論がひろがっています。
(略) 28日の控訴審の第1回口頭弁論では、韓国から来日した原告の羅贊徳(な・ちゃんどく)さん(79)が出廷し、「女子挺身隊として連行され不二越では言葉に尽くせない苦労をしたが、韓国では挺身隊が従軍慰安婦と混同されているため、帰国してから60年間、その苦労を家族にも言えなかった」などと訴えました。(後略) そして、毎日新聞から(略)この日に合わせて来日した原告の羅贊徳(ナチャンドク)さん(79)が「どうか弱者に目を向けて、正義に基づいた判決を」と、絞り出すように訴えた。 原告の平均年齢は78歳。既に3人が亡くなっている。この日、羅さんは証言台の椅子に座ると、虫眼鏡を持ち上げ、準備書面をのぞき込むようにしてゆっくりと読み上げた。戦後ずっと胸の中にしまっていたが、黙っていてはいけないと、提訴に踏み切った経緯を説明した。 1枚の集合写真が掲げられた。入社式で撮影した若い羅さんの姿があった。古里の家族に送ったその写真は右端が切り取られていた。羅さんは「挺身隊と書いた旗が写っていました。両親が驚くと思い、私が切り取りました」。そうつぶやいた。 他の原告の仲間たちについても「夫や子に、慰安婦だったと誤解されて崩壊した家庭もある」と証言した。(後略)この裁判は第二次訴訟であり、これに先立つ第一次訴訟では、平成12年に最高裁判所で不二越側が韓国人女性7人に対し3千数百万円の解決金を支払うことで和解が成立しているという。第二回口頭弁論は9月8日に開かれる予定だそうだ。 追加情報を探していると、こんな魚拓が残っていた。毎日新聞 2007年9月4日、『勤労挺身隊訴訟:「第2次不二越訴訟」判決控え、上野千鶴子さんが富山で講演 /富山』(略) 戦後生まれの国民が増え、「生まれていない時の責任を取る必要はない」との声があることについて、上野教授は、ドイツのナチ政権とは違い、日本の政権には戦前からの連続性があり、戦時中の負の歴史を背負う義務があると主張した。 慰安婦被害者が半世紀も沈黙せざるを得なかった理由について、「汚された人」と見る風潮が貞操観念の強い韓国内でも強く、身内から「家族の恥を外にさらすな」という風潮が強かったことなどを挙げた。そして挺身隊員が従軍慰安婦と混同されたため、提訴が遅れたと説明。提訴に踏み切った勇気に触発され、支援していることなどを話した。 さらに95年に設立された「アジア女性基金」が中途半端な形で今年解散してしまったこと、在日コリアンへの就職差別が現在も続き、選挙権もないことなど、今も残る人権問題について触れた。 主催した人権問題を考える市民グループ「クローバーの会」では、判決を前に「苦労して帰り着いた故郷でも“日本協力者”として冷遇された人たちの立場を理解し、人道的な見地から自発的に被害者を救済してほしい」と訴えている。 一審判決はカナロコ2007/9/19より、『強制労働認定、請求は棄却 不二越2次訴訟で富山地裁』(略)富山地裁は19日、原告の請求を棄却した。強制連行と強制労働の事実は認めた。佐藤真弘裁判長は判決理由で「挺身隊への勧誘は虚偽や脅迫によるもので、不二越での労働は賃金が支払われず、外出が制限されていた」などと述べた。 一方で、サンフランシスコ平和条約と1965年の日韓請求権協定により「韓国とその国民は日本に対し、請求権を主張できないとされたのは明らかだ」と指摘。被告側は、請求に応じる法的義務はないと判断した。(略) 判決によると、李さんらは12−19歳だった1944年5月から翌年3月にかけて「上級学校に通える」などとうその説明を受け、朝鮮半島から日本へ渡航。 そして、このサイトを見つけて読み、どう表現していいやら言葉が詰まった。『関釜裁判ニュース第46号 女子勤労挺身隊訴訟の経過と現状』から一部(強調は引用者による); 「挺身隊」被害者の名乗り出を促した時に、「慰安婦」被害者と勤労挺身隊被害者がともに名乗り出たことにこの問題の深刻さがありました。呼びかけた支援者たちは勤労挺身隊被害を想定しておらず、「挺身隊」=「慰安婦」の認識のもとに呼びかけたのです。その韓国社会での認識の混乱が勤労挺身隊被害者を長く苦しめ、沈黙させ、韓国社会に被害事実を知らせることができませんでした。名乗り出てからも日本軍「慰安婦」被害者の名乗り出の衝撃性のなかで、韓国のマスコミはあえて勤労挺身隊被害を無視し、多くの勤労挺身隊被害者は二次被害を恐れ再びの沈黙を余儀なくされました。 …「日本軍慰安婦」被害の悲惨さについては、これまで、できる限り知るように努めてきたつもりだ。だが、こちらはこちらで、もうなんと表現していいやら途方に暮れるしかない。いい加減、未清算の戦争責任を目にして暗澹たる思いをしなくてすむようにならないものだろうか。…でも、「慰安婦」被害に関してさえ、国際社会が要求しているにもかかわらず、公式謝罪等から逃げ回っている政府だもんな。『第二次不二越強制連行強制労働訴訟』から「不二越による強制連行・強制労働に対する第2次訴訟を支援する北陸連絡会声明」の一部; この裁判で原告の求めているものは不二越で働いた自らの賃金と賞与を払って欲しい、不当な差別的労務と厚生管理に対する謝罪と補償をして欲しいという人間として当然の要求であります。私たちは日本国民一人一人にも、戦後60年近くにわたり、わが国の戦争責任と企業責任を直視せず、被害者の解決のために立ち上がってこなかった共同責任があることを明らかにしていく必要があります。その他、参考;・『関釜裁判ニュース第53号 判決の問題点と今後』さらに追記で参考;「Apes! Not Monkeys! はてな別館」さんの2007-09-20付「[戦後責任]第二次不二越訴訟」CHUNICHI Web 2007年9月19日付報道への魚拓リンク有り。原告支援団体のサイトへのリンクもあるが、現在はこちらのリンクからアドレスが移転しているようだ(誘導有り)。新アドレスへのリンク;「第二次不二越強制連行強制労働訴訟」
「妄想科學日報」さんの「意向に沿うべきか諫言すべきか」経由でみた、人力検索はてなのとある質問。 血液クレンジング療法なる、名前からしてアレな療法が話題なんだそうで、それの問い合わせに対し、親切な人が質問者に回答しているのだ。 で、血液クレンジング療法のサイトがこちら。説明から一部引用。
もし、血液が不健康だと、十分に酸素や栄養素を運ぶことができないので、大病を引き起こす恐れがあります。動脈硬化をはじめ、狭心症、心筋梗塞、脳内出血、脳梗塞などになることもあります。実は、血液の状態が悪いと、老化の促進に繋がります。そして最悪の場合、免疫不全によってガンになることもあります。なので、人間にとって血液とは、本当に大切なものなのです。…えらく飛ばした説明である。そこで、今最も注目を浴びているのが、血液クレンジング療法なのです。血液クレンジング療法は、オゾン療法と言われています。この血液クレンジング療法をすることによって、血液やリンパ液が浄化され、疲労を感じなくなり活力が回復します。そして、活性酸素が取り除かれるのでストレスの解消にもなります。新陳代謝も活発になるので、精神的にも肉体的にも老化を防ぎ、若返りの促進をします。また、免疫細胞の活性化で、細胞内ATP濃度が上がり、病気が治りやすい、病気の再発予防、老化防止にもなります。(^^;;;;; 間を飛ばして、じゃ、その療法は、と見てみる。最後に、血液クレンジング療法の副作用についてお話します。結論は、副作用はありません。というのも、血液クレンジング、一般的にはオゾン療法ですが、オゾン自体は薬ではないので副作用はありません。副作用がないので、気になる方は血液クレンジング療法を受けてみて下さい。…オゾンを治療薬として用いた話って聞かないが、、、だが、オゾンで殺菌するぐらいなんだから、生きた細胞にオゾンは害だぞ。 そして、その療法を施す銀座の某クリニックがこちら。テレビ等にもかなり取り上げられているらしい。 アンチエイジングのための検査として、血液解析検査、血管年齢検査、血液ライブ検査、活性酵素体質検査、有害重金属検査をしてから、アンチエイジングのための治療法として、キレーション(血管を柔らかくするためにキレート剤を点滴する、、、って、大丈夫なのか?)、血液クレンジング(動脈を若返らせる最先端医療として血液をオゾンによって洗浄、、、って、おいおい)、血流改善療法(日本で唯一の米国栄養療法認定医だからできるんだって)をするらしい。また、その他に上げられている治療法では、肩こりや腰痛に行うらしい『血の巡りが劇的によくなる「オゾンツボ打ち注射」』で、このオゾンツボ打ち注射を行うと、その直後から患部の血行が劇的によくなります。これは、オゾンに血の巡りをよくする働きがあるからです。オゾンを患部に注入すると、すぐに注入した部分の皮膚に赤みがさします。これをサーモグラフィという温度を感知する検査器械で測ると、患部の温度が上昇していることがわかります。つまり血行がよくなっているのです。オゾンツボ打ち注射は、このように、たちどころに効果が表われるのも特徴です。…それ、局所にむやみやたらな(*)急性炎症起こしてないか? あるいは、「ホルモンの原料を与えることによって、若返りホルモンの値を高めていく」「患者様ご自身がすでにお持ちの“自分のホルモン”を刺激して、分泌を促」すという『薬に頼らない「ホルモン補充療法」』とか(動物性タンパク質を食事に取り入れるんだろうか…)。 はたまた、「非常に画期的なのがDNA癌検査です。自分の体が将来癌になるかどうか、まったくその心配がないのか、遺伝子によって調べることができ」る、DNA癌検査とか。……将来癌になる心配が全くないって、それまず無理だから。ちなみに、このページには文字を大きくして、こう書いてある。しかし、このDNA検査では、PET検査で癌だと診断される10年前に、将来癌が起こるか否かわかります。これまでにない、非常に画期的な検査方法なのです。…………10年前の検査対象をトレースして、ちゃんと検証しているのだろうか?…………どこを見てもすごいサイトですので、当ブログのお客様に是非ともご紹介したくなったのでした。見るだけで疲れたから、皆様におすそ分け(^^;ついでに見つけた関係サイト;「ウイスマー研究所/株式会社ウイスマー | ウイスマーニュース | vol.14」*;コメント欄での、もっともなご指摘を勘案しつつ、端的さを維持しつつ(?)より適切なつっこみになるよう、一言追加。
昨日のエントリに追記しようかと考えたけど、長くなりそうなので独立。 毎日新聞 2008年5月24日 地方版の『アイヌ民族:「先住民族」国会決議案まとまる 政府、将来の補償懸念 /北海道』で決議案の要旨を見つけたので、お持ち帰りで保存。 我が国が近代化する過程で、アイヌ社会や文化の破壊が進み、「同化政策」により伝統的な生活が制限、禁止された。法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたアイヌの人々が多数に上ったという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない。 アイヌが民族としての名誉と尊厳を回復し、その文化と誇りを次世代に継承していくことは、国際的な価値観の共有であり、我が国が21世紀の国際社会をリードしていくためにも不可欠である。 政府は左記の施策を早急に講じるよう、決議する。 (1)政府は、アイヌの人々を北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認めること。 (2)政府は、高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策を推進し、総合的な施策の確立に取り組むこと。しかし、上記報道には、以下の言及もあった。
政府内では「宣言に規定される権利を要求されると困る」という意見が根強く、先住民族の認定は消極的だ。 政府内の懸念について、議員の会世話人の鈴木宗男・新党大地代表は「ウタリ協会は大所高所にたって判断してくれている。政府や行政が懸念しているような話はない」と否定。代表世話人の今津寛・自民党道連会長も「加藤理事長は『土地の問題などはいっさい要望しない』と町村信孝官房長官にはっきり伝えている」と述べ、先住民族の認定と具体的な権利要求を切り離しているという考えだ。『国会決議に向けた動きについて(北海道ウタリ協会の)加藤理事長は「言葉にならない。うれしくて言葉にならない」と涙を浮かべながら感謝の意を示した』という。 なお、「北海道ウタリ協会」というのは、 アイヌ民族の社会的地位の向上と文化の保存・伝承を目的に1946年、社団法人北海道アイヌ協会として設立された。「『アイヌ』が差別的に使われている」との会員の意見で、61年にアイヌ語で同胞を意味する「ウタリ」を使った現在の名称に変更した。(西日本新聞2008年5月26日づけ、『「先住民族」認定 アイヌに追い風 今国会 決議採択へ 政府は慎重姿勢 土地や資源の権利主張警戒』より)ということで、「ウタリ」という単語の意味と、何故この単語が使われているかを知りませんでした、すみません。 そして、この西日本新聞の報道でも政府は慎重な姿勢を崩しておらず、教育や生活支援などアイヌが求める具体的な施策も実現するのかは不透明だ。(略) 先住民族との認定は、長年にわたるウタリ協会の念願だ。1997年に北海道旧土人保護法が廃止され、アイヌ文化振興・伝統普及法(アイヌ新法)が制定されたが、そこでもアイヌは先住民族とは位置付けられず、政府は今も認めていない。 認めると「先住権」として土地や資源などに対する権利などを主張されかねないとの懸念があるためだ。と報じられている(溜息)。 だが昨年9月、国連総会が「先住民族の権利に関する宣言」(国連先住民族権利宣言)を採択。これを受け国会議員が「議員の会」を結成し、風向きが変わりつつある。(略) 加藤理事長は今月16日、札幌市での総会で「いよいよ名称に民族名をかざす時が来た。歴史的な大転換点だ」と呼び掛けた。来年4月から名称を設立当時の「北海道アイヌ協会」に戻すことを決定。…ちなみに、日本は、2006年年5月10日の選挙では、アジアグループで、173票のインド、165票のインドネシア、160票のバングラデシュについで、第四位の158票を獲得して当選した、国連人権理事会の理事国なのだそうな。公式謝罪はしないのかな?参考ブログエントリ;・『vanacoralの日記』さんの2008-05-25付『チンピラnekoponはどの口で「フリー・チベット」、って言えるのか』上記を経由して、・『捨身成仁日記』さんの2008-03-26付『そもそも日本政府はアイヌを先住民として認めないときっぱり言ってるじゃんか?』・『NC-15』さんの2008-03-25付『チベット問題との温度差をすげえ感じた』
各紙で23日頃に一斉に報じられていた、こんな報道があった。ここではリンクをasahi.com 2008年05月23日15時04分付の『アイヌ民族は「独自性有する先住民族」国会決議案 』に貼っておくとする。 自民・民主・公明・共産・新党大地各党の道関係の超党派議員6人(世話人代表は、自民党の今津寛衆院議員)による「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」が23日、今国会での採択を目指す「政府はアイヌの人々を独自性を有する先住民族として認めること」などを求める国会決議の文案をまとめたとか。 決議案の軸が、《1》先住民族として認める《2》名誉や尊厳、権利の確立を図る《3》政府にも先住民族の認定を働きかけるであるという報道(北海道新聞05/15 06:41付)もあり、上記リンク先の朝日新聞報道ではさらに、(略) 決議文案は、アイヌの人々について、近代化の過程で労働力として拘束、収奪されたため社会や文化が破壊され、同化政策で伝統的な生活が制限・禁止されたとして、「法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされた歴史的事実を厳粛に受け止める」と明記。そのうえで、独自の言語・宗教・文化をもつ北海道の先住民族と認め、「高いレベルで有識者の意見を聞き、これまでのアイヌ政策をさらに推進」するよう政府に求めている。各党は党内調整に入るが、世話人の一人は「自民党内の調整に時間がかかる」と語った。 政府は96年の有識者懇談会報告書でアイヌ民族の先住性・民族性を認めたが、土地補償などの権利主張が頻発する懸念から、先住民族と明確に認めることには後ろ向きだ。(後略)この日の町村官房長官記者会見の言によると、2007年9月に国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国連宣言」に、日本も賛成票を投じていることから、決議が採択されれば有識者会議の設置などには前向きに対応する考えを示したとの話だった。 政府は、それなりに前向きのようだ(サミット前だからかもしれんけど)。 しかし、北海道新聞の24日付社説にあった記述が、興味深かったので魚拓付きで保存。『先住民族決議 次は政府が応える番だ 』
(強調等は引用者による)(略) 超党派の国会議員による「アイヌ民族を先住民族とする国会決議」の案がまとまった。(略)来週にも国会で決議される見通しだ。 アイヌの人々が歴史的に受けてきた差別や苦痛、さまざまな不利益を思い起こしたい。その反省に立って政府は国会の声を真摯(しんし)に受け止めるべきだ。 一九九七年にアイヌ文化振興法が成立した際に、国会は付帯決議で、「アイヌの人々の『先住性』は歴史的事実」と確認した。今回のは一歩踏み込んだ内容となる。 度重なる国会決議が出るのは、政府が、アイヌ民族を先住民族と位置づけることを頑として拒んでいるからだ。 国連は昨年の総会で「先住民族の権利に関する宣言」を採択した。日本政府はここでも、先住民族の集団的権利や財産権を事実上認めないという条件付きで採択に賛成した。(中略) 国連人権理事会も今月上旬、日本政府にアイヌ民族との対話を勧告している。 政府は懇談会の設置に前向きのようだ。実効ある組織にしなければならない。内外の声を軽視するのであれば人権感覚が疑われよう。(後略)…とっくに日本政府の人権感覚なんて疑われているんじゃないか、と思わないでもない。 疑惑を解消するためには、ここはすっきりと、アイヌ民族の皆様への公式謝罪決議を両院で採択すべきなのではないのか?当ブログ記事で参考;『オーストラリア政府がアボリジニの人達に公式謝罪(追記有) 』『各国政府によって出された公式謝罪の数々 』その他、関連報道;・北海道新聞 05/23 14:04『アイヌ先住民族案を了承 超党派議連 来週内に国会決議の方針』・北海道新聞 05/23 06:42『先住認め施策確立を 「アイヌ民族」国会決議原案 超党派「議員の会」』・毎日新聞 2008年5月23日 北海道朝刊『アイヌ民族:先住権確立へ請願 政府、国会決議条件に有識者懇設置へ』・北海道新聞 05/16 07:44『アイヌ民族の権利確立 超党派議連が協議機関設置要請へ』・asahi.com 2008年05月15日21時54分『「アイヌ民族は先住民族」 国会決議へ超党派で文案作り』
市職員が生活保護女性にセクシャルハラスメントを行ったとして訴えられて敗訴・賠償命令を受けた羽曳野市の件、その後 
エントリタイトルで「その後」と付けているが、当方で取り上げていた話題ではない事をまず、お断りしつつ。 そもそもは、こんな事件。既に大元のサイトからは削除されている報道で、キャッシュも見当たらなかったので引用元は 2ちゃんねる、リンクは切れているけど本来のURLに貼っておきます。毎日新聞2007年10月13日付で「 セクハラ:生活保護申請の女性に 大阪・羽曳野市に賠償命令 」 判決によると、女性は一昨年5月、生活保護の受給を申請。その際に担当のケースワーカーの男性職員から度々電話がかかり、性に関する話題を向けられたほか、「男性を紹介してやる」などと言われた。谷口裁判長は「職員は職務上知ったプライバシー情報を利用した。話を聞くのを拒めば、女性は生活保護で不利益を受けないかと悩み、女性のうつ病やパニック症候群を悪化させた」と述べた。この職員は今年9月、2カ月以上無断欠勤したとして懲戒免職になっている。
被害者は、元職員と市に計340万円の損害賠償を求めたのだが、判決は市に110万円を支払うよう命じたという。元職員への請求は「国家賠償法により公務員個人は責を負わない」として、棄却されたのだそうだ。 このセクシャルハラスメントの詳細は、「 maroon_lanceの日記 」さんの「命綱 拒めぬセクハラ」に詳しい。この記事を読むのは、血圧が高い人にはお勧めできないかもしれない。読むと、頭に血が上るんじゃないかと思う(私はこめかみの拍動を自分で感じましたよ、まったくもう)。もちろん、maroon_lanceさんのせいではない(maroon_lanceさん、ご紹介ありがとうございます)。 …そして、これの後日談で、さらに腹が立ったので、報道を持ち帰った次第。asahi.com 2008年05月24日03時00分付で「生活保護費から賠償金差し引く セクハラ敗訴の羽曳野市」 生活保護の申請をした女性(44)への職員のセクハラ行為をめぐる訴訟で敗訴し、110万円の損害賠償を支払った大阪府羽曳野市が、訴訟費用を除いて女性の手元に残った約24万円を「収入」とみなして生活保護費から差し引いていたことがわかった。専門家は「嫌がらせとしか思えない」と指摘している。(略) 女性の代理人弁護士らによると、市は判決に従って賠償金を支払い、女性の手元には訴訟で証拠採用された電話の録音テープの声紋鑑定費や弁護費用などを引いた24万2千円が残った。市はこれを女性の「収入」とみなし、昨年11月〜今年4月、女性の生活保護費(月約6万6千円)から月1万〜5万円を分割して差し引いた。 一方で、市は国家賠償法に基づき、元職員に女性への賠償金と同じ額を市に支払うよう請求。元職員が応じたため、市は生活保護の減額に加えて賠償金も結果的に取り戻した形になった。 自治体は生活保護法に基づき、受給者が交通事故や離婚などで保険金や慰謝料を受け取った場合、それを「収入」とみなして保護費を減額することができる。一方で旧厚生省は61年、受給者の自立や更生のために使われる分については収入とみなさない、とする通知を出している。 女性の代理人は羽曳野市に「24万円は女性の自立や更生に必要な費用とみなすべきだ」と抗議。「そもそも、訴訟で負けた市が勝訴した側から賠償金を事実上取り戻すのは信義則に反する」と主張している。(後略)…躾の悪い職員を雇用していて被害者に苦痛をしいた癖に、いじましい「嫌がらせ」に見える真似をやらかすのが、羽曳野市という地方自治体であるらしい。
昨日の夏淑琴さんの名誉棄損裁判の原告勝訴報道をメモ。 2008年5月22日(木)「しんぶん赤旗」、「南京大虐殺 生存者が勝訴 二審も名誉棄損認める 侵略美化 教授らに賠償命令 東京高裁」(強調等は引用者による)(略) 控訴審で東中野教授側は、米国人宣教師が虐殺現場を記録したフィルムは夏さんの事件とは「別件」でねつ造されたものと主張。フィルムの解説文は宣教師の「創作話」で、「八歳の少女」は「空想の産物」なので、実在する夏さんとは別人であり、記述は名誉棄損にあたらないと新たな主張を展開しました。 判決は、一審の口頭弁論などで被告の著者らが解説文の内容や「八歳の少女」の存在を認め、東中野教授もその趣旨の陳述書を作成していたと指摘。被告側の主張は「採用できない」として棄却しました。引用中断。…例によって、自爆したって事ですね。(略) 弁護団は声明で、日本の侵略戦争を美化する勢力を批判。「過去と向き合い、事実をありのままに受け入れることからしか、侵略の歴史への反省はありえないし、真のアジアの平和の構築も実現しない」と同訴訟の意義をのべています。 中国で判決を聞いた原告の夏さんは「今日の勝訴は大変感動した」「私一人だけではなく、南京大虐殺被害者を代表し、事件の事実が認められたことを心からうれしく思う」とコメントを寄せました。 中国の弁護士は「本日の勝訴は歴史の事実を抹殺することはできないことを改めて証明した」とコメントしました。 中国でも多数報道されていました。
その一つ、來源:新華網の2008-05-21 23:40:30付 CRI onlineを自動翻訳で一部を大まかにメモ。「夏淑琴反訴日本右翼案二審勝訴」から一部。 新華社電によると、日本の東京高等裁判所は21日昼、南京大虐殺生存者の夏淑琴氏が日本の右翼を訴えていた訴訟の二審判決として、第1審と同様に夏淑琴氏の勝訴とした。報道によると、これは日本の裁判所がまた法の場で南京大虐殺の史実を守る判決を下したことであり、意義が重大である。 80歳の夏淑琴氏は「日本の裁判所はこのように公正な判決を下したことは、30万の犠牲者に対する一種の慰めである。」と語った。(略)「このは勝訴は意義が重大だ。中国侵略日本軍の南京大虐殺について、東京高等裁判所が再度判決の方式で南京大虐殺の史実の存在を確認した、いっそう歴史の抹殺は許されないのだ」と、記念館の朱成山館長は語った。 もし東中野修道氏が2週間以内に上訴しない場合、夏淑琴氏による日本右翼の名誉毀損訴訟は終了する。 全球新聞 2008年05月21日 06:50付からもメモ。「 東京高法維持原判 夏淑琴訴日右翼侵權案二審勝訴」から一部。 今日の判決が出た後、夏淑琴氏の日本弁護団は約1時間の後、結果を南京に知らせた。これは、ここ数日間、四川の大地震災害被災者を案じていた夏淑琴氏の元に届いた。氏は、二審勝訴の知らせに感動しつつ、これは私個人の勝訴であるだけでなく、同様に南京大屠殺で亡くなった三十万の同胞を慰謝することだと述べた。そして同時に、日本弁護団の仕事に感謝の意を表した。 南京大屠殺遇難同胞紀念館の朱成山館長は、二審が一審判決を維持したことは、実際には歴史の事実を守り、公平と正義を守ったことであり、真実の歴史は否定することができないのだと語った。 ところが。なぜか同じタイミングでこんな話も拾った。 『 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成20年(2008年)5月22日(木曜日)通巻第2196号』の『読者の声1』より、雑誌『WiLL』で、渡部昇一先生が指摘しているように、石破防衛大臣の歴史認識はまさに自虐史観そのものです。そこで一昨日(20日)、下記の質問状を石破大臣宛に出しました。胡錦濤への公開質問状も同封し、これに答えられますか、ということで問いかけてみました。返答ありやなしや、楽しみではあります。 △平成20年5月20日 防衛大臣 衆議院議員石破 茂 先生既に大臣のところには、に掲載された大臣のご発言に対しての抗議・苦情等が多々届いているものと推察いたします。私もこの記事のことを読みまして、大きなショックを受けた一人です。いろいろな問題について大変勉強されている大臣のご発言なので、愕然たる思いがいたしました。いろいろなポイントがありますが、私は今回南京問題に絞って私見を申し上げ、ご質問したいと思います。是非とも大臣のご見解をお伺いしたいと存じます。《日本には南京大虐殺を否定する人がいる。30万人も殺されていないという。何人死んだかと大虐殺があったかは別問題だ》これはよく言われることですが、南京問題につきましてそれなりに研究してきたものからしますと、とんでもない見当違いといわざるを得ません。南京問題の研究は近年急速に進んでおりまして、もはやそのようなことは到底いえない状況になっております。先日、胡錦濤主席が来日されましたが、「南京事件の真実を検証する会」(会長:加瀬英明、事務局長:藤岡信勝、小生もメンバーです)では、南京事件に関する5か条の公開質問状を提出しました。これは昨年温家宝首相に提出した6か条の公開質問状に回答が無かったので、改めて提出したものです。同封の質問状(実際に出したのは中国語版です)をご覧いただきたいと思いますが、5つのポイントはどれも南京大虐殺が大臣がおっしゃるように実際にあったとしたら、とても考えられないことを指摘しています。これはいずれも確実な一次資料に基づいていますので、如何に中国共産党が一方的な言い分で言いくるめようとしましても、まず「絶対に」反論できないであろうとわれわれは考えております。失礼な言い方かもしれませんが、大臣が胡錦濤主席に変わってこれに答えることができますか? われわれは、これに英文を加えた3カ国語版を用意しまして、5月8日に外国人特派員協会で記者発表しました。産経新聞にはこのことが報じられましたのでコピーを添付します。(朝日新聞等がこれを報じなかったのは残念です。多分、虐殺論を自論のように主張してきたその論拠が崩れるのを恐れてのことでしょう。)英文版をEmail で、海外に発信しましたところ、反論をしてきたアメリカの大学教授が何人かいましたが、われわれが、一つ一つポイントに答えられるかと反論すると結局誰も全く答えられませんでした。ある教授は、Holocaust denier だと非難するので、冗談ではない、ホロコーストを否定しているのは、ポイント一に見るように、毛沢東であり、又ポイント2で見るように国民党(政府)自身であって、われわれはこの事実を指摘しているのだ、というとさすがにそれ以上答えられませんでした。特に決定的なのは、国民党宣伝部国際宣伝処が外国人記者を招いて漢口で南京戦を挟む約一年間に300回も記者会見をして日本の暴虐を針小棒大に発表しているにもかかわらず、ただの一度も南京で市民虐殺があっただとか、捕虜の不法殺害があっただとか発表していないということです。中国政府が当時から南京虐殺非難をしていたと誤解する方が多いですが、中国政府は一度も正式に南京虐殺非難をしたことは無かったのです。ポイント3の南京の人口、そしてポイント4のただの一件も不法殺人が訴えられていないことは、南京市民全員が収容されていた安全区を管理した国際委員会の活動記録である、Documents of the Nanking Safety Zoneにはっきり載っていることです。コピーが添付してありますので、お分かりかと思いますがこれは1939年に上海のKelly & Walsh 社が、国民政府の国際問題研究所(Council of International Affairs, Chungking=重慶)の監修の元で刊行したものです。日本の資料ではありません。こういう状況だったのですから国民党宣伝部が300回も記者会見を開きながら一度も南京虐殺などといわなかったのも当然のことでしょう。すなわち、南京虐殺などというものはそもそもなかったのです。南京戦はありました。日本軍も多くの死者を出しましたが、中国軍は途中で最高司令官である唐生智防衛司令官が部下に指示を出すことなく逃亡したこともあって、混乱し壊滅的な打撃を受けたというのが実際に起こったことです。戦死者は大量に出ましたが、これは戦闘による死者であり、当然のことながらこれを虐殺などと非常識なことを言うものは蒋介石政府を含めて、誰も「当時」いなかったのです。大臣に是非お願いします。もしこの公開質問状と私の説明に疑問な点がございましたら、それをご指摘ください。どんなご疑問にもお答えするつもりでおります。これは日本国家の名誉にかかわり、また外交そして国防上もきわめて重要な問題ですので、私的な問題ではないと考えます。 日本国家の重職を担われております大臣のご見解を是非ともお伺いいたしたく、お願い申し上げます。ご返答を鶴首いたしております。 敬具「南京事件の真実を検証する会」監事「史実を世界に発信する会」事務局長 茂木 弘道 拝情報を見つけたのは今日だが、お手紙発送は判決前であったらしい。…多分、お返事が来ることはないだろう。関連で見つけた情報;『クライン孝子の日記』で『2008/05/19 (月) 渡部昇一氏「石破防相の国賊行為を叱る」』参考を追加;コメント欄でpoppo-xさんに教えていただいた、bluefox014さんによる『茂木弘道氏(自由主義史観研究会/南京事件研究会メンバー)の言説』のメモと分析;・(メモ1)茂木氏の言説にチェックを入れる ・(分析)茂木氏の言説の短絡性・(メモ2)茂木氏、2つもデマ連発・(メモ3)茂木氏が無視した(知らなかった?)日高信六郎参事官の証言・(メモ4)茂木氏が無視した(知らなかった?)稲葉師団長・牛島旅団長の発言・(メモ5)茂木氏が無視した(知らなかった?)第十六師団兵士・外賀関次氏の日記・(分析)茂木氏の2月2日〜4日言説とその問題点・1・(分析)茂木氏の2月2日〜4日言説とその問題点・2・(分析)茂木氏の2月2日〜4日言説とその問題点・3
エントリタイトルだと、まるで月に一回しか衝動買いをしないように見えるかもしれないが、もちろんそんな事はない(と、胸を張って主張する事でもない)。 それはともかく、近頃は油断のならないことに、本を買いに行って違うものを買ってしまうのである。何処の事かといえば、Amazonのこと。いつの間にやら気がついたら、キッチン用品やその他もろもろを売っている。そして、ついうっかり覗いてしまった。 へ〜え、これって便利そう。と思ったら運の尽き(^^;だって、「1500円以上国内配送料無料」なんだから、待っていた新刊の文庫を一冊買いたい時なんかには、つい、ついでに買ってしまうという恐ろしい罠である。
そういうわけで、買ってしまった(^^;衝動買いアイテムの外箱。 プリンを作る場合って、蒸し器を使ったり、鍋で湯煎にしたり、オーブンで蒸し焼きにするものだけど、これは電子レンジで1個あたり1分というのがウリ。箱から、肝心の物を出してみたところ。内容量が150mlだそうなので、小さい目。これが一箱あたり二つ入り。蓋の外周に金属を埋めてあるところがキモなのだそう。 レシピも箱に入っていたので、まずは基本のプリンを作製してみる。卵を一個、牛乳を120ml、砂糖を大匙一杯。作り置きのカラメルタブレットも底に沈めておく。完成。ちょっと表面近くにすが入りかけなので、もう少し加熱加減を調整すべきだったか。…もともと、プリンは好きで作る事もあったのだが、大量にできてしまうという難があるので、少し遠ざかっていたのだけど、これはすごく便利。 ちなみに、プリンの基本レシピとして前から愛用していたのは、こちらの「家庭でできる極上プリン」。カラメルタブレットもこちらの情報から。 そしてこのほど、この衝動買いアイテムに付属してきたレシピで作ってみたわけだけど、カラメルタブレットを入れると、ちょっと甘すぎたみたい。蜂蜜を大匙2/3ぐらいが丁度いいかな、って感じか。そして、ちょっと見映えの悪い写真だけど。醤油で味を付けた出汁120mlと卵一個、それに小松菜と舞茸とエビを入れて、加熱してみたり(^^;ちょっと小さい目なのが難だけど、茶碗蒸し用にもなかなか好都合なのでした。…250ml入りぐらいの、同仕様の容器が欲しいなぁ。

 

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