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取次ぎとは?/ キャッシュワン

[ 68] 裏紙: アマゾン、取次ぎを中抜き
[引用サイト]  http://yugo-yamamoto.cocolog-nifty.com/uragami/2006/02/post_4d7d.html

今までのアマゾンは、書店のひとつですから、通常の書店と同じように取次を介して本を仕入れていました。取次というのは、大手で言えば「日版」や「トーハン」のことです。書店の前でよく見かけるダンボールに社名が書かれています。
この取次が何をしてくれるかというと、出版社と書店をつないで、本をぐるぐる配送してくれるのです。書店の店主が特に新刊のことを知らなくても、いい感じで見繕って配本してくれたりもします。また書店で売れなかった本は一定期間の間であれば、取次ぎを介して出版社に返品が可能となっています。出版社も書店も数は多いですが、取次という大きな組織がハブとなって本の流通は成り立っています。
流通と倉庫が取次の役割なのですが、アマゾンは日本最大級の倉庫を持っており、なおかつ流通は宅配便のネットワークを使っていますから、あとは出版社と直接やり取りすれば、取次は必要ないというのが今回のニュースのポイントです。確かにアマゾンと町の本屋さんは規模が違う。
返品でちょっと話しますね。今の本の流通のほとんどは委託販売制度です。出版社は書店に本を「置かせていただいている」だけで、書店に買い取ってもらったわけではない。書店は売れなくても返品すれば懐が痛まないので、リスクは低いですが、別に全体から見てリスクがなくなったわけではなく、リスクがたらいまわしになっているだけです。そうして膨らんだ返品を見てみると、「一般の書店では30-40%」の返品率です。これが平均です。ベストセラーの本ではもっと返品率が下がるでしょうから、普通の本は半分以上返品されていることになるでしょう。
一方でアマゾンの書籍の返品率は5%前後と低い。ここまで「売り切る能力」があるのなら、別に「大量の返品のために便利だから」という理由で取次というバッファを介す必要はない。
ちなみにアマゾンがサイトで扱う商品点数は約1000万点です。Yahoo!や楽天とは違い。これらの商品を倉庫に「持ってます」。一見するとアマゾンというのはIT企業のようにも見えますが、その実態は「優れた倉庫」を持つ物流やさんです。今日のIT企業でここまで「モノを持つ」ということにカジを切った企業はなかなかありません。できるだけ何も持たずにビジネスをしようとするのが常套手段です。だからアマゾンは強い。
ソースが日経だからフライングや真偽が定かでない可能性もあるが、アマゾンが取次を介さず出版社との直接取引きになるらしい。裏紙: アマゾン、取次ぎを中抜きを見ればその凄さがよーく判るが、超概略的かつ定量的な話をしたい。 取次というのは平たく言えば「本の問屋さん... [Read More]
ただでさえ「アマゾンは万引きリスクないからいいなあ」なんて思ってたんですが、販社の手数料コストまで抑えてしまうといよいよボロ儲けといった感じですね。
これで再販制度がもしなくなったりしたら、店舗の書店はいよいよ為すすべなくなっちゃうんじゃないでしょうか。
再販売価格維持制度は、見かけは維持されていますが、実際には各店舗のポイント制度により、値引きに近いものが行われています。もちろん、旧体制側は「それはルール違反だ!」って怒っています。
もともと雑誌コミックの立ち読みができなくなった時点で町の本屋には行かなくなったんですが、こうなると本の実質値段はどんどん下がるでしょうし、これならなお町の本屋はいらんですな。そのうち文字の本にもビニールかけ出して、ますます利点が見えにくくなって最後に消滅という流れですかね。
あとネット注文だとタイムラグがあるしもう暫くは大丈夫だと思う。立地条件が悪い所はどんどん消えていくと思うけどね。
全ての書店は委託販売を使ってますが、おいてある本全てが委託販売というわけではないです。簡単に言って、3ヶ月以上前のものは委託になってないですね。

 

[ 69] 列福運動〜取り次ぎ
[引用サイト]  http://www.v-cimatti.com/pub/beatification/reppuku_toritugi.htm

教皇ヨハネ・パウロ2世は、25年間の在任中、何百人もの「福者」や「聖人」を列福・列聖なさった。それぞれのために「聖人の奇跡調査委員会」から奇跡が認定された。「奇跡」は、神による「恵み」である。しかし、すべての「恵み」は「奇跡」ではない。わたしたちの存在や自然も神の「恵み」であるが、「奇跡」とはいわない。教会が「奇跡」として認めるのは、内容や状況から見て、自然に説明できない出来事、たとえば、末期状態のガンや、骨折や身体的な疾病が急に治ることなどのような出来事である。そこには、神の特別な計らいが認められるからである。もちろん、その出来事を証明する証拠が必要である。たとえば、治癒前後のカルテや、担当医の証言など。しかし、医師が証言するのは、説明できないということであり、奇跡ではない。奇跡は教会が判断する。
「聖人の取り次ぎ」 ― 問題は、その出来事が聖人の「取り次ぎ」によるかということであろう。これは、その聖人に祈った人の証言やその時の状況から判断できる。カトリック教会では、救われた方、すなわち聖人は、永遠に神のもとにおられ、わたしたちのために取り次ぐことができると信じている。そのため、信者は聖人の取り次ぎを願うのである。もしその聖人に祈って恵みがいただいたならば、その聖人が神のもとにおられることの「しるし」となる。
「チマッティ神父の取り次ぎによる恵み」 ― 尊者チマッティ神父を福者にするには、今、一つの奇跡が期待され、そのために神の恵みを願う必要がある。師を慕っている多くの人びとから恵みをいただいたという報告が数多く届いているが、奇跡の条件が満たされているかどうかは、教会の判断に任せるべきである。ここで紹介する出来事は、いずれもチマッティ神父の取り次ぎの力を示す不思議なものである。今後も、恵みをいただいた方は、担当のコンプリ神父へお知らせください。
注:プライバシーの関係で、氏名を略して出来事を発表する。細かいデーターは、チマッティ資料館に保存されている。本人の許可があれば、氏名を公表することも可能である。 
5年前の9月14日、突然来客中に脳間橋梗塞で倒れ、左半身(手も足も)動かず、右眼も見えなくなり、入院(杏林大)中はは、3年間は車椅子使用と言われ、3ミリの差で命は駄目だったと言われましたが、毎日毎日、修道院のシスターがたがミサをあげてくださったり、神父様もいらしてくださり、M先生のご夫妻がいつもお見舞いくださって、チマッティ神父様のお話をしてくださいました。おかげで車椅子も使用せず、手も足も普通になり、眼も見えて(眼科には通院していますが)、すっかり元気になり、感謝の毎日です。
私の嫁は、平成17年7月頃より、腹水がたまり、だんだん肺まで上がってきて、呼吸困難になり、精密検査の結果、卵巣癌の末期と言われました。杏林大学病院の有名な教授にも、慈恵大でもはっきり診断され、結果的には抗がん剤を使用しないで、リンパ節の温存療法をすることになりました。駄目でもいいと諦めておりましたが、ガンマーカーが1300になっていて、入院前日、私の家の祭壇で(嫁は信者ではありませんが)、みんなでチマッティ神父様に一生懸命祈りました。彼女もロザリオをにぎりしめていましたが、そのあと顔つきがとても落ち着いて輝いてさえいましたので、これは大丈夫かも?と私はふと思いました。次の日、愛知の病院に入院し、すぐ手術でした。私も行ってきましたが、結果は不思議なことに、癌がすべて、すべて消えていて、肺ガンにもなってなく、2週間で退院し、すぐ我が家で一日一日と元気になり、ガンマーカーが100にまでなり、仕事も開始できるようにまでなりました。これは絶対、奇跡だと今は毎日チマッティ神父様に感謝の祈りを捧げております。
5年ほど前からチマッティ資料館に伺っています。3年近く前の2003年2月に前立腺がんが見つかり、その年の11月に全摘手術を受けましたが完治せず、2004年3月〜4月にかけて放射線治療を行いましたが、8月には骨盤に転移が見つかり、再度放射線治療を行いました。それでも癌が進行したため、今年の2月には新薬の治験治療も受けました。
7月4日の未明に突然激しい嘔吐に見舞われ、胃の中の食物と血を吐きました。当日も明くる5日も胸の痛みがありましたが、6日が前から予約していたがんセンターの泌尿器科の診察予定日でしたので我慢しました。6日にはますます痛みが激しくなりましたが、タクシーで病院に向かい、「次の日曜日には娘の結婚式があるのでなんとしても出席したい」と申し上げました。医師からは「食あたりである。がんとは無縁」というお話でしたが、9日には救急車で自宅近くの病院に運ばれました。結果は左胸がつぶれていて、すぐに胸にパイプを差し込み、胸から水分などを排出。担当の医師からは「この状態まで自宅でよくぞ生きていたなー」でした。家内には「危篤である。生命の助かる可能性は35%から65%でしょう。この種の病気としては若いので助かる可能性はあります。また、明日お亡くなりになる確率は少なく、結婚式に奥さんが出席されても大丈夫でしょう」と言われたようです。
10日は娘の結婚式でしたので、家内は病院経由で結婚式に向かい、イグナチオ教会での結婚式、パーティと終了し、新郎新婦がウェディングドレスのまま駆けつけてくれました。11日には都立駒込病院へ転院。食道外科専門の4人の医師チームから手術を受けました。この時もまだ「危篤である」「危篤である」と言われました。
この間、ほとんど改善を感じられない日々が多く、精神的にも限界かろ感じることも多かったように思います。8月下旬の検査で食道の外の胸に筋肉のバリヤーが形成されており、再手術の必要は無いと判断されました。それ以降は9月1日までに急速に普通食に近い食事までたどりつけ、肺もなんとか回復してくれました。現在まで順調な回復をしております。
もしかしたら7月には死んでいた確率が50%あった場面が救われ、娘の結婚式も壊さずにすみました。多くのお恵みを頂いたと感じています。チマッティ神父様の取り次ぎに感謝いたしております。
食道破裂は改善しましたが、前立腺がんがますます悪化している状況があります。自分を丸ごとイエス様に委ねたいと願っております。
大分前にチマッティ神父様の衣入りの写真を知人から頂きました。当時私は“うつ病”で大変苦しんでいました。神父様の写真を前にしていやしを取りなしてくださるよう一途に祈り続けました。
このほど、神経科の先生を何人か替えて、うつ気分が良くなりました。良くなってからまだ1ヶ月ほどですが、うれしくてペンを録りました。チマッティ神父様のお取り次ぎによる恵みと信じております。その後も祈り続けて、チマッティ神父様の列福が早まりまるように願っております。神学院のご配慮に心から感謝いたしております。
昨年夏、ごミサに与り、にチマッティ神父様への取り次ぎをお願いしています。うつ病いに苦しみ、チマッティ神父様に助けを求め、日々祈りを唱えていました。1年が経ち、現在はとても快方に向かっています。またごミサに与った直後に子宝に恵まれたこともわかり、その子も今は7ヶ月の元気な男の子になって、毎日私にパワーを与えてくれる存在です。今年のクリスマスには受洗する予定です。霊名は神父様とも相談した結果、「チマッティ」とチマッティ神父様からいただくことになりました。私のまわりの人たちにもチマッティ神父様のことを知っていただきたいと思います。
私は6月15日に肺癌の手術を受け、リンパ節に癌細胞が見つかったため、8月9日から抗がん剤の治療を受けておりました。10月27日に治療も終わり(腫瘍マーカー、SLXの値が低く安定しているため)脳、骨、内臓に転移していないかどうか検査を受け、大丈夫でした。
チマッティ神父様の「恐れることはない」というお言葉を頂き、安心し、落ち着いて、信頼して、治療を受けられたお陰と、感謝しております。
2003年11月14日、私の主人が仕事上の過酷な労働とプレッシャーから倒れました。私は過労ぐらい1日か2日休めば治ると思い、その時までうつ病の大変さを考えてもいませんでした。軽い気持ちでいたのです。
しかし、主人は来る日も来る日も布団の中で眠るばかりで、起きあがろうとしません。食欲もなく、何を話しかけても、ただぼーっとしているだけ。体重はどんどん減り、全く話すこともしません。もちろん仕事も行けません。自分のせいで仕事を他の人に押しつける、そのために皆に迷惑をかけることが苦しいようで、ただでさえ責任感が強く、真面目な性格で、人の仕事まで自分でかぶるような人なので、その時は自殺でもされたらなど悪い方に考え、とても心配しました。天気の良い日は公園に散歩に誘ったりして気分を変えてみたり、うつとわかっていても、まるで老人と歩いているようで40代の男とは思えず、悲しさが私を襲ってきました。
家庭の中も子供たちが中学3年、高校3年とちょうど進学の時期でもありお父さんが病気で休んでいることは分かっていても、うつ病には理解がありませんでした。家庭も段々暗くなり、中学の息子も進学の問題もあり、どんどん気持ちが荒れ、私にぶつけ始めました。高校の娘も自分の進路を見失い荒れ始めました。
私もその頃は、これからの生活を思うと、もっと仕事を増やし、生活費を稼がなくてはと必死で働きました。こんなに私が働いて疲れているのに主人は相変わらず布団の中でねている姿にカーッとなり「いつまで寝ているの。もう治っているのよ。早く仕事に行って」と感情にまかせ怒鳴りました。そんな時、悲しそうに私を見上げる主人に腹が立つのと、病気なんだから仕方がない、なんと罪深いことを私は言うのか、言ったあとで涙がこぼれました。その頃から私も心のバランスが乱れ始め、このまま2人で泥沼に吸い込まれる気持ちにまでなっていました。
そんな時、『そうだ。6日のチマッティ神父様のミサに行き心を全部解放しよう』と主人とミサにあずかり、うつ病を治してくださいと祈り、またミサの中でも皆さんにお祈りしていただきました。その後も6日のミサは毎月2人で「チマッティ神父様のお取り次ぎによって、うつ病を治してください。私と主人に勇気と力を与えてください。」と何度も祈りました。
その頃から、主人もどんどん元気を取り戻し、うつ病も良い方向に向かっていき、先生からも仕事に行く許可も出ました。発病から半年後のことでした。元の職場に戻ればまた同じことの繰り返しなので、別の部署を希望したところすぐに楽なところに変わることができました。主人のことは一安心です。
そんな折り、今度は私に倦怠感と恐ろしいぐらいの疲れが襲ってきました。すぐに病院に行ったところ、軽いうつ病でした。自分もうつ病になり、初めてこの病気のつらさがわかりました。随分と主人に酷いことを言ったものだと思いました。
この頃からすべては神のご計画ではなかったのかと思い始めました。毎日追われるように生活をし、心の余裕を無くし、がむしゃらに働く日々に私たちはうつ病で救われたのではないかと考え始めました。もしあのまま働いていたらもっと怖い病気になっていたかもしれません。子供たちも親に頼れないので自分で考え行動するようになり、自立し始めました。
うつという病気を夫婦で乗り越え、寒い冬から暖かい春へと向かっていることを実感し、神への感謝の気持ちでいっぱいです。「いつでも喜んでいなさい」という気持ちが良く分かりました。思わぬ神様からのプレゼントに家族を愛すること、喜び、祈ること、感謝、謙虚な心を取り戻したようです。
この1月はじめに私は、インフルエンザによる40度近くの高熱をきっかけとして、両目のひどい充血と腫れ、激しい痛みに襲われ、6日、東北随一の名医ともいわれる山田孝彦眼科を受診、19日に2度目の受診をしましたが2週間たっても治癒しないことに、医師も首をかしげていました。26日に3度目の受診で、「眼球全体が裏側から圧迫され、前面に突き出している。眼圧も正常値よりはるかに高く、視力は急激に落ち、血管の腫れと充血がひどい。これはご本人が考えておられるより重いかもしれません。目の病気ではなく、脳腫瘍の可能性があります。眼圧を下げるための強い点眼薬を2日つけてみて今の症状が治らなければ、脳のCTをとる必要があります。」との診断がくだりました。信仰の弱い私はこの予想外の宣告まがいのことばに動揺し、恐怖感でいっぱいになってしまい、祈ることすらできませんでした。
しかし、東京で家庭をもつ姉が、毎月6日に行われる調布神学院でのミサがあることを知って1月に初めてうかがい、コンプリ神父様が生き生きとチマッチ神父様のことを説教されていて大変感銘を受け、「聖人のためにまい進する方は、表情まで本当に晴れ晴れとして喜びに輝いておられ、あんなに幸せそうなお顔はどこでも見られないものだった・・」と感激した旨を聞いたばかりであったことを思い出し、まず姉に病気の診断を知らせることにしました。すると、ちょうど姉は上智大学時代の同窓生から「身近に病人がいる人は是非チマッチ神父様に取り次ぎを願うよう教えてあげて」というメールを受け取ったばかりであり、チマッチ神父様にいっしょに祈りましょう、ということになりました。
それでも恐怖心に圧倒されてしまって、まだ祈れるまでに心定まらない不信仰な私は、現在の使徒職として携わっている仙台白百合学園中高の宗教を担当する教師として、生徒たちにぜひとも読ませたい本として、チマッチ神父様の書簡集とオペラのVTR、ドン・ボスコのVTRをコンプリ神父様よりお送りいただいておりましたので、慰めのことばを求めて書簡集を開いてみますと、「今の時間だけが君のものだ。未来は神のみ手のなかにある」ということばが心を深く満たしはじめ、ようやく初めての心の落ち着きを取り戻しはじめたのです。点眼薬をつけてもまったく症状は変化せず、目の奥をえぐるような激痛と腫れと充血に悩まされ、これは覚悟しなければならないと絶望的な気持で諦めていましたが、このチマッチ神父様のお勧めに従い、万事み手におゆだねしよう・・・という気持が芽生え始めました。
翌朝28日はまだ目が真っ赤でなんらの改善もみられませんでしたが、ミサの時、はじめて「もし目が治れば、チマッチ神父様のお取り次ぎの力によるものと信じます。もし完治すれば、神様のみ栄えのため、青少年の教育に専念します」と明白な意識をもって祈りました。その後、朝食を食べてから、個室の鏡を見てみると、なんと、うそのように目の充血がひいているうえに、痛みが軽いかゆみに変わっていたのです。驚いて眼科に行ってみると、眼圧まで正常値に下がっており、眼球全体の腫れも引き、眼球が前面に飛び出ていたのが元の状態に戻っている。薬をつけてもいっこうに治る気配のなかった目が、チマッチ神父様をはっきり意識して一度祈ったミサのあとで、一瞬のうちに正常に戻ってしまった驚きは、私ひとりの感謝でとどめてはならないほど奇跡的なものに感じられました。もちろん脳のCTを実際にはとっておりませんので、もともとそのような腫瘍が存在したことも、消えたことも科学的に立証はできません。しかし、東北大医学部でも非常勤で教鞭をとる名医の誉れ高い、臨床経験も豊富な医師が「診察したとき、実は内心びっくりしました」と最後にいわれたほどのひどい(またはなぞの)状態にあった私の目が、薬はつけたとはいえ、突然に効能を発揮したのがチマッチ神父様への取り次ぎを願った直後であったことは事実です。
この一件が列福調査のお役に立てるとは思えませんが、しかし、さまざまな悩み、苦しみ、絶望の危険からチマッチ神父様によって癒され、恵まれ、救われている者が、実はたくさんたくさん存在するのだということの、ほんの一例としてでも是非お伝えせずにはいられないほど歓喜と感謝の心が溢れ、ご紹介させていただきました。
最後に眼科に行く直前に開いた書簡集に、「日本にシスターの派遣をお願いします。シスターたちはたくさん仕事を助けてくれるでしょう」ということばを見つけたときに得た、自らの召命への誇り、勇気、喜びは、今後も何にもまさる支えとなります。終生誓願に向けての最良の準備となりました。チマッチ神父様を模範としてよいシスターになるよう精進いたします。
この方のお父様が小さい頃、カトリック系の施設に預けられたそうです。新入りの彼はそこでいじめにあってとても辛かった。当番制のはずのトイレ掃除を全部押し付けられて小学校3年の彼は毎日トイレ掃除をしていた。するといつも必ずどこからともなく一人の神父が現れて手伝ってくれ、一番きたないところを一生懸命こすって掃除してくれたそうです。
この優しい神父さんの話をお父さんは娘にいつも話してくれたので、心に深く残ったそうです。どこからともなく現れて手伝ってくれる神父さんの話、いい話ですね。神父にはその子が見えているってことでしょうね。壁を越える聖人の姿です。
ところで、そんな娘も大人になり、その話も忘れかけていたころ、彼女は教会でオルガン奉仕をするようになったけれども、昔弾いていたようにはうまく弾けなくてすごく苦しみました。手も動かないし楽譜も覚えられない。やがて神経症的に辛くなって、オルガン奉仕の当番の朝は緊張のあまり3時に目が覚めてトイレに通うようになり、ついには胃潰瘍になってしまい、もう無理だ、奉仕は出来ない、断ろうと思った。
その時ふと届いた雑誌を開いたらチマッチ神父さんの写真が載っていた。その写真を見たとたんに、小さい頃よく父親から聞かされた「どこからともなく現れて助けてくれた神父」の話を思い出し、わけのわからない涙がポタポタ落ちたそうです。
彼女は自分の伴奏楽譜の表紙の裏側にチマッチ神父の御絵を張って、緊張してもうだめだと思うたびに御絵に励まされて、恐れに打ち勝ってきたそうです。
そのころインターネットで「福音の森」にも出会い、高円寺教会の神父が「ミサにお帰りなさい。このミサで神の愛にどっぷりとつかって体の芯まであったまってください」とそう言っているのを聞いて、本当に安心し、毎週の説教に励まされてミサでの典礼奉仕を今でも続けているそうです。
私には息子が二人おります。その息子達がどういう訳か仲が悪いのです。私はそのことでいつも悲しく思っていて、何とか二人きりの兄弟なのですから、もう少し仲良くならないものかとずっと心配しておりました。私の思いをチマッティ神父様に心からお願いいたしました。涙がポロポロでました。するとその後二人が会った時、私の目の前でお互いに「今まで悪かった、悪かった、許してくれ」と言いながら、抱き合っているのです。私はびっくりすると同時に、「あぁ、チマッティ神父様のおかげだなあ」と翌日、お墓にお礼に伺いました。このように神父様のお取り次ぎによってお恵みをいただきまして、もう感謝の心でいっぱいでございます。
はじめてペンを取りましたのは、小さなことだからと躊躇していたのですが、勧められまして、お恵みのお知らせを致します。
母指手根中手関節の痛み、麻痺、熱でしばしば夜も眠れませんでしたので、手術を受けました。医師は「痛みと熱は取れても、麻痺は取れません」と言われました。
今年5月7日手術を受けましたが、1ヵ月ギブスをしている間、ずっとチマッティ神父様の御絵を中に押し入れて祈りました。麻痺が取れて、コムニタのため少しでも貢捧できるように祈りました。1ヵ月後、ギブスが取れましたがやはりしびれていました。続けて祈りました。いつのまにか御絵もボロボロになり、麻痺も取れないことになっていましたのに、なくなりました。これは私にとって大きなお恵みでございました。
毎晩夕の祈りの前に、苦しみ、病んでおられるサレジオファミリー、特に必要としている方のお名前を言ってコムニタで祈っています。この祈りが始まると「チマッティ神父様ありがとうございます」と感謝で一杯になります。
小さなお恵みでなかなか書けませんでした。コンプリ神父様もどうぞチマッティ神父様の祭壇でミサをお捧げになります時に感謝してくださいませ。
私の息子は耳鼻科医として診療中、C型肝炎にかかってしまいました。職業病だと言われましたが、インターフェロンの治療を始めて3ヵ月後、激しいそううつ病になり、自分で自分をコントロールすることができなくなってしまいました。1ヵ月病室に付き添っておりましたが光が見えません。
この息子が高校生の時、チマッティ神父様にお祈りして救われたことを思い出し、急ぎ札幌から戻って調布教会に伺い、神父様と一緒にチマッティ神父様を通して神様にお祈りいたしました。神父様は「必ず神様は助けてくださいます。でもその時期はわかりません。一生懸命祈りなさい。」とおっしゃいました。
私は毎日、時間があればチマッティ神父様のお祈りをいたしました。3ヵ月ほどたって、すらすらとカードの祈りが口に出る頃、無事、息子は回復しておりました。そして来年には医師の仕事にも戻れるようになりました。
1月11日にチマッチ資料館に訪問させていただいたM.M.です。チマッチ神父のお話を丁寧にしてくださり、本当にありがとうございます。チマッチ神父の伝記(短い冊子の方)を読み、ビデオも観ました。幾度も涙しました。チマッチ神父の温厚な、愛に包まれた笑顔は、私の人生の生き方のお手本です。やさしさは、真の強さ、神への愛からくるものですね。ビデオの最後のチマッチ神父のメッセージは、私にチマッチ神父が与えてくださったものだと思います。ノートに書き写しました。毎日、読んで自分の心に染み込ませていきたいと思います。今の私にとって、本当に必要な言葉なのです。
現在、私は自分の進むべき道と思っていることを実行するために、11年勤めた組織を辞めて何年かヨーロッパの大学院で勉強する道に入ろうとしています。仕事を去るにあたり、これから掘り下げていきたいと考えていく学問の方向について、そして将来の仕事について正しい道をお示しくださいと神様にお祈りしていました。お祈りしている時、ふと、チマッチ神父のところに行くということが頭に浮かびました。これは、神様が「行きなさい」と啓示されたのでしょう。資料館でチマッチ神父の功績を拝見させていただき、本当に素晴らしい方だったのだと分かりました。特に、私にとってはチマッチ神父が自然科学や哲学、音楽等の分野で勉強を熱心にされ、社会のためにその知識を全て使われたことに心打たれました。私が何のためにこれから勉強するのか、何のために自分の力を使っていくのか、チマッチ神父が示してくださいました。
チマッチ神父との出会いは、私が18歳の頃(1988年)にさかのぼります。当時、私は目黒星美学園高校の3年生でした。経済を勉強するため慶應大学を受験するにあたって、私の母(私が20歳のときに帰天しました)がチマッチ神父に熱心にお祈りをしてくれていました。当時の私には、なぜ、母がチマッチ神父にお祈りをしているのかは全く分かりませんでした。信者の母は、どこかでチマッチ神父のことを聞いたのか、もしかしたら小さい頃にお会いしたことがあったのかもしれません。慶応大学経済学部の試験の当日、母は、「チマッチ神父様にお祈りしているからね」と私を送り出してくれました。
そして、試験の時間。教室が緊張で張り詰めているなか、突然、なぜか私の周りだけが温かい空気に包まれました。あの時の感触をどう表現していいのか分からないのですが、神様が包んでくださっているような、天使が私の周りを取り囲んでいてくださるような、なんともいえない幸福感がこみ上げてきて、「ああ、私はなんて幸せなんだろう」と思いました。みんなと違う次元にいるのです。涙が出そうなほど幸せを感じ、試験中は「神様、どうもありがとうございます」と感謝しながら過ごしました。試験中、幸すぎてなぜか笑顔が出てきてしまうのです。頭が研ぎ澄まされ、試験全てが、満点ではないかと思われるほどよくできて(これは実際の私の力を明らかに超えていたと思います)しまったのです。このような経験は、後にも先にも、私の33年の人生の中で1度きりです。
試験を終えて家に戻ると、母は「試験の時間の間、ずうっとチマッチ神父様にお祈りしていたの」と話をしてくれました。母は、家でチマッチ神父様のお写真を前に、ロザリオを手にひたすらお祈りをしてくれていたのです。結果、私は無事に慶応大学経済学部に入学することができました。一生懸命勉強して、後は神の御手に任せようと思っていましたが、チマッチ神父様のとりなしによって、私は経済の勉強をする機会を頂戴することができたのです。合格発表があってから、母とチマッチ資料館を訪問しお祈りしたことを覚えています。
あれから15年になろうとしています。大学を終えて経済機関に就職し、その間外務省にも出向して国際機関のために仕事をし、自分の進むべき道が明らかになってきました。仕事以外では、さまざまな出会いや別れがありました。人生の中で、しばらく神様から遠ざかっていた時期が幾度かありました。自分の人生は、神様からふらふらと遠ざかったり、また神様に呼び返されたりの繰り返しです。でも、神は私を決して放しはしないと私は確信しています。私には、神が必要だからです。
チマッチ神父が尊者であるということをコンプリ神父様より伺い、私に対するチマッチ神父のお取次ぎをお話しておかないといけないように思い、簡単ですがメールに書かせていただきました。チマッチ神父は、私の人生を導いてくださる方だと思います。チマッチ神父には実際にお会いしたことはありませんが(私の生まれたのが1969年10月5日ですから、ちょうどその4年前に昇天されています)、霊的に働きかけてくださる方と信じています。これから、国籍を超え世界平和のために自分の人生をささげることができるよう、自分の仕事に専念できるよう毎日チマッチ神父にお祈りして生きていきます。チマッチ神父様が私に道を示し、強くしてくださるようにお祈りしながら歩んでいきます。
リヴィアベラ神父様生存中の時、わたしの亡き母はよく神父様と文通していました。その後、母の形見の中にチマッティ神父様の写真を見つけ、母に倣い、わたしもチマッティ神父様が神様の元で取り次いでくださるように願うことにしました。
さて、わたしの娘は、大学卒業論文を完成するにあたって大変な困難に出会っていました。チマッティ神父様に願ってみたら、無事に論文を完成し学士号を修得しました。また、娘が同じ状態にあったもう一人の友だちにこのことを話してみたら、その娘も同じように卒業論文を完成することができましたし、二人とも110点という最高点を得たのでした。
次に、なかなか子供に恵まれない二人の女性のために祈ってみました。二人とも子供に恵まれました。そして、3回も流産を体験したもう一人の友だちのためにも祈ってみたら、無事に赤ちゃんを出産することになりました。
なお、わたしの娘が不妊なので、公の制度を通して養子縁組を申し込むことにしました。皆、絶対かなえられない、と言っていましたが、わたしは、チマッティ神父様の取次ぎを願い、希望を捨てませんでした。2002年7月3日、娘が家庭裁判所に呼ばれ、翌日、たった26日の女児を任せられることになったのでした。
これは、奇跡といえないでのしょうが、このことをお知らせするのは、チマッティ神父様が神様の元で必要な恵みを取り次いで下さることをわたしが確信しているからです。すべての恵みのために神様に感謝いたします。 チェチリアより
S.N.一家は、ローマへ旅するにあたって、チマッティ神父のお墓を訪れてきた。そして、旅行中守ってくれるように、胸の前に下げる師のカード写真を願った。
3週間後、旅から戻ってきて、すぐに感謝しに来た。ローマのVittorio Veneto 通りで12歳ぐらいの子供から止められて、地図の上に聖ペトロ大聖堂へ行く道を教えてください、と願ってきた、と言う。一家3人は何も疑わないで教えようとしたが、子供は地図の下から財布を取ろうとした。ちょうどそのとき、二人の男が現われて、警察の手帳を見せ、「パスポートを見せなさい」と言った。それを見せたら、次は、カバンの中を開けなさい、と言う。そして、麻薬を探しているような動作をしながら、財布も見たい、と言う。20万円があったが、ユーロは少ししかなかった。その時、かれらは、胸の前に下げていたチマッティ神父のカード写真を見た。そして、互いに目を合わせ、そのまま、何も取らないで去ってしまった。その人たちは、警察ではなく、子供の仲間だったのである。チマッティ神父はわたしたちを助けてくださったと確信している。
A.Y.修道士は、両足の指が黒くなって耐えがたい激痛を感じるようになり、診断の結果、膝まで両足を切らないといけない、と言われた。ちょうどその時、同僚からチマッティ神父に祈るようにと勧められた。さっそく、痛みがいくらかとれて、退院したが、ついに指が化膿してしまったので別な病院に再入院した。そこで、指三本を切ったが、足の切断を免れた。その後、準備された車椅子も拒否し、自分の足で歩けるようになって現在にいたる。
治療方法を検討した結果、手術による体力消耗が懸念され、その上効果もあまり期待できないと言われた。それで、抗がん剤だけで治療を行うことにしたが、副作用が強く、3ヶ月でその治療も中止した。
なお、2月に黄だんが出現したため、総胆管にステント(金属の管)を留置した。その際、腫瘍の圧迫が強く、胆管の狭搾がひどく、挿入は困難を極めた。ステントが腫瘍の圧力のためV字型に屈曲するほどだった。この措置により胆道が改善され、黄疸も次第に軽快した。同時に血液所見、腫瘍マーカーも好転し、3月2日退院した。その後、自宅静養を続けながら毎月6日のチマッティ神父記念聖堂でミサに欠かさず参加した。体重も体力も快復し、2001年12月のCTおよび2002年1月のエコーで、膵臓腫瘍は消失したといわれた。現在、保健所の医師として勤めている。
S.J.の場合、がん細胞の確認が行わなわれなかった。ところが、状況から見て、膵臓がんがあったことは確かだといえます。なお、治療らしい治療を行わずに、短期間のうちに消失したことは医学的に説明しにくいことであり、奇跡とは言えないまでも、大きな恵みであるに違いない。
横浜に住んでいるN.N.さんは、突然、チマッティ資料館に祈りを願いにくる。神戸に住んでいる祖父は、最近老人ボケが目立ち、手放せない状態であるが、先日、お姉さんと一緒に駅まで行ったら、ちょっとしたすき間の間、急に姿が見えなくなった、と。三日間も探しているが、見当たらないままである。家族はみな心配している。チマッティ神父に祈ってほしい、と。それで、一緒にチマッティ神父のお墓前に行って、その意向のために祈ってきた。
家に帰って2時間ぐらいしたら、資料館に電話がかかって来た。N.N.であった。「横浜に着いたら、祖父が無事に保護されたという知らせが入った。近くの山の中で、雨にぬられて一人で歩いていたところ、保護された。時間は、ちょうど、わたしたちがチマッティのお墓の前で祈っていた時でした。」と。
F.S.は4月27日の夕方、東京の会社で宴会後、タクシーに乗ったまま記憶喪失の状態になり、翌日の夜まで行方不明になった。ポケットの領収証を見れば、当日背広を買い(それを紛失した)横浜までも行ったことが分かる。しかし、本人は記憶無し。28日の夕方タクシーに乗ったら、知らずに携帯電話のスイッチを入れたと思われる。それで、鳴ったところ、困っていた運転士は家族に連絡した。帰宅させて、順天堂大学病院に緊急入院させられた。病気発生からもう30時間が経っている。CT検査の結果、脳出血(視床出血)と判明した。出血が止まらなければ、危険な手術が必要となる、といわれた。
29日、家族から主任司祭に通知があり、チマッティ神父に祈ることを勧めた。教会のミサでも祈ることにした。30日午後、記憶が戻り始める。そしてCTの結果、出血が止まったようである。毎日、快復が著しい。
Marcoの父親は、仕事のため東京滞在中、コンプリ神父と一緒にチマッティ神父のお墓を訪れた。そのとき、34歳の息子Marcoがイタリアで脳腫瘍を診断された連絡が来た。チマッティ神父に祈ってから、そのまま帰国した。息子は、2回も難しい手術を受けたが、1998年6月、結果は芳しくなく、触れられない脳の一部にがん細胞が残っていると分かった。救う方法が見つかるようにとチマッティ神父に祈りながら、父親は渡米し、ついに最新の治療法を手に入れることができた。40日後結果がわかる、と言われた。実際、同年8月17日の検査で効果があると認められた。1999年12月、腫瘍は完全に消えていた。2000年3月、父親は感謝のため、またチマッティ神父のお墓を訪れた。その後。Marcoは元気で過ごしている。
1997年4月、左の脹脛に大きな黒い斑点ができた。痛いので、診断してもらった。皮膚がんだと診断され、6月2日に手術することになった。しかし、傷が治らず、化膿したしまった。そのとき、日本の友だちからチマッティ神父に祈るようにと勧められた。信頼をもって祈った。そして、7月半ば頃から炎症が次第に消え、9月に完治した。13ヶ月が経って、香港のシスターを通して報告する。国柄の事情により、これ以上調べることができない。
わたしが日向学院の理事長にになった年の夏休み、中学第2学年と一緒に霧島山に登り、真夏の炎天下で私自身脱落し、登山口で生徒の帰りを待つことにした。11時ごろ救助隊が現われて、生徒一人が倒れた。下ろしに行く、と言う。意識不明だ、という情報もあった。2時間後、降りてきたが、下ろすにはヘリコプターが要る、と言う。そして、1時間経ってから県警のヘリコプターが飛んだ。しかし、医師を下ろすだけで、生徒を吊り上げることができなかった。二発のヘリコプターが必要だが、それは、県知事が自衛隊に頼まないといけない、と言う。結局、生徒が吊り上げられて都城の病院に着くまで、事故から7時間も経った。私が病院へ駆けつけたとき、生徒は重症の脱水状態で完全に意識不明であり、脳波の反応もなく、植物人間のようであった。医者が言うには、助かる可能性は20パーセント。しかも、後遺症が残る危険性は非常に大きい。
結論は、医師の献身的な対応もあり、身体の機能が次第に快復し、10日後生徒は目を開けた。ためらいながらわたしは聞いてみた、「わたしたちの学校の創立者は、だれだったか」。生徒ははっきりした声で答えた、「ヴィンセンツォ・チマッティ校長でした」。10日後、何の後遺症もなくせいとは退院し、元気な姿で学校生活に復帰できた。
A.S.の長男孝一さん(当時京都大学教育学部、20歳)、唾液が出なくなり、7月7日同大学病院の口腔外科で管内唾石と診断された。7月24日に手術する、と決まった。家族一同は、祖父と面識があったチマッティ神父の助けを祈ることにした。そして、11日の夕食中、石膏のような7ミリぐらいの大円形の唾石が数個自然に口から飛び出し、あとはパッと膿が出た。翌日12日病院で診てもらい、まだ石が残っていると言われて、予定通り手術をすると決まった。24日14時、祈りながら手術室に入り、よだれかけをかけられて手術前の診察を受けた。確かに石が残っていたのに、石がないと3人の医師が真剣に言い出した。「おかしい、石って、できたり、増えたりすることがあっても、あった石が、なくなったり、消滅したりすることはないのに」と首をかしげた。結局、よだれかけを外して、手術をやめた。その後、異常はなし、元気いっぱいで過ごすようになった。
サレジアン・シスターズの女子校生徒E.さんは、急に右目が痛くなり、完全に見えなくなった。専門医の診断では脳がんの疑いがある、と言われた。4月20日手術の予定だった。修道院の共同体は皆熱心いチマッティ神父に祈った。手術の当日、再診断の結果、手術を数日延期された。2日後、少し見えるようになったので、数日後、「このままにしておいたほうがよい、という神の望みであろう」と医者は言った。そして、数名の専門医が診断した結果、4月28日元気で退院した。「皆さんの祈りのお陰です」と医者は言っていた。
1977年、建物の解体中、セメントのかけらが目に入った。手で取り出して包帯するが、夜、激しい痛みのため眠れななかった。そのとき、いただいていたチマッティ神父のカード写真を目に当ててみた。即座痛みが消えた。
1978年2月、左の大腿の骨骨折で入院していた10歳の息子Marioを、毎晩病院で看病していた。ある日、仕事中重い丸太を動かして、背骨に激しい痛みを感じた。そのまま息子を看病したが、耐えがたい痛みのため、チマッティ神父に向って、「チマッティ神父様、助けてください」と言って、手元にあったカード写真を背中に当てた。即座、痛みが消えた。
こんどは、「チマッティ神父様、息子Marioのことも頼みます」と言って、カード写真を息子の足に当てた。その時点までどんな小さな動きでもうめいていた子供は、急に静かになり、次のレントゲンのとき、治っていると言われた。チマッティ神父は、わたしの家族の守護者である。
1976年8月17日、東京築地ガンセンターでT.M.師は左肺三分のニを切断した。一ヵ月後、胃の大部分も切断せざるをえなかった。飲み込むことはできず、人工栄養のみの状態。11月5日、最後の検査の前夜、変わった夢を見た。ベットの側、手にロザリオを持っている白い服、長い白い髭の年寄りの方が見えた。その方は、ロザリオを胃の上に置いてくださったら、すぐに目覚めて、胃の障害物が取れたような快い感じを体験した。朝、診断を受け、喉に管を入れてもらうとき、意外に障害はなく管は通った。そして、より長い管も楽に通っていった。その日から次第に食物が通るようになり、11月16日退院した。最初の入院の時から、目黒星美学園のシスターたちはその快復のために熱心にチマッティ神父に祈ってくれたのであった。

 

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