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とにかくとは?/ キャッシュワン

[ 217] ITmediaモバイル:赤くてとにかく速い「W11K AKA」に物申す
[引用サイト]  http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0401/15/news081.html

ともあれ、初代ニュータイプ、もとい初代ガンダムマスター引退後、ロボットと心が通じ合うようになったと豪語する新たなニュータイプは登場したものの、ガンダムネタが減りつつあるのは否めない。これを危機と見たか、モバイル編集部の記者Gから「KDDI社内で、ある有名アニメの主要キャラクターの名前で呼ばれているらしい」という赤くてとにかく速い「W11K AKA」のレビュー任務が下された。
早速うわさの機体を眺めてみる。さほど角ばらず丸みを帯びたフォルムといい、特徴的な二つ並んだカメラ用のライトといい、機能性というよりも、むしろ昔懐かしさというか温かさというか、ある種の友情めいた感情を抱いてしまう。
「シャア専用」というよりも、はっきり言ってロボコン。「シャア専用」を名乗るのならば、つのをつける前にライトをモノアイ風に直してほしいところだ。
W11Kのデザインで感動したのは本体中央のカーソルキー。ファミコンの十字キーに見えなくもないが、このデザインこそまさにドム。小説版「ガンダム」でシャアが搭乗したシャア専用リック・ドムを彷彿とさせる。
また、W11Kでは本体右側面の「気くばりスイッチ」を使って3種類の設定を使い分けることが可能だ。潜伏時はズゴック、偉い人には分からんのですよ気分のときにはジオングなど、気分次第で壁紙や着信設定などを切り替えられる。
京セラ製の「W64K」は、幅49ミリとスリムな回転2軸ボディが特徴のワンセグケータイ。金属調の背面パネルには、京セラ端末でおなじみ「インフォメーションキー」と、リズミカルに点灯するイルミネーションを備える。
画面の見やすさや音声の聞き取りやすさ、使いやすさを追求した簡単ケータイがWINに対応。でか文字、でかキー、でかピクト、でかランプなどを始めとする8つの「でか」機能を搭載した。
携帯電話は、テレビドラマのさまざまなシーンに登場し、ストーリー展開のキーアイテムとなることも多い。また、どの役者がどんな機種を使っているかにも興味が尽きない。今回もテレビドラマに登場する携帯電話をチェックした。まずはドコモ編からお送りしよう。
イー・モバイルが音声サービス開始「3大キャリアの古い慣習を打ち破る」と千本会長――あの“サル”から祝電も
イー・モバイルが音声通話サービスを開始した。同社の千本倖生会長兼CEOが「我々が日本を世界一の携帯市場に引き上げる」と意気込みを語ると、テレビCMでおなじみのあの“サル”から、お祝いの電話がかかる一幕も。
携帯端末事業からの撤退を発表した三菱電機製端末には、エポックメイキングなものも多かった。2003年5月に発売された、メガピクセル撮影が可能なカメラを搭載した「D505i」もその1つ。早速中身を見てみよう。
酷似した携帯をソフトバンクモバイルと東芝が売り出したとして、製造・販売の差し止めを求める仮処分を申し立てたNTTドコモと富士通。“そっくり携帯”に待ったをかけたいドコモと富士通だが、これが通ればユーザーの不利益につながるはずだ。
ソフトバンクモバイルが社員間の通話料金を終日無料にする法人向け割引きプラン「ホワイト法人24」を発表。10契約までを1つのグループとして設定でき、グループ内の通話料金が終日無料になる。
ドコモがPC接続のデータ定額サービスに「2年割引」を新設した。2年間の継続利用を条件に、月額利用料の上限を3780円割り引く。9月からの導入にさきがけ、3月1日から同じ割引条件で利用できる期間限定値引きを実施。また、指定端末については「バリューコース」と「ベーシックコース」を適用する。
ウォルト・ディズニー・ジャパンとソフトバンクモバイルは3月1日、20代から30代の女性をメインターゲットにした携帯電話サービスを共同で開始する。シャープ製の専用端末を販売するほか、ディズニーの豊富なコンテンツが利用できる各種サービスを用意する。
ソフトバンクモバイルは1月21日、新規加入から3年間、ホワイトプランの基本料金が0円、パケットし放題が0円〜4410円になる「ホワイト学割」を発表した。また、学生向けのコンテンツを集約したポータルサイト「コンテンツ学割クラブ」を開設する。
ウィルコムは1月21日、2008年春商戦向けの音声端末とデータ通信カードを発表。音声端末をウィルコムの4本柱の1つに据え、2台目需要に応える通話とメールの使い勝手をよくした音声端末を投入する。
ジャーナリストの神尾寿氏と石川温氏を迎え、2007年の携帯業界を振り返る、年末の特別対談企画。第1回目は、2007年全体の大きなトピックと、905iシリーズで大きく巻き返したドコモ、冬商戦でやや足踏みをしているauについて語ってもらった。
加入初年度から基本料金を50%割り引く「ファミ割★MAX50」「ひとりでも割★50」、分離プランとして導入した「バリューコース」、全部入りの905iシリーズなど矢継ぎばやに投入したサービスや端末が好調なドコモ。販売現場を率いる営業・販売担当部長が、冬商戦の動向と、競合他社に対する強みについて改めて説明した。
NTTドコモは、携帯電話の新たな販売方法として「バリューコース」と「ベーシックコース」を発表した。11月より順次発売する905iシリーズから、どちらかのコースを選んで端末を購入する。
KDDIはau携帯向けの新たな料金・携帯購入方法を11月12日に導入。ユーザーは、同社が購入金額の一部を負担する代わりに月額利用料金がやや高い“フルサポートコース”、月々の利用料金を抑える代わりに購入時の金額補填がない“シンプルコース”の2種類から選択できるようになる。
おサイフケータイの機種変更時で“ありがち”なのが、古い端末でやるべきことを忘れて、新しい端末に替えてしまい、新しい端末で途方にくれる……というパターンだ。本記事では、おサイフケータイの機種変更&故障時になすべき手続きを詳しく解説する。
家族間の通話が24時間、無料に──。ソフトバンクモバイルが、ホワイトプラン加入者を対象とした家族割引プラン「ホワイト家族24」を提供する。追加料金なしで利用できる。
ソフトバンクが新料金プラン「ホワイトプラン」を発表。ホワイトプランは月額基本料980円の料金メニューで、新スーパーボーナス加入必須などの付帯条件はないという。

 

[ 218] とにかく、映画好きなもので。 - livedoor Blog(ブログ)
[引用サイト]  http://blog.livedoor.jp/orange0802/

ネルソン・マンデラ大統領という名は聞いた事がある。かつて彼自身がロベン島の刑務所にいたという事さえ知らなかった私にとってこの物語はどのように映るのか期待して観に言った。
論理としては分からないでもない。弾圧されるのならばそれに対峙する方法は武力しかないのだと。その言葉を反芻するたびにマハトマ・ガンジーの唱えた非暴力跳ね上がってきた。
それゆえに、ネルソン・マンデラ(デニス・ヘイスバード)という人物。そして取り分け彼の看守を務めた男の心情はどのような変遷を辿るのかという人間的興味によってこの物語は支えられていく。
アパルトヘイトを起点としたこの物語は、根深い人種差別の様相を作品全体に投げかける。黒人は人間とみなされず、刑務所でも扱いは不等な差別の繰り返し、家族や知人との手紙は全て開封され、問題だとみなされた個所は全て切り取られ手紙として体を成していないものを渡される囚人の表情には絶望よりも唖然とした顔が見える。
ジェームズ・グレゴリー(ジョセフ・ファインズ)という人物の本当の内面を追っていくのであれば、彼はこの刑務所で辛くも重要な役割を果たす事になる。彼こそが囚人の素行を完全に把握し、手紙を検閲するアパルトヘイトによる反抗勢力を事前に察知し計画を頓挫させるという国家の存亡と国民の命を守るという検閲官という役割だ。
手紙に認められたテロの暗号、計画の周知を事前に察知し悉く通知していく。しかし、ジェームズはやがて彼が告げた仕事の裏側で数々の人が亡くなっているという事実に突き当たる。
そこにジェームズが心の底に何か歯がゆいものがあるとすれば、彼の過去に語られるある少年時代の友人が黒人であり、彼が心を通わせた唯一無二の存在である事が彼の胸に忍ばせた缶ケースの中に綴られるからこそこの看守が家族、そして刑務所で奉仕するという事に疑問を覚えてならない一番のきっかけとなったのかもしれない。
ある種これはネルソン・マンデラ、そして人種隔離政策で差別を受け続けなければならない人々の悲劇を描くと同時に、かつて純粋で肌の色によって差別を受けるといいう事をも薄々知りながらも、友情を心の隅に抱え、また国家という枠組み、そして仕事、美しい家族に囲まれたゆえに恩恵を受け続けてきたジェームズという男の無知という悲劇にも繋がるのだ。
一方で興味深いのは隔離された刑務所の外枠を提示するロベン島という場所、コミュニティは不必要なほどに対黒人意識の様相を蔓延させ、ジェームズの妻を始めとした刑務官の妻達もまた虫けらのように黒人を扱うセリフを悉く吐いていく。
それに呼応するかのように、ジェームズの妻グロリア(ダイアン・クルーガー)もコミュニティという孤独の枠組みにはまり込み、彼女からも信じられない言葉が応酬のように吐き出され、そして夫の地位と出世のみを信望する奥さんとしてその片鱗をほのかに見せていくあたりは興味深い。。
物語の起点としてやはり、差別は良くないというメインを描くよりは、主に描かれるのは人間である。元々国や政治の風により思想や考え方、そして生活さえも囲われて過ごさなければならないジェームズの居場所もまるで隔離されたかのようで、そこから抜け出す発端を探し続けているかのように出口を模索する。
黒人の側に付いただの、人間扱いを受けない彼らと口を聞いているだの、ジェームズは理不尽な村八分を受けてもやがて、ネルソン・マンデラが唱えた国民憲章、そしてネルソンが話す一言一言を次第に心に再考していったのかもしれない。
ジェームズとネルソン・マンデラが次第に、兄弟のように人間としての邂逅を果たす瞬間は数多く訪れている。それは時間がもたらした当然の帰結なのか、もしくはジェームズが元々持っていた人間としての心の顕れを自然と紐解いて行く作業に過ぎないのかもしれない。
そう今も南アフリカに横たわる隔離の温床を解決する方法は、本来、人間同士の対話、そして模索していく事から始まるのかもしれない。それは恐れてもいけないし、真っ向から向かっていく素直さもまた武器となる事を示す格好のテキストであろう。
誰も見た事が無い大昔という着想は良いけれど何だか消化不良。人類が立ち上がる時リーダーが少しずつその勇敢さと使命を帯びていく。
紀元前一万年の反逆精神をプロットに描かれて行く。背景は『スターダスト』のようローランド・エメリッヒ監督はこのあたりのビジュアルが大好きなんですね。
この時代を再考した映像はあくまで神々しく描かれている。ヤガル族という部族には伝説があり青い目をした少女やら、マンモスを倒した者が白い槍を受け継ぐなどなど小道具感はたっぷり。
カミーラ・ベルの可愛らしさもしかり、主人公が運命に選ばれた人間として描かれている強引さもあるが、物語は紀元前一万年のビジュアルと荒野を駆け巡るマンモスとの追走劇になだれ込む。何とかマンモスを射止め、エバレット(カミーラ・ベル)を妻にする事が出来たデレー(スティーブン・ストレイト)の葛藤が主人公の性格の付箋となる。
唐突に差し挟まれる襲撃によりエバレットと村の仲間達が連れ去られてしまう。エバレットを助けるべく少数精鋭で追いかける彼らに立ちはだかるのは、でかくて恐ろしい鳥(飛び回って人を食い荒らす)だったり、サーベルタイガーという凶暴ななりをした虎のでかいバージョンだったりと休む暇も無い。
やがて、彼らが辿り着いた場所に開けた光景は・・・というアドベンチャーものを周到した大スペクタクルである。。
とにかくこの時代を再現するために、様々なアイデアが取り出され映像にぶつけてきた感じがある。ごちゃ混ぜ感は無いものの追い掛け追い越せの闘いの構図とデレーが部族を統合するリーダーとなり戦いに邁進していくあたりはどこかで見たデ・ジャブ感たっぷり。
『インデペンデンスデイ』のホイットモア大統領演説シーンと全く同じようなシーンもあり、一人の勇敢な戦士が虎と話せた(話したのか?)だけでリーダーとなってしまうあたりこの時代の伝説や言い伝えがどれほど尊重されてきたのかが描いてあって面白い。
だけど言い伝えや伝説がいいように解釈され、彼らの旅路を助けたり、エバレットの偶々手に付いた傷を何故か伝説だといって謎の国の王様が意味不明に恐れたり、ほんの思いつきな感じで物語が進んだり、とどめを射さなかったばかりに死んでしまったりと冒険ものの今までの定石をこれでもかと続けていく物語構築の矛盾さに辟易した。
さて、何とも不気味な敵の統領の雰囲気や、ここはエジプトだったのか?と思わせるピラミッド建設シーンなど、デレー達が挑んだ敵の様相を見せ付ける一方で、エバレットが可愛いあまりに惚れてしまう敵の一人の刹那さなどなど見所はそれなりにたっぷり。
でもさすがにラストは強引過ぎてびっくりした。これじゃ話がまとまるようでまとまらないでしょ。と思ってしまったゆえに単純なヒーローものとして、何も考えずに見るのが得策かも。
チャーリー・ウィルソンという人物が成し遂げた仕事、人間としての一面をトム・ハンクスが嬉々として演じている。
彼は仕事中も酒を片手に美女軍団の秘書に取り囲まれて仕事。依頼をしようと駆けつけた人々も少々眉を顰めつつ、彼の話術に惹き込まれるアクの強さもまた魅力の一つなのだろう。
政治家だって、偶の?息抜きには遊ぶはず。しかし、彼が捕らえたアフガニスタンの現状。そして映画に差し込まれるヘリからの理不尽な銃撃による市民が惨劇に巻き込まれている図もまたその当時の様相を少しずつ知らせていく。
アフガニスタンがソ連の侵攻を受けていた中で住民が死んでいく姿、立ち上がろうとしても太刀打ちできない現状にチャーリー・ウィルソンは何かを感じたのか、隣に裸の美女が居ても現状を報道するテレビに釘付けである。
一度思い立ったら、彼は留まる事を知らない。国防歳出小委員会がアフガニスタン支援へ500万ドルしか供与しない事を知り、その値段を倍にし、アフガニスタンがソ連に対抗しうる武器と中東の各国を巻き込んだ利害関係にも一手を投じていく。
チャーリーに協力するのは反共産主義者のジョアン(ジュリア・ロバーツ)。反共のうえ右翼パーティを開催する彼女に胡散臭いものを感じつつも、誰かを救う仕事となったら話は別で・・・
そのトム・ハンクスでさえ太刀打ちの出来ないアクの強いCIA捜査官をフィリップ・シーモア・ホフマンが天性の演技で魅了。ガストという名前も良いし、いかにも胡散臭そうだが、実直に協力していく姿と一度事を始めたら妥協しないふてぶてしさが素晴らしい。
そうそう『魔法にかけられて』のエイミー・アダムスもチャーリーの秘書として美しい後姿でチャーミングに魅了する。これにもノックアウトかも。
アフガニスタンという国の悲劇という側面を追いかけ、冷戦下での国として役割をソ連にノックアウトさせる節々がCIAとの会話からチラホラ聞こえてきたり、酒と女が好きだけど、仕事には手を抜かず、真正面から、時には裏から切り込む姿はこの当時のアメリカの政治家の側面と本音を知るのに十分な迫力を持って綴られる。
米ソの冷戦構造を背景に描きながら、いかにして一つの国を救うかという彼の心情や国際政治の因果関係の肝は割りと流れるように描かれ、いつまでも最も大切な方法を模索し政治に関わろうとする人間味にポイントが当てられているゆえに不完全燃焼気味な作風を受けるが、その答えはラストに待っていたのかもしれない。
ラストの彼の一言は、過ぎてしまった事だが最後の一手まで面倒を見なかった見返りが見事に皮肉られているあたり、ただの偉人伝を描いただけでなく、チャーリー・ウィルソンという人間の様々な姿、そして時おり見せる欠点も素直に描いているので素直に彼に共感出来るのではないか。
刑務所が彩られる。四季は場違いな極彩色のようで、小道具も堂が入っている。人間の感情を表すのにはこれほどに大げさに、突飛でなければ愛の歌にはならないのだろうか、主婦のヨン(パク・チア)が行き着くところにはとんでもない結末が待っている。
チャン(チャン・チェン)は死刑囚であり、度々刑務所で自殺未遂を図る。喋る事は出来ない。時間は平坦に過ぎ、同房の男は彼に寄り添い嫉妬の渦を巻き起こす。
夫が繰り返す浮気の笑顔に愛の渇望を転化させる術は、ヨンにとっては死刑囚の自殺未遂のニュースによるのだろうか。彼女はチャンに会いに刑務所に行く。
そこで出会った男と女。監視するのは愛の姿が生み出される瞬間を捉えようとする監督の視線であり、その姿はスクリーンの監視映像にうっすらと浮かび上がる。これは観客の視点をそのままなぞらえるのかと思いきや、チャンとヨンの逢瀬に一役買って出る。
個人的には、ヨンは夫と娘、裕福な家庭像を持ち合わせるが、どこかで全くの他人になりえる可能性を日々模索しているように感じた。シャツを洗濯中に落としてしまい、拾いに行く。捨て切れないシャツのように彼女は現実の檻に縛られているかのようだ。
夫の浮気という現実から逃れるにはあまりにも辛い日常とはかけ離れた刑務所の男に強く惹かれるのは、どうしてだろうと考えながら見てみた。ヨンは面会所を春・夏・秋・冬と季節の壁紙を貼り付け、その季節に合った歌を思い切り歌い、チャンの迫りを待ち続ける。
交わされる空気は、刑務所という場所には似つかわくない場違いな雰囲気。あまりにも寒々しい冬の空気は夫の浮気と生活に疲れた主婦の新たな世界となり、また外の世界とは無縁の死刑囚の心を次第に融解して行く。
作品が感じさせる時間に関しても、外の世界は厳冬を感じさせピタリと止まったかのようで、ヨンの行き渡る事の無い生活時間を止めるかのような息苦しさを感じる。また死刑囚チャンの死までの時間もまたこの作品では止まり続けるように感じる。
しかし、チャンが持ち込んだ季節という一年の流れはヨンにとって刑務所内ではかけがえのない時間にしようと時を早めているかのようだ。チャンが着る衣装と溢れんばかりの歌声に嬉々とした愛を唱える様は滑稽さを超えて唖然としか言いようが無い。なぜか愛を交わらせる時間を生き急いでいるようにも感じる
やがて、チャンとヨンは息継ぎを始める激しい素行により、頂点に達した愛のエロスは息という生の象徴を止まらせる緊張感に満ち溢れる。あまりにも危なっかしい男と女の季節の物語。決して安住は出来ないこの世界でヨンとチャンが見つけた結論はあまりにも刹那的で、まざまざとその呼吸を見せ付ける。
ボスニア紛争という内戦の惨劇を真っ向から捕らえている。隣を見ると危険極まりない場所に潜入していくリポーターのサイモンとカメラマンのダッグの背後から駆け巡る映像の臨場感は決してお遊びではない彼らの仕事を描く。
サイモン(リチャード・ギア)は紛争地域の最前線で命がけでリポートを続ける男。おそらくカタルシスとか、アドレナリンとかとは違った彼の使命は誰にも撮れないリポートをこなす職人としての顔をよぎらせる。
それに随行するカメラマンはサイモンとは違い、恐る恐る忍び寄りながらもサイモンに絶大な信頼を置いているダッグ(テレンス・ハワード)であり、彼はサイモンとは違い銃撃を何度か身体に受けているらしい。
そんなある時、サイモンは吹っ切れた。心のたがは一気に外れ、導火線に着いた火はまっしぐら。とんでもないリポートをして仕事をクビになり業界からもやがて姿を消す。
二人はやがて、ボスニアのサラエボで再会する。特ダネを持っているというサイモンの言葉に揺れるタッグ。今の生活を手放してでも危険な行脚に同行するが、そこには思いもよらない危険と悲しみが渦巻いていた。
実在したジャーナリスト3人のお話という事でサイモンとタッグのコンビに拍車をかけるのは、親のコネ入社の新米プロデューサーのペン(ジェシー・アイゼンバーグ)の若さという勢いと周りを見返したい奔放さ。
彼らが追うのは紛争で重要犯罪人とされるフォックスを捉えインタビューを撮る事。だがそれだけではすまないのがリチャード・ギアの笑顔から滲み出る。何と彼を生け捕りに祭り上げようとしていたのだ。
命がけの商売。とは名ばかりに彼らの追想劇が始まる。時には危険に満ち溢れ、おそらくこの作品で描かれた事は事実と作り事が混同しているのだろう。次第に3人のジャーナリストはCIAの工作員に間違われ思わぬ方向に・・・
取り立ててめぼしい物語の筋はないものの、キャラクターと勢いで引っ張っていく作品。特にダイアン・クルーガーが裏工作の一員!?を演じてたりして中々堂に入った感じで面白い。それを裏手に取ったベンの言葉の機転も何だかバカらしくて少々野暮かも。
カメラ一つ、身一つで内戦の最中に紛れ込んでいく見上げた根性を描くのなら、これほどのキャスティングはバランスが取れていて良いのではないか。
サイモンはある事実を抱えているのにも関わらずノリノリで、命がけというよりかは、どうにかなるだろうという精神で動いているようにも見えてキャラクターが掴み難いのが難点だった。
さて物語のメインは、なぜサイモンがある日、生放送中に吹っ切れとんでもないリポートをしてしまったか。というサイモンに隠されたある事実による個人の復讐とも報復とも言い難い個人の物語に展化して行く。
作品のスタンスとしてボスニア紛争に対して入り込めない人間の個別心理を嘲笑っているかのようであり、『ノー・マンズ・ランド』のような最前線の人間を描いたボスニア紛争の映画が出てきて以降としてはそこに介入した報道マンの心理を描くものとしては弱い。
それに乗り込む彼らの珍道中は見物。危険を冒しているのにサイモンとタッグのノー天気なキャラクター加減には唖然。でも最終的にはそれぞれの機転を生かして進んでいくのだから楽しめる。
CIA工作員に間違われた報道マン三人組のボスニア紛争取材は思いもよらない方向に進んでいく。でもサイモンのスタンス、タッグの嫌々ながら感じるカタルシスの再興、ペンの勢いたる機転によりパーティは盛り上がる。
どちらかというと、個人の思索は別にして報道によるスクープには余念が無い男達。真実を告げるには強行突破も辞さないその態度と決心に繋がるラストに彼らが見せたお膳立てには驚く。
とにかく走り、獲物を追いかける精神は野生のもの。本能が赴くままに動いていく様はタッグの表情にも表れ、サイモンの比類なきバカ笑顔に象徴されるゆえに、どこまでも挑戦状を叩き付ける。
死ぬまでにしたい10のことではなくて沢山の事。たとえ多くたっていいじゃないか。一つ一つのリストに載せられた希望は爽快で、パワフルで、笑顔に満ち溢れている。
さて、この二人のおじさん・・・というかおじいさん。困ったものである。家族の心配をよそに病院で相部屋になったカーター(モーガン・フリーマン)の書いていたメモを見たエドワード(ジャック・ニコルソン)はしばしこの夢想に明け暮れる。
思い立ったら老いていてもやはり男。余命を告げられてもやはり男という事で、カーターとエドワードはスカイダイビング、カーレース、世界中のあらゆる絶景へと旅立っていく。
自動車整備工として日々雑学を蓄えながらも家族を養い堅実に生きてきたカーターも、様々な女性と結婚しながらも家族を顧みずに仕事に邁進した大金持ちエドワード
だが、どんな人生を生きようと、病気という名の運命を知りながらもそこから逃げ出す物語にはならないのだ。それを踏まえたうえで恐らく彼らにとってこれが最後の旅になる事は彼らも重々承知の上で、人生最後の謳歌を見届けるのがこの作品の魅力となる。
一番感じたのは、ここまで生きてきたという達観ともう少し生きてこの世を見届けたいという少々の寂しさが入り混じるところか。モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンという二人の名優によって度々スクリーンに重ねられる二人の表情のにがりには思わず一縷の望みにかけたいというはかない思いも語られるのだ。
それを取り巻く家族の姿も象徴的であり、カーターには家族が見舞いに来る一方でエドワードには男性の秘書が身の回りのお世話をするのみである。たとえお金と名声があってもエドワードはその生活に浸りきっているのだが、かつて彼と共にいた家族の温かみというものをすっかり忘れている。
だからこそ、旅に出て以降カーターを心配し電話をかけてきた妻にエドワードは逡巡しへなへなと愛想を振りまいてしまうのかもしれない。
ここでやがて気付くのだが、エドワードとカーターにとってリストに書いている事を思うがままにする事は楽しくて仕方がない事なのであろう。
しかし、人生において死までのわずかな期間で見つけた最高の心とは、エドワードとカーターが互いに共有し、過ごす事でエドワードはカーターに、カーターはエドワードにかけがえのない感謝の念ではないかと強く思うのだ。
改めてエドワードは家族というものの大切さを心にしまい、カーターはエドワードという打算がなく真剣に生きている人間と過ごす事、彼と共に大いに笑う事で最高の薬を与えられたかのような幸せに満ちる事になる。
決して欲ばりな映画では無い。特に世界一の美女にキスをしてもらうという夢のくだりは思わずその優しさに笑顔がほころぶ。そう誰しもが知る事の出来る温かみと唯一無二の友情を得た彼らの人生は二人の心の声と秘書の心意気によって見事に彩られる。
霧が外を覆う世界。外には何かがいて今にも襲ってくるのではないかという恐怖がある街のスーパーマーケットの中で蓄積されていく。
すっかり外の脅威におびえ続けていた人々は中にも脅威がある事を知る。見えない恐怖というのは二分され、まさかそんなものいるわけないだろうと思う人間と、何かが絶対にいると信じて止まない人間だ。しかし、そこに外の霧が晴れないのは神の仕業として狂信的に叫ぶ人間もいたりして。
作品は観ていく内に思わず変貌して行く。スーパーマーケットは様々な人間の思索の縮図と化し、誰が正しくて誰が間違っているかなどという線引きは到底無理になってくる。
激しい嵐の明けた街で、発生した霧。デイヴィッド(トーマス・ジェーン)は息子のビリーと隣人のノートンと街のスーパーマーケットへやってくる。レジの雰囲気はいつものようにスーパーマーケットの日常を映し出し、これから何かが起こるという事を知っている観客はその日常性の中にこれから霧に覆われるであろう人の顔を直視していく事になる。
そこで鳴り響くサイレンとともに霧がスーパーマーケットの周りに不気味に迫り来る。その中で動いていく人間達。無性に店の中のあらゆる事と外に何が待ち受けているか気になって仕方がないのは観ている私も同様に、外へのアプローチが次第に凄惨な現場を揺り起こす。
この作品が怖いのは、人がレールに沿うように予見した出来事が本当に似通った事象だと気付くと、それを妄信してしまうところにある。それが最初は頭のおかしいと思っていた人物が語る言葉だったとしてもだ。
マーシャ・ゲイ・ハーデン演じるミセス・カーモディは、霧に包まれた世界の様相、外にいる生き物、そして無数に襲い来る巨大な有象無象のシーンの悲惨さに折り重なるように、聖書の言葉を引用しながらも最初は周りの人々には相手にされない。
もう一つこの作品に起点があるとすれば、時間である。人々は外に出ようにも出られない閉塞感とともに、時間の流れが止まったかのような極限状態で闘いを強いられる。この地獄は永遠に続くのかと。
一つ一つの状況と時間のプロットが次第にカーモディの言葉に折り重なる。人々は信じがたい光景を目にした時にやはりすがるのは神。そして神の代弁者の言葉は人々の意思という犠牲を伴い、一つのコミュニティを作り出していく。
まるで村だ。信仰する神を称え、災害や事故に対してそれは神の怒りとし生贄を捧げようとする。村の中には政治が存在し大多数の意見によって占められた村社会は成立して行く。
そこでは自分の意見も考えも声高に主張は出来ない。リーダーの下に集まり外への脅威と拮抗しながらも神の名の元に団結していく。それがこの作品の怖さ、人間の本来持ちうる怖さを真正面から皮肉にも正統的に描いている。
そしてそれに乗った人々と自分は違うと思い、別のルートを探していくデイヴィットに観客が乗せられた時、物語は加速度を上げて進んでいく。もはやその頃には怪物の怖さは背中から引いている、集団心理の怖さが瞬く間に襲ってくる。
もしこの現場に自分が居合わせたら、どのように行動していたかと思ってしまう。映画を観ているうちはデイヴィッドと彼の行動に沿うように進んでいくそれぞれの村にはとっての反逆者に心理を寄せたくなる。
一方で実際にこの現場にいたらカーモディの言葉に自分も耳を傾けてしまうのではないか。あまりの恐ろしさにすがるものにすがりつきたくなるのではないかと思ってしまう。
しかし、物語はあくまでも予想外の結末を迎える。誰が正しいか、人間の行動は何が規範となるか。この世界ではもはやどんな考えでも通用しないという状況下がある事、そしてその状況下に踊らされた世界は、霧に覆われたままだ。
ショートカットのセシル・ド・フランスがくるくると可愛らしい。パリにもぐりこむ彼女は様々な人と接する事で、自分自身の新たな道を描き出す。
何ともこの作品の魅力はやはり、ジェシカ(セシル・ド・フランス)が出会う人々に心の底から敬愛を腹って接していく過程であろう。人を疑う事を知らない純粋さもまた魅力だが、彼女に接した周りの人々もジェシカという女性に触れる事で、なおの事光っていく。
そう人間はたとえ頂点にいたとしても、自分の立場が上り詰めようとしていてもどこかで不満を抱えているもの。他人には些細な事に見えるが、ジェシカはそんな彼らの話に耳をしっかりと傾けてくれる。
それはジェシカにもいえる事だけど、マトンから出てきた破天荒さが良い意味でステレオタイプな価値観を打ち崩す。
それまで築き上げてきた人々の苦悩を語るとすれば、殻の中に閉じこもり中々自分の思いを伝えられない彼らの気持ちは悩ましい。
著名なピアニスト、ジャン(アルベール・デュポンテル)の今まで自分が思っていた音楽への対峙の掛け違い、シャンゼリゼ劇場の舞台で自分の思いとは違う舞台に立たなければいけないという苦悩を抱えた女優カトリーヌ(ヴァレリー・ルメルシェ)の晴れない表情、過去に亡くした妻との思い出をもオークションに売り出し新たな道を模索しようとする資産家グランベール(クロード・ブラッスール)のあまりにも切ない気持ちがスクリーンを曇らせつつもジェシカの表情と共にユーモアたっぷりに描かれていく。
きりっとしたショートカットが作品のトーンを見事に決めたかのようだ。ジェシカがスクリーンに映ると、なぜだかふんわりとした優しさに包まれると同時に、どこかで新しいきっかけを探す事で自分自身を良い方向に塗り替えたくなる。
直接的にジェシカの性格や考え方が彼らの苦悩に修正を施すわけではなさそうだ。どうにも出来ないと思った彼らはジェシカの心に触れる事で、かつて自分が持っていたある気持ち、忘れたくない本来の自分の魅力を改めて見直すきっかけと知るのみである。
そこからは自分自身で決めなければいけないという事を知っており、なおの事その転換が俳優陣の快活で、殻が打ち破られた瞬間が笑い、歓び、時には寂しさを装いながらもすらりと示されていく。
音楽に耳を傾ける劇場管理のおばさんの自分自身のスタイルを貫くかのような魅力もまた素敵におかしい。ヘッドホンに全身全霊で身をゆだね歌いまくるすがたは愛嬌たっぷりで、彼女の定年による別れのシーンなどはジェシカともども仕事に実直ながらも人生を楽しむ事を願って止まない人間の姿を秀逸に顕し、またこのおばさんへの敬愛に溢れたまたとないシーンに仕上がっている。
ジャン、カトリーヌ、グランベールの顔を追っていくと彼らの夢は未だ衰えずこれからある人生の糧の輝きを改めて知ったかのように静かに微笑んでいく姿がまざまざと心に染み入ってくる。そんな彼らを最も近くで応援し、話し込んだジェシカにとってもパリで起こったある邂逅に身を躍らせる事になるのだが・・・
静かな夕べのカフェで営まれる夢のような時間ほど、かつてジェシカの祖母(シュザンヌ・フロン)が夢見たパリの時間と同様に吸い込まれるようにきらめいていく落ち着きは甘く幸せな時間に満ちている。
全くドラマシリーズを観ていないにも関わらず挑戦してみたこの作品。さて一体どんな事件が待っているのかという楽しみは主演の水谷豊と寺脇康文の絶妙なコンビによって見事に助長されて行く。
連続殺人の現場に残るのは不思議な記号。事件は猟奇性を秘めているが、どこかで動機を探しあぐねる過程で、杉下右京(水谷豊)と亀山薫(寺脇康文)の静と動のキャラクターがはっきりと分かっていく感触が心地よい。
この二人を見ていると子供の頃に楽しんだ「刑事貴族」シリーズを思い出す。水谷豊演じる本城慎太郎のキャラクターとは正反対で冷静に駒を進めていくかのように事件の本筋を追いかけようとするこの作品に杉下右京という人間は、決して妥協せずに物事を順序立てて捉えていく不思議な魅力の刑事である事は間違いない。
そして連続する殺人事件を追いかけるうちに、右京が頭脳だとしたらその手足となって事件への解決を一歩一歩と追い詰めていく亀山薫とのコンビネーションも抜群。体を的確に動かし、決して諦めない心情は右京が彼の事を優秀な捜査官と認めているゆえに作品を動かすダイナミックな要素となり見所を牽引していく。
さて、事件にはその枠を際立たせるという何よりもプロットに惹かれなければのめりこめない。不思議な記号はチェスの棋譜となり、そこにあてがわれた事件の全貌、犯人を追い詰める過程は観ていて中々緊迫感に溢れている。
副題にもあるように東京ビッグシティマラソンという東京都下で行われるビッグイベントがラストの主な舞台となり、なぜ連続殺人が行われたのか、そして連続殺人犯の動機が事細やかに示されていく。
その事実を知った杉下右京と亀山薫は逡巡する。最初は決して許されないと思っていた犯行劇に対して、人間なら誰しもが捉える事の出来ない国民の残酷さがまざまざと浮き彫りになっていくからだ。
ゲームのように人を殺すという仕掛けを施したゆえに、犯人もまた人間の心というゲームのような浅はかな感情の代弁者であったかもしれない。とはいえ以下気になった点を。
地図とチェス、そして犯行の心理の裏側を読むというプロットの見せ場は面白い。もどかしいくらいに先が見えない展開に飲まれた右京と薫の追跡劇は机上の空論だけではもはや追いつけ無さそうなところで、ふとしたカタルシスでスッと線引きがされたかのように王手を下す感覚に見舞われる。
だがチェスの棋譜を事件の仕掛けとしているものの、事件の穴を突くという意味ではマラソンのシーンは得てして警察を振り回すだけの二番煎じに映りもったいない気もする。
犯人のレールに乗せられていたというラストの回答によりこれら一連のプロットはすんなり落ち着くが、沢山のダミーを仕掛けては、最終的に競技場で落とし所をつけるのならば警察をわざわざ挑発せずに別の手を考える事も出来たのではないかと勘繰りたくなる。
そもそもマラソンのシーンで警察が右往左往するだけで一切、マラソン本部に協力を要請していないとも取れるのがもどかしい。こちらとしてはドタバタ喜劇など見たくはないのだから、ここら辺の演出はしっかりとするべきだった。
国民の命を優先すべき事態なのにも関わらず、ゼッケン番号を追い掛け、ボートを奪取していくシーンなど、その後の対応が以前として示されなく、右京と薫の単独行動で帰結しているのも見所といえば見所。まあ政治の圧力やら、計算やらがあるのならばまた話は別なのだが。
それゆえに犯人は、警察に仕掛けを気付かせどうにかしてその思索を読み取って欲しいという願望を次第に明らかにし、最終的な真意が現れるゆえにわざわざ考え抜いて計画を立てるという行為に、そこまでしなくてもと思ってしまう。
犯人の仕掛け、連続殺人に関しては、どうしても許されない事として右京の中では回答を示している。決してしてはならない事という心情は読み取れるものの、どうにかして犯人の心情を汲み取る行為ゆえに壁にぶち当たってしまうあたりはもどかしい。
一転して、凶悪と思われる事件の裏側に隠された人間の秘密、そして社会の残酷さをまざまざと見せ付けるという点では非常にメッセージ性がある。それゆえ人間の発言ほど、責任を取り違えた語りほどむなしいものはないと感じさせる。それを一番痛切に感じた右京と薫の心情と被害者でもあり加害者でもある血の繋がりを払拭する事の出来ない悲しみが広がるが、人間を守り通すと決めた彼らの心はスクリーンを通じて見事に伝わってきた。
街はどこか寂れた空気をいつも持っている。ラブホテルの屋上にある公園がもたらす効用とは、驚き以前にもしかしたら何かを待っていてそれに気付けない人間のもどかしさを解放する一時の楽園かもしれない。
ラブホテルを経営する艶子(りりぃ)の表情は無愛想で乏しい。何を考えているのか分からないが、少なくともスクリーンに映し出される彼女の行動からは、実直さと仕事に対する誠実さは伺える。
物語は3人の女性が関わっていく。ポラロイドカメラを手にし街と人の姿を焼き付けていく美香(梶原ひかり)。毎朝ホテルの前をウォーキングする月(ちはる)。毎回別の男とラブホテルにやってくる常連マリカ(神農幸)。
人にはそれぞれ事情があり、何とか毎日生きている。それぞれの思索は、行き当たる事のない感情を心に秘めながら泣いているかのようだ。
そんな彼女達がラブホテルを駆け上ると眼前に、そこだけまるで異なった別世界のような公園が広がる。そこで遊びまわる子供たち、子供をあやす母親、のんびりと談笑する老人達。
この公園がスクリーンに映るとありえない世界、ありえない場所だと思う以前にラブホテルの屋上に公園という空気が広がると、なぜだかおかしさと不思議な高揚感が溢れ出てくる。
これはセット、美術の力もあるのだろうか、何となく最初はよく見えない場所が次第に鮮明になっていく喜びを感じさせてくれる。そんな感覚をこの公園に覚えるのだ。
ちょっと人と違う。最初は自分自身だけの基準だと思っていたものは他人から見れば全く違う視線で見えてしまう。
ラブホテルの屋上に公園が広がるときに彼女達が感じたのは、おそらく人とは違うと思っていた事。自分のうちで抱えていたほのかな咎もまた場合によってはあっても良い事なのだと想い、また新たなステージを踏もうとする一歩なのではないかとじわりじわりと感じる。
そんな3人の女性と関わるうちに、艶子の何かがはじけたのだろうか。彼女が流す涙には愛おしさを感じる。
毎日同じ行為を繰り返し、屋上の公園という一時の理想のに実はすがりつきたい過去を抱えてしまう艶子の感情は当たり前で、それこそ人間の捨て切れない過去を再考し、ある時は捨ててしまわなければならないのかという自問自答に陥ってしまうという真実をあざ笑う事無く、真正面から見据える感情は頼もしい。

 

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