今後とは?/ マイワン
[ 485] X51.ORG : 人間の寿命は今後20年で1000歳以上に
[引用サイト] http://x51.org/x/04/12/1018.php
従って、おそらく今後10年の間に我々はまずネズミに対して実験を行い、その寿命を著しく延ばす事に成功するでしょう。 そしてその次の10年間で、人間にも適用することが可能になると見込んでいます。この技術が完成すれば、我々はもはや老化による老衰や虚弱、そしてそれらに起因にする疾病を恐れることはなくなるわけです。 もちろん、こうした技術が完成した後も、我々は不死になるわけではありません。それは例えば交通事故や、毒蛇にかまれた時、新種の悪性インフルエンザにかかった時、我々はこれまで通り死ぬでしょう。しかし、我々全てを待ち受ける死因の一つ - 老衰は避けられるようになるわけです。 また私の推測では、この技術は現在生きている我々の世代に適用することが可能だと考えています。なぜなら、現在中年や老年の身体に蓄積された損傷も修復することが可能だからです。従って、この技術が完成し、1000歳まで生きることになる最初の世代は、今現在60歳程度の世代になるのではないかと考えています。 ただし、この技術は老化それ自体と同じく、非常に複雑なものとなります。老化現象は大きく分けて7種類の細胞と分子の損傷が原因となっています。例えばそれは細胞が置き換えや転換なしに失われていくことなどです。しかしまた、これらの現象は現在使われている、あるいは開発中のテクノロジーによって潜在的には修復可能なことです。 人の寿命は様々ですが、現在一般的には、大体65歳から90歳くらいの間に死亡しています。人は年齢を重ねるうちに虚弱になるからです。しかし今後、人の平均寿命は大体数千年単位の範囲になるでしょう。これはもちろん推測値に過ぎませんが、この数値は現在の若年死亡者の平均寿命から導かれたものです。 例えば現在、あなたが安全な地域で暮らしている十代の少年であるとした場合、あなたが翌年死ぬ可能性は非常に低い。従って、その場所で生き続ける限りは50/50の可能性で千年以上生きることができるようになるわけです。 そしてここで重要なのは、そうなった場合、誰しもが虚弱や衰弱を恐れなくなるようになるということです。誰もが精神的に、そして肉体的に若いため、つまるところ貴方が気をつけるべきなのは、迫りくるトラックの速度、すなわち交通事故などになるわけです。 また、もし我々の技術が完成し、実際に老化が防止されるようになれば、大きな社会的変化が起こるでしょう。事実、現在我々が行う研究に対して惧れを抱き、人間の自然の摂理に逆らうべきではない、と主張する人々も少なからず存在します。しかし、私に言わせればそれこそ悪徳であると思います。そうした主張はすなわち、我々は生きる権利を否定するべきである、とするものと言えるでしょう。 確かに、人が生きること、死ぬことを選ぶのは人間に与えられた最も基本的な権利です。しかしその一方で、我々の力の及ぶ限り、人々がより良く生きるチャンスを与えることは、我々の最も基本的な義務の一つなんです。 例えば人を延命すること、そして命を救うことの間には違いはありません。何故なら、それらはどちらとも、我々が彼らに対してより長く生きる権利を与えることに他ならないからです。そしてこの理屈でいえば、抗老化を行うことを否定するのは、そのまま老人を延命することに価値はない、というのと一緒で、高齢者差別だとさえ言えるでしょう。 また一部にはこのように革命的に人々の寿命が延びたならば、人は恐ろしく退屈な日々を送ることになるのではないか、と主張する人もいます。しかし、私に言わせれば、まったく逆です。寿命が延びることにより、人はその生命を最大限に利用して、能力を高めていくことが出来るでしょう。実際今日でさえ、しっかりとした教育を受け、探求心を持った人は退屈など感じる暇さえありません。それに人が興味を持つべきものがこの世から全く無くなるなんていうことは想像もできません。 それから、中にはこうした抗老化技術の開発をあたかも神様ごっこのようであるとして、自然に反するものであると否定する人々もいます。しかし、私に言わせれば、我々が発見出来るものを無視すること、そのほうが余程不自然なことです。我々人類はこれまでにも、車輪や火を開発し、その能力や苦手なものを補うことを実現させてきたわけです。 そして我々は今、人類が長い間恐れ続けてきたもの、老衰や虚弱に対して戦いを挑むわけです。それに、もしこれが神様ごっこに見えたとしても、おそらくそれさえも、結局は神の手のひらの上の出来事に過ぎないわけですからね。」 現在、オーブリー博士は大学でのSENS計画を進める一方、ネズミを延命させる事を競いあうメトセラマウス賞も主催している。 昨日の奇跡体験!アンビリバボーで「衝撃報告!20年後にヒトの寿命は1000歳になる」という特集をやってました。不老不死を実現している生物としてベニクラゲが登場し... 元放送作家でエッセイストとして知られる永六輔氏が、多国籍IT企業フィリップスにより極秘開発された「リバース・エイジングLEDアレイ」の実証人体実験に参加... これが普及したら、頭の固いじーさんばーさんが死ななくなっちゃうじゃないか。ほっといても自動的に世代交代していくのを俺はすごく期待してたのに。 善人で生きている人は、死んだ後に天国にいけるから。とか考えるんだろうけど、老衰が無くなるってことは、ほとんど死ぬってことが考えられなくなるのと同じなのではないだろうか? 人間の興味がなくなることはないっていうけど、実際生きれる年を増やす前にいろいろと法律やらなんやらを変えなければならないとおもうね。40代以上の中卒の人とかが気軽に通える高校とか。 でも成し遂げられなかったらこの記事を思い出すことはないでしょう。ようするに記憶というものは曖昧であると。 ということは若返らせることもできるといっているんでしょうか。永遠に若い体かぁサイヤ人や波紋使いみたいだ。 いかんせん人生は短い、過去の人間を見れば分かるが、自分が残した成果なんてものは80年ぽっちの人生じゃ分からないものだ。せめて自分がやったことをわずかでも多く見てみたい。 人口や食料の問題は気にしても始まらない、それはいつか石油が枯渇するのを恐れているのとさして変わらないくらいの問題だ。いずれ無くなるものは無くなる。遅いか早いかだ。 あと、怪我や病気に関してだが、トカゲとかは肉体の一部が破損すると特殊な遺伝子が破損した部位のデータを引っ張り出して直すのだそうだが、人間にもその遺伝子は発動してないだけであるそうだ。 理屈はどうでもいいから、ただ長生きしたいという気持ちも理解できる。老いさらばえてまで生きていたくない、という気持ちも解るきがする。 考えても答えは出ないが、まあいいや。考えようが何しようが俺も他の人と同じく、寿命は限られているんだから。 60年代のアメリカでもティモシーリアリー博士なんかが、20世紀の終わりには老衰で死ぬ事は無くなるなんて言っていたが。 このままだって地球はあと千年保たなそうなのに、そんな技術が出来たら確実に人類が滅びるのを早めるだけだよ。 今日この人、J-waveのラジオ番組に電話で出演してた。もちろんこのニュースについてのインタビュー。 そもそも人間は200年以上生きられないような体の仕組みになっているという事は、それに意味があるんだろうに。 経済的に追いつかなくなってきた人から脱落してゆくのか・・・。"一期一会"とか"光陰矢のごとし"とかいう言葉も消えてしまう。 はんを推したような毎日の人生に刺激を求めて犯罪者が世に溢れかえるかも知れないし、人口問題や食糧、環境問題もどうなるのやら……。 長生きはしても、ボケてたら、そんな人が沢山いるようになったら、凄い困った事になるのではないのかと……。 ・・脳はチップでも何でもいいさ。多少人格やらがかわっても自分が生きれたらいいだろ。定義なんて知らんよ。 1000年も生きてどうするんだよ。今どう生きるかさえ俺は大変なのに、1000年もどう生きるかなんて、俺なら生きる気失せて自殺するだろうね。前なんかの漫画であったなぁ。主人公達が不老不死の薬探してついに見つけるんだよ。でも主人公はこう言いながらそれ捨てちゃうのな。 まぁでも、自分の彼女には勧めるかもしれない。死んで欲しくないし綺麗でいて欲しいって言うエゴイズムが働いてね。自分が可愛いっていうナルシズムが働く人は、自分にやりたくなるんだろうね。 1000歳までもいきたくない!って人もいれば 永遠にいき続けたい人もいるわけだし、自分で寿命を選ぶ時代が来るのかな。 例えば去勢手術+家族とはもう二度と会わない、月面開発とか凄まじく危ない所に無償で出向く義務を負う。とか。 千年も生きていれば>113が言ってるように、差別だとか戦争だとかが下らないことだって悟り開くんじゃないのか? 「寿命が1000年あるのが当然である世界」が当然のものになってしまえばもはや問題はないだろうが、その世界への「移行期」というのを考えると、やはりそこが一番の困難であると思うし、人類が克服するには結構な年代がかかると思う。 現代でさえ、先進国のような豊かで便利な世界のすぐ隣に、今日食べるものもない世界が並列しているわけだから、1000年の寿命の人間と今までどおりの寿命の人間の対立が激しい時代がかなり続くことは容易に想像がつく。しかも、そんな便利な先進国にも先進国ならではの問題があるように、1000年の寿命の人間の世界にもその世界ならではの問題が生まれるはずだ。 要するに、人類「全体がそろって」次の段階にいく、というのができないことにすべての問題があるのであり、それじゃあどうしたらいいのか…そこらへんをふまえた面白いSF的な投稿記事がもっと読みたいんですよ俺は。サイトは本当に面白くて刺激的だし面白いことを書く人も確かにいるにはいるけれど、なんでほとんどはこんな想像力の貧困なやつばかりなんだ。 長寿国がのきなみ戦争を国外の代理戦争にしているのはそのため。発展途上国が戦争まみれなのもそれが理由。 1000年もあったら色んなことに挑戦できるなぁ。男に飽きたから女になってみよぉーっとか。事業が失敗しても平気だしね。 でも、こんな技術が普及するのは先進国だけ。途上国の人達はこんな先端技術の利益を享受できないのは、今の途上国の医療とかの現状を見れば明らか。この時点で寿命を延ばせる人はかなり限定されてくる。 そして、実際に人口増加が問題になっているのは途上国で、先進国の出生率は毎年下がっている。出生率が下がるのは、死ぬ危険と反比例しているから。死ぬ危険がなくなった状況では生き物は子孫を積極的に残そうとしない。 社会的に1000年生きる人とそうで無い人との間で対立が起きる、というのも、一般に技術が普及している状況になれば人それぞれの格差も小さくなるし、差別の問題は進んだ社会であるほど解消されていく。今の日本やアメリカなどの国の社会は、そのくらいのことは許容できる所までは成長してるんじゃないだろうか。というかそう信じたい。 俺は時間の感覚は1時間だとすれば、1時間/今まで生きた時間×そのときの感情 とか勝手に思っているから900歳ぐらいになると、時間がすごく早く感じると思うんだ。 実際技術が完成して、それを実行したところで1000年生きられるかどうかは1000年経たないとわからないし、それどころかいつ死ぬかもわからない。 なんでこんなに否定的なんだ?選択肢が広がっていいじゃないか。やっぱりすごい技術はすごいと認めようよ。その他の問題は1000年いきてるうちにおもいついてなんとかなるよ。 細胞の損傷がなくなるってことは若返るってことじゃないのだろうか?まあいずれにせよ死を選べるってことはいいことじゃないのでしょうか? 兼好法師も「人は40くらいで死ぬのがいい」と言っている通り、(40くらいで死ぬのは極端にせよ)やはり年老いたまま長く生きるのは個人的にはちょっと…。 裕福な人たちはいいよね、楽しいことがいっぱいあってさ、私みたいな貧しい者には生きるのがつらいよ、そしてそんな薬が開発されても手に届かない価格で、長生きできるのは金持ちだけなんだろうな〜あんなにヒゲをはやせるだけの余裕がほしい、、、神様は不公平だ、、もうたくさんです。 感情を除いた上で考えると、その技術が現実のものになることに物体の形状を1000年も維持できるということに何を異論を唱える必要があるだろうか。 全く不可能なことでも可能にしていく精神を持つことができないのであれば、1000年も生きる必要はないが、その精神を持つ人ならば、1000年でも足りないのではないだろうか。 技術うんぬんは彼(グレイ)以上に研究してない人が否定・肯定してるの読んでも説得力ないし、興味ない。発想を柔らかくしないと1000年生きても楽しめないよ。クローンに脳を移植って、近い内にありえる? で、まず俺が思ったのは、たぶん「個人主義の社会」になるだろうね。血縁関係ですら浅いモノになるだろうね。家族も死なないんだしさ。そこで生まれる需要は「休憩」だと思う。100年休みたい、5年間寝てたい、マトリックスみたいに、100年寝てる間に語学を脳に習得したいとか。。。 まぁ俺らが生きてる間はこの1000年説はないだろうね。ってのが現実。よってこういう討論は「もし3億円宝くじ当たったらどうする?」と似てる。同じくらいの確率だろうなぁ。。。。。 この技術は最高じゃないか。嘘くさくはあるが、もしこの技術を手に入れられるならそれこそ悪魔に魂を売ってもいいぜぇ。 だいたい2000年も昔の親父が呟いた妄想を信じてるのは考える力が無いとしか思えない。そういうやつこそいなくなって欲しいね。 勝手にありもしないことを妄信し、自分自身くたばるのは止めはしないが、それに他人を巻き込むなんてご近所迷惑もいいところだ。 ベニクラゲは、死ぬ間際にまた子供の状態に戻るらしいから、1000年生きるったってずっと老人のままじゃないんだろう。 だけど、嫌な事は乗り越えたり、解決したりして、また次に面白いことが出てくる、と思うとずっと自分からは死のうと思えずに生き続ける気がする。 その前に環境問題とか人種、宗教間の対立とか他のいろんなことで地球が50年も続かないと踏んでいるけど・・・ ちょうどマイナスイオン風呂やトルマリン・ペンダントのようなものです。疑似科学と言われても否定は出来ないでしょう.... PROMOTIONS?見たことのない未知の世界を映し出すCCDカメラを搭載あまりにもチャレンジャーなぜかロシア人が混ざってる日米パイパン摩擦ウェブカム越しに愛想笑い全く話しがかみ合わない金髪桜満開!ビデオチャットライブチャットで気まずい沈黙気の向いたときにスイッチオン!”ハケで一塗り”して2、30分嬉嬉(ひぃーひぃー)は大きさが小さく、価格もかなりしますアイスキャンディのようなキュートな見た目アニマルマスク白馬遊びながら、なんと日本の歴史が勉強できます |
[ 486] hxxk.jp - 自転車で刑事処分を受ける可能性が今後増加します
[引用サイト] http://hxxk.jp/2006/03/29/2357
自転車の悪質な道路交通法違反行為に、いわゆる「赤切符」を用いた取締りを強化するという流れになりました。そこで、どういった行為が道路交通法違反行為にあたるのかをまとめてみました。 警察庁は25日、警告を無視して赤信号を渡ったり、歩行者近くを危険な猛スピードで走るなど悪質な違反を繰り返す自転車運転者に、刑事処分の対象になる「赤切符」による取り締まりを積極的に進めていくことを決めた。 このまま自転車の交通違反が増えれば、自転車にも交通反則通告制度が適用されるように道路交通法が改正され、頻繁に取締りが行われるようになる......かもしれません。 ということを予測していましたが、そういった改正はなくそのまま取締りが強化されることになりました。 自転車は道路交通法上は車両(軽車両)にあたり、信号無視や2人乗りは取り締まり対象になるほか、一時停止などの交通標識には原則従わなければならない。 しかし、自転車は駐車違反や一定速度内のスピード違反など、比較的軽い交通違反に適用される行政処分の「青切符」の対象にならず、自転車の取り締まりは罰金などの「前科」につながる赤切符しかない。これまで警察は取り締まりに慎重だった。 自転車の違反に対して青切符が適用されることはないということも、自転車には反則金という概念はないという記事で触れました。 詳しくはその記事を読んでいただければ分かりますが、交通違反通告制度 ( いわゆる青切符 ) が適用されるのは自動車や原動機付自転車の運転者に限られているため、軽車両である自転車については適用されない、ということです。 自動車運転免許や原動機付自転車運転免許をお持ちの方であれば、公道におけるルールは理解していると思われますが、自転車には運転免許は必要ありません。 運転免許を持っている人の場合、自転車に乗る時も自然とそれらのルールが思い出されて慎重な運転になると思います。 しかし、運転免許を持っていない人の場合、信号無視や一時停止義務違反などのポピュラーなもの (?) ならともかく、知らず知らずのうちに違反となってしまうようなルールがいくつか存在します。 たいていは親から、あるいは学校の自転車教室などで習うものですが、ここで改めてまとめてみようと思います。 極端な話、今後はこういった根拠を元に過剰な取締りがなされてしまう可能性も考えられるので、知っておいて損は無いと思います。 この場合でも並進できるのは 2 台だけで、公道における 3 台以上の軽車両の並進はいかなる場合も認められていません。 そちらに詳しく書いてありますが、要するにという標識がある場所で警音器を鳴らさなければならない場合や見とおしのきかない交差点などを通行する場合を除き、むやみに よって、自転車で通行している際に、進路上に歩行者がいて邪魔だからベルを鳴らしてどかせるということはしてはいけません。 とあるため、例えば前を歩く歩行者が急に自転車の進路上によろけてきた、といった場合などは一概に違反とは言えないでしょう。 ( その場合は、直後にも自転車が走行して近づいているのでもなければ、まず停止をすることが先決だとは思いますが。 ) また、このケースでは「ベルを鳴らすこと」についてのみ考えていますが、実際は歩行者に対してベルを鳴らすような場面では、本来通行すべきではない歩道を通行するという違反や、車道と歩道の区別が無い道路において前を歩く歩行者にベルを鳴らしてどかせ、そのままその脇を減速せずに通行するという違反が発生している可能性があります。 公安委員会は、道路における危険を防止し、その他交通の安全を図るため必要があると認めるときは、軽車両の乗車人員又は積載重量等の制限について定めることができる また、 16 歳以上の運転者が、補助椅子に幼児 1 人を座らせて自転車を運転することは認められているという記述を見かけたのですが、それは全国的にそうであるのか、都道府県あるいは市町村の条例あるいは施行規則で認めているのか分かりません。 車両等は、夜間(日没時から日出時までの時間をいう。以下この条及び第63条の9第2項において同じ。)、道路にあるときは、政令で定めるところにより、前照灯、車幅灯、尾灯その他の灯火をつけなければならない。政令で定める場合においては、夜間以外の時間にあつても、同様とする 車両は、歩道又は路側帯(以下この条において「歩道等」という。)と車道の区別のある道路においては、車道を通行しなければならない 自転車は軽車両に分類され、軽車両は車両に含まれるため、自転車は原則として歩道を通行してはならないということになります。 この場合は「自転車及び歩行者専用」ということが示されており、たいていは「自転車通行可」という補助標識が併せて掲げられているので、この場合は自転車の通行が可能であると捉えて良いでしょう。 軽車両は、前条第1項の規定にかかわらず、著しく歩行者の通行を妨げることとなる場合を除き、路側帯(軽車両の通行を禁止することを表示する道路標示によつて区画されたものを除く。)を通行することができる 車両は、道路(歩道等と車道の区別のある道路においては、車道。以下第9節までにおいて同じ。)の中央(軌道が道路の側端に寄つて設けられている場合においては当該道路の軌道敷を除いた部分の中央とし、道路標識等による中央線が設けられているときはその中央線の設けられた道路の部分を中央とする。以下同じ。)から左の部分(以下「左側部分」という。)を通行しなければならない 車両(トロリーバスを除く。)は、車両通行帯の設けられた道路を通行する場合を除き、自動車及び原動機付自転車にあつては道路の左側に寄つて、軽車両にあつては道路の左側端に寄つて、それぞれ当該道路を通行しなければならない 基本的には自転車は車道、歩行者は歩道を通行するため、お互いがお互いの通行を妨げることはありません。 軽車両は、前条第1項の規定にかかわらず、著しく歩行者の通行を妨げることとなる場合を除き、路側帯(軽車両の通行を禁止することを表示する道路標示によつて区画されたものを除く。)を通行することができる と定められており、例えば車道と歩道が段差などによって区別されておらず、自転車も歩行者も路側帯を通行するというケースは充分に考えられます。 と定められているため、歩行者を押しのけて通行するといったことはしてはならないということになります。 車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない と定められています。以前改正道路交通法の一部施行に関するメモで自動車又は原動機付自転車の運転中における携帯電話等の使用について触れましたが、自転車の運転中における携帯電話の使用自体はこれは含まれません。 しかし、携帯電話の使用自体に罰則が無くても、使用することによって片手運転となり、ハンドルやブレーキを確実に操作できなくなってしまうため、違反となると考えるべきでしょう。 道路を通行する歩行者又は車両等は、信号機の表示する信号又は警察官等の手信号等(前条第1項後段の場合においては、当該手信号等)に従わなければならない これは自転車に限らず歩行者でもそうなのですが、「自動車でなければ信号無視をしてもオーケー」なんてことは無いですよという意味で書いておきます。 車両等は、交通整理が行なわれていない交差点又はその手前の直近において、道路標識等により一時停止すべきことが指定されているときは、道路標識等による停止線の直前(道路標識等による停止線が設けられていない場合にあつては、交差点の直前)で一時停止しなければならない 杉本哲太氏の飲酒運転と、福島みずほ氏の間違った法律知識にて詳しく解説していますが、要するに自転車であっても飲酒運転は違反行為であるということです。 なお、罰則については杉本哲太氏の飲酒運転と、福島みずほ氏の間違った法律知識のコメント欄にて意見を交わしていますが、酒酔い運転については自動車と同じ罰則が適用されるようになったという情報があるものの、道路交通法の条文だけを読む限りではそのような解釈には至らないのではという疑問点が残っています。 この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする あくまで危険を防止し、交通の安全と円滑を図るものであるので、これまで挙げた違反行為を行ったからといってその全てが取り締まられ、罰則を受けるということはありません。 しかし、これまでは「自転車だから捕まらない」という風潮があったものが、それによって危険を助長してきていたがために、今後罰則を受けてしまう可能性が高くなったのは事実です。 「罰則を受けるから」守るのではなく、「罰則があるということはそれだけ危険につながるということだから」守るという意識につながってもらいたいと思います。 本文でタンデム自転車は例外になっているのですが、各都道府県の条例レベルで、許可・不許可が明示されているケースが多いです。 車の交通違反のようにある程度点数稼ぎのための乱発されるのは警戒したいけど、自転車の交通規則を徹底するというのは賛成だし、はっきりいってこれは小学校とかの授... この文を読み、ベルを鳴らさないようにしてみました。しかし、歩行者の後ろを気付くまでゆっくり走るか、「すみません。」と声をかけるかしか方法はなく、どちらも歩行者との雰囲気は微妙でした。気が向きましたら、どうしたらいいか教えてください。 路側帯の無い歩行者混在の道路は「待ってあげる」のが基本です。もしくは自転車を降りて早足で歩行者を通過しましょう。 おのひろきさんの weblog はしばしば参考にさせていただいているのですが、今回例示いただいた記事は未読でした。 ベルは難しい問題ですよねえ。法律を厳密に解釈するなら歩行者に向けて鳴らすのは良くないのですが、人によっては邪魔だと思って鳴らすのではなく「自転車が近づいていますよ」と存在をお知らせするために鳴らしている人もいますし。 ( 同じような例に自動車のサンキューハザードもありますね。本来使うべきでないものなのですが、お礼の意味で使うという ) どうすれば良いのか、というのは本当にケースバイケースだと思います。私は専ら近所のサイクリングロード ( 歩行者・自転車専用なのだけど歩行者はほとんど通らない ) を走っていますので、あまり深く考えなくて済んでいるのですが、生活道路などではそういうわけにもいきませんよね。 もっとも、自転車側が ( 歩行者に対しては ) 交通強者であることを自覚していれば、今回のような厳密な解釈および罰則の適用にいたらなかっただろうと考えると、お互いのことを考えて道路を通行することが第一なんだなあと思いました。 ( それは自動車と自転車の関係にも帰結するのですが ) 路上駐車が無い前提で、自動車が走るレーンと自転車が走るレーンと歩道が明確に分けて確保されれば自転車乗りとしては非常に嬉しいのですが。 昔、自転車で路側帯を走っていたところ、警察官から歩道を走るようにと注意を受けたことがあります。 ついでに路側帯走行中、後ろから車にはねられたときも、「歩道を走らないからこうなるんだ!」と警察官から説教をうけたこともあります。 体験談と主観を以って言わせていただきますが、警察官自身が道交法を正しく理解していないケースが多々あります。 1412 さんの事故の場合も詳細が分からないので断定はできませんが、歩道を走らずに路側帯を走っていて自動車にはねられたのならば、責められるべきは自動車の運転手だと思います。 現行法と現状を照らし合わせてみると、法律に対して道路事情が追いついていないというのが実情です。車道の走行を厳密に行わせるならば 1411 で私が書いたように、自転車専用レーンを車道に設けるような方針になれば、少なくとも歩行者対自転車、自転車対自動車の事故は激減するはずですから。 今回の記事を書いた目的ですが、「現行法がこうなっているんだから自転車乗りはこれらを厳守せよ ! 」というつもりは無く、「警察が法的根拠を以って取締りを強化するという方針を打ち出してきたのだから、『知らなかった』で捕まってしまうことのないよう、そしてルールを知った上でその道の実情に即した安全な運転を心がけてもらおう」ということです。 現実に、歩道を走った方が安全な道路もありますし、逆に歩道を走ったら危険な道路もあります。それを勘案せずに「歩道走行の方が危険だ」「いや車道走行の方が危険だ」と議論するよりも、まずは現行の法律がどうなっているかを知っていただき、それを知らずに危険を誘発させてこれ以上の締め付けが強くならないよう、そして現状に沿った法律に改正されていくように動いていくことを願っています。 記事の主旨とはちょっとずれてしまって恐縮ですが、6月から民間業者による駐車違反摘発が可能になると、バイクやスクーターが軒並みやられる可能性がありそうです。これもまさに係員による恣意的場当たり的な対応となりそうで、繁華街にちゃんとしたバイク置き場がないのに、法律だけ変わってしまうという大問題だと思っています。 子供にも同じように刑罰を与えるとは考えにくいのですが、補導する事の根拠になったりすることがあり得るのではないでしょうか。または、「こんな運転ばかりしていると手錠をかけられちゃうよー」と脅したりとか。 ( そういった教育や講習はあまり感心しませんが ) よく誤解されているのですが、免許の違反点数は行政罰であり、刑罰とは異なります。「免許を持っていないから捕まっても痛くも痒くもない」ということはありません。 ただ、運転免許を持っていれば逮捕された際に身分を証明する物があるのに対して、運転免許証を持たない場合は身分を証明する物が無い可能性が生じてきます。その場合は身元引受人が迎えに行くまで身柄を拘束されてしまい、結果免許の有無で扱いが変わってしまう……ということはあり得るかもしれません。 と、 1416 さんの文章を見ると、「子供や免許を持たない人に罰則を適用するのは現実的には無理」ではなくて、「子供や免許を持たない人にこれらの違反行為をせずに交通法規を遵守してもらうことが無理」というニュアンスですね。 確かに、運転免許を持っていれば知っていて当たり前なことでも、持っていなければ知らないようなことも多いですし、厳罰化をするのなら併せてルールの周知を徹底して欲しいものです。 聴覚障害者への配慮というのは盲点でした。その場合だとベルを声かけや挨拶に置き換えても同じですし……。 やはり自転車は歩行者と同じ部分を走らない ( かつ自動車と極端に接近しなくて良い専用レーン等を整備 ) というのが解決方法でしょうか。 それはさておき、駐車禁止の取締りの民間業者への委託開始は次回に書こうと思っているネタです。これも色々と調べると色んなネタが出てきそうです。 仰る通り、いきなりということはまず無いでしょうね。あくまで危険防止が目的であるので、注意に従うようであれば無闇に切符を切ることはしないでしょう。 冒頭で引用していますが、「警告を無視して赤信号を渡ったり、歩行者近くを危険な猛スピードで走るなど悪質な違反を繰り返す自転車運転者に、刑事処分の対象になる「赤切符」による取り締まりを積極的に進めていく」と、警告を無視したり違反を再三繰り返す輩が対象だということですので。 以前友人から交差点で歩行者用の信号がなく横断歩道があり自動車用の信号だけある場合、歩行者は自動車用信号が赤でも渡っていいと聞いたのですが本当でしょうか。 たしかに見晴らしがいい交差点や交通量が極端に少ない交差点では歩行者用信号がないところが多い気がします。 信号機というのはあくまで「道路の交通に関し、灯火により交通整理等のための信号を表示する装置」ですので、歩行者用信号機が無く、かつ横断歩道がある場合ならば左右の安全確認を怠らなければ横断して良いのではないでしょうか。 道路交通法第 38 条 ( http://www.houko.com/00/01/S35/105.HTM#038 ) にて、「横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない」とあり、また「横断歩道等(当該車両等が通過する際に信号機の表示する信号又は警察官等の手信号等により当該横断歩道等による歩行者等の横断が禁止されているものを除く。次項において同じ。)又はその手前の直前で停止している車両等がある場合において、当該停止している車両等の側方を通過してその前方に出ようとするときは、その前方に出る前に一時停止しなければならない」とありますので、「歩行者用信号機も自動車用信号機も無い横断歩道または自転車横断帯」も、「自動車用信号機のみがある横断歩道または自転車横断帯も、横断中または横断しようとしている歩行者又は自転車がいる場合は車両等に一時停止の義務があると解釈できるのではないでしょうか。 ( ただし、現在の自動車の運転マナーを見る限り、自動車用信号機が赤の場合は青になるまで横断するのを待った方が安全であるとは思います。 ) ただし、自転車の場合は「歩行者専用信号機と車道の信号機」が混在する場面では車道の信号機に従う義務がある点に注意が必要です。 ヨーロッパの自転車王国であるオランダに3ヶ月ほど滞在したことがありますが、大きな道路では大抵、車道・輪道・歩道と3つのレーンが設けられており、歩行者と自転車との棲み分けが出来ていました。 しかし日本では、自転車に車道走行させることは危険だと言う判断から「歩道の通行を黙認する」という暫定的な判断から、何年経っても何の手も打っていないとの感は否めません。 公安と国交省という縦割り社会の欠陥が、モロに出た結果だと思います。 まず、すべきは「(5)運転ルールのアピール」です。 最近、歩道を走るバイクが増えているのも、自転車が歩道を走らざるを得なくなった原因への対処を、長期間ほったらかしにしてきた行政にあるのではないでしょうか? 勿論(6)は論外ですが。 運転ルールのアピールができていないというのに非常に同感です。今回この記事でまとめたことは道路交通法に書いてあることを簡単に抜粋しただけなのですが、それに対して多くの注目 ( 記事作成から今日までの 12 日間でおよそ 30,000PV ) が集まったということは、やはり一般市民 ( 特に運転免許を持たない方たち ) にはルールが浸透していないことの現れだと思います。 1411 や 1415 でも書いていますが、ゆーぼーさんがオランダで見てこられた「車道・輪道・歩道」という棲み分けができるようなインフラ ( 道路ももちろんそうですが、それによって利用増加が見込まれる自転車の駐輪施設など ) が今後整備されることを願います。 俺の住んでいるところは車道のぎりぎりにあらゆる罠が仕掛けられている。いかにして自転車の連中を車道側に転倒させようかという卑劣な罠だ。 これは自転車に乗っている人たちを死に追いやろうとすると共に車を運転する人たちを交通事故加害者に仕立て上げようとする見えざる権力者の陰謀としか思えない。 第 7 条の条文がありましたね。すっかり失念して「歩行者用信号機」という考え方に囚われすぎていました。 自宅近辺では歩行者用信号機が無い交差点というのは無いのですが、そのような場合はやはり「赤・青・黄」の三色信号機が車両・歩行者用の信号機を兼ねる形になるというのが自然な解釈でしょうかね ? また、他にも私の解釈が間違っている点はあると思いますので、「その解釈はいかんだろう」という点がありましたら遠慮なくご指摘ください。 同一トラックバック 8 連発の処遇をどうしよう。「コピったので〜」という理由でトラックバックというのは別のネタに使えそうですが、時間が取れないので迷い中。 思わず「左に寄れや!」と怒鳴ってしまったのですが、「なんちゅ言い方や!どこに左寄れって書いてあるねん!」と言って逆ギレされ、いきなり襟元をつかまれました。 こういう年齢になってしまった人をどうするかと考えると、安易かもしれませんが、取り締まり強化という形で周知するのもいたしかたないのかなと思いました。 自転車の二人乗りについては、記事にあったように、千葉県条例でもも認められているそうです。すなわち、16歳以上の運転者が6歳未満の幼児を、座席装置をつけた自転車にのせることはOKだそうです。孫の幼稚園への送迎の必要にかられ、警察署の交通課で確認してもらいました。 状況が分からないので絶対にこうしろとは言えないのですが、怒鳴るのではなく言葉を選んで注意する、あるいは自分が一歩引いて停止してやり過ごすという対応もあったのではないでしょうか。 ( 特に、注意をしたら襟元を掴んでくるような方ですし。これは結果論ですが。 ) 左側通行が原則ということが周知徹底されていれば、こういうことが起こる可能性は低くなると思うので、児童・生徒・学生に限らず、成人においてもなんらかの形で講習が行われると良いですね。取り締まりの強化だけで周知がなされるというのは本末転倒だと思いますし。 確認情報ありがとうございます。都道府県条例で定められているということは、地域によっては座席装置を付けていても不可というところもあるかもしれませんね。現在、私の周りにはそういった年齢の子供はいませんが、いずれそういう必要が出てきた際には確認をしてみようと思います。 「送迎の必要が出てきたので、交通課に確認を取る」という姿勢はご立派だと思います。きっと日々の送迎の時もその注意深さが生きることでしょう :-) 自転車(人力車両)が違反車両の規定であるならば、三輪車も二輪車も自転車であるため、おそらく違反になるんでしょうね。 ただし、本文冒頭で引用したように、「悪質な違反を繰り返す自転車運転者」への取り締まりを強化するということですので、たとえば幼児の運転する三輪車が「歩行者近くを危険な猛スピードで走る」ことで違反になることはまず無いでしょう。信号無視の方は分かりませんが。 深夜の交差点でライト消したパトカーに待ち伏せされててやられました。信号無視です。危うく前科つくところでした。 ちなみに警告とかは一切無かったです。パトカーはライト消して待ち伏せです。待ってましたとばかりに交差点わたりきった時にライトつけられました。 自動車に乗るようになると、試験のために道路交通法をしっかりと学ぶので、同じ人でも自転車ほど違反は多発しなくなると思います。私も、運転免許を取得する前と取得した後では自転車の運転に対する意識が大きく変わりましたし。 自転車の場合、「どうせ自転車だし」という意識で違反しているというよりも、そもそも違反行為であるという自覚が無いままに違反しているケースが多いのではないかなあ、と。 鈴を付けるというのは簡単で良いアイデアですね。同じ音でも「警音器」であるベルに比べると不快感もそう無いでしょうし。 「歩行者の通行の用に供し、又は車道の効用を保つため、歩道の設けられていない道路又は道路の歩道の設けられていない側の路端寄りに設けられた帯状の道路の部分で、道路標示によつて区画されたもの」を路側帯というんでしたね。混同してしまっていました。 1412 さんの発言および 1414 での私の発言は「路肩」について話していると置き換えてください。 注意や警告無しで……というのは自動車のスピード違反の取締りではよくやられる手法ですね。詳しい状況が書かれていないので何とも言えませんが、昼夜関係なく信号は守るべきだと思います。 完全に自動車の往来が無い場合でも守るべきか ? という話になるかもしれませんが、そういった違反が積み重なってきたから取り締まりが厳重になってきたという流れを考えると、自動車が通っていないとか警察官が周りにいないとかにかかわらず、信号には従った方が良いと私は考えます。 今月から駐車違反の民間委託が開始されてニュースなんかでも沢山取り上げられていますけど、自転車に対しての道交法違反を取り上げてるニュースも多かった気がします... 解釈については大きな間違いは無いと思います……が、むやみに法律をふりかざして反論すると、トラブルになることもあるので穏便に反論してくださいね。 一時停止についてですが、私はできるだけやって欲しいと思います。歩いているときでも、自分が自転車に乗っているときでも、自動車を運転しているときでも、突然わき道から飛び出してくる自転車に危険を感じることがあったので、一時停止の標識があるところはもちろん、一時停止の標識が無いところでも充分に気をつけてもらいたいなと思います。 それにしても、バイクの駐輪問題は大変そうですね。私はバイクには乗りませんし、自転車で向かう場所も特定の 2 〜 3 ヶ所しかないので困っていませんが、駐車違反に関する法改正において、バイクのことが考慮されていないということが改めて浮き彫りになった話もあるようです。 確かに、歩行者のマナーも悪くなってきていると感じますね。以前福岡市の天神に買い物に行った際に、救急車がサイレンを鳴らし、「緊急自動車が通過します」とスピーカーで注意喚起しながら交差点を左折しようとしていたのですが、そこにいた大勢の歩行者は、知らん顔で横断を続けていた……という光景をバスの中から見ました。 車両であれば緊急自動車を優先させる義務があり、それを守らなければ罰則があるのですが、歩行者の場合は罰則はありませんし、また緊急自動車であっても交差点では減速して安全確認を行うべきであるのですが、救急車を足止めしてまで横断を急ぐ理由って何だろうと思いました。もしかしたらその救急車で自分の家族や友人・知人が搬送されているという可能性だってあるだろうに……と。 家庭や学校でのマナーの教育が近年なされなくなってきているのかもしれませんが、こういった交通に関することに限らず、なんだかみんな想像力が乏しくなってきている気がします。 ・一時停止義務が定められてる交差点に一時停止せずに進入したら ? →自動車にはねられるかもしれない、あるいは歩行者をはねてしまうかもしれない ・メールを打ちながら赤信号を渡ったら ? →歩行者への注意が不充分な自動車がつっこんでくるかもしれない 罰則や処分といったレイヤーではなく、何かしら自分の身あるいは他人の身に対しての危険が及ぶことに想像を働かせれば、自然とそういった行為はできなくなると思うんですけどね……。 厳罰化については、今朝の新聞で重大事故に関しては罰則が強化されるというニュースもありました ( 今手元に無いので詳しくは後日書くかもしれません ) 。 「余計なトラブルに関わりたくないから」「貧乏だから、罰金が勿体無いから」法律を守るというのも、動機としては充分じゃないでしょうか。 この記事に対するご意見やご質問、ご感想などありましたらこのフォームに簡潔に記入して下さい。 |
[ 487] 世界の処方薬売り上げトップ10と今後期待の新薬 | WIRED VISION
[引用サイト] http://wiredvision.jp/archives/200603/2006033105.html
世界における処方薬の売り上げは、ヨーロッパや北米の伸びが鈍化しているにもかかわらず、初めて6000億ドルを超えた。 「こうした市場は、全体に占める割合こそ小さいが、成長が期待できるところでもある」と、IMSヘルス社のマレー・エイトキン上級副社長(企業戦略担当)は話した。 世界一売れた薬は、5年連続、米ファイザー社の高コレステロール血症治療剤『リピトール』だった。年間売上高は129億ドルで、2位の薬とは2倍以上の開きがあった。リピトールの後には、米ブリストル・マイヤーズ スクイブ(BMS)社と仏サノフィ・アベンティス社の抗血栓剤『プラビックス』、英アストラゼネカ社の胃食道逆流症治療薬『ネキシウム』、英グラクソ・スミスクライン(GSK)社の喘息治療剤『アドベアー』といった製品が続いた。 世界で最も売れた薬剤のリストから明らかに抜け落ちているものがある――バイオ医薬品だ。米国内では、貧血治療薬として米アムジェン社の2製品と米ジョンソン&ジョンソン社の1製品が、売り上げの上位10位以内に入っている。タンパク質から作られ、注射が必要なこうした薬剤はバイオテクノロジーに革命をもたらしたが、世界的に見るとまだそれほど影響を及ぼしていないようだ。とはいえ、バイオ医薬品は17%の伸びを示し、売り上げは530億ドルに達している。リストに載っている薬剤のほとんどは低分子、つまり20世紀初頭に製薬ビジネスに弾みをつけたものと同種の化学薬品だ。 売り上げは伸びているが、現在の大手製薬会社には革新性は欠けている。エイトキン副社長によると、2005年に主要マーケットで発売された新薬はたった30種類しかなく、1990年代の最盛期に比べると大きく減っているという。一方、明るい兆候としては、2005年には臨床開発段階の薬剤が2300種類あったことが挙げられる。最終段階のものとして、ガンの治療薬が96種類、心臓病の治療薬が51種類、抗ウイルス剤が37種類、関節炎や痛みの治療薬が28種類あると、IMSヘルス社は報告している。バイオテクノロジーによって開発される薬がいよいよ増えているが、このことは一般に考えられているほど大きな問題ではないと、エイトキン副社長は主張する。 「10年前に革新がどこで始まったかという点で見ると、歴史はそのままでいい」とエイトキン副社長は話す。例えば、多くの新薬は、高脂血症治療剤『プラバコール』に代表されるように日本企業や、抗ガン剤『タキソール』のように学術機関によって開発された。しかし、これらはいずれも、BMS社が供給し、巨額の売り上げにつながったのだ。 大手製薬会社が抱える問題はほかにもある。10億ドル単位で売れている薬剤はたくさんあるが、圧倒的な売上高を誇る薬剤がほとんどないことだ。売上高で2位の薬は、1位のリピトールの半分でしかなく、10位に入った米ワイス社の抗うつ剤『エフェクサー』の売上高は「わずか」38億ドルにとどまる。これはつまり、新薬の開発に成功したとしても、ジェネリック医薬品が生まれることによる売上高の穴が埋められない可能性があることを意味する。 BMS社とサノフィ社が、両社の主力製品であるプラビックスの特許をめぐり、カナダのジェネリック薬品メーカー、アポテックス社と和解を迫られた理由の1つも、この点にある。 しかし、米イーライリリー社と米アミリン・ファーマスーティカル社が共同で商品化した糖尿病治療薬『バイエッタ』、米セプラコア社の睡眠補助薬『ルネスタ』など、昨年発売された新薬の中に大きな可能性を秘めるものがいくつかあると、エイトキン副社長は強調する。さらに今後も、注目に値する薬剤が続々登場するという。とりわけ今年は、ファイザー社が初めて大々的に開発に取り組んだガン治療薬『スーテント』、サノフィ社が開発中の肥満治療薬『アコンプリア』という2つの主要な製品が登場する。 スーテントはすでに市場に出ているが、売り上げに関するデータはまだ得られていない。アコンプリアは米食品医薬品局(FDA)の認可待ちで、禁煙補助薬としては却下されている。心臓病の専門医の間には、この薬で心臓病のリスクが減る可能性があると歓迎する半面、副作用を心配する声もある。 アコンプリアは、マリファナ使用者に空腹感を覚えさせるのと同じ脳内レセプターをブロックすることで機能する。しかし、臨床試験で患者がアコンプリアの服用を中止するもっとも一般的な理由として、不安感などの精神的症状が出ることが挙げられている。シーダーズ・サイナイ医療センターの医師プレディマン・K・シャー氏は「これは『幸福感を覚えるレセプター』をブロックする薬だ。主な不安材料として、うつや自殺願望に悪影響が出る可能性があることが挙げられる」と説明する。ただ、それでもシャー氏はこの薬に大きな期待を寄せている。 |
[ 488] 2ちゃんねるの「終わり」とブログの今後 - nikkeibp.jp - from ガ島通信 メディア崩壊の現場を歩く
[引用サイト] http://weblogs.nikkeibp.jp/gato/2005/06/2channel.html
前回の「ブログの終わりと始まり」に、たくさんのブロガーからトラックバックを頂きました。いろいろな視点があり参考になりました。何度も言いますが、物事は複雑です。この連載もある物事を一面的に切り取っているに過ぎませんが、ブログの双方向性がその一面性をフォローしてくれていると考えています。私の「視界」が狭くても、皆さんの意見を聞きながら考え方を見直し、整理することができるのは大変ありがたいことです。 「終わり」(ここでの「終わり」は前回とは意味が異なっています)と言っても、2ちゃんねるが閉鎖されたわけでも、消え去ったわけでもありません。私はこの「終わり」の意味を、2ちゃんがオルタナティブなマスメディアに成長できなかったと捉えています。 既存マスメディアでは、「怪しげなネットコミュニティの代表格」、「オタクやネット右翼の集う場所」などのレッテルを張られていますが、2ちゃんの魅力は真偽ではなく言葉遊びにあります。真実なのかウソなのか分からない面白そうなネタで言葉遊びをする。矛盾を突っ込んだり、応援したり、批判したりしながら書き込みが展開していくサイバーコミュニケーションです。 このような言論は一見無秩序に見えますが、そうではありません。広告やスパムコメントは、ボランティアの削除人が巡回して消去していますし、スレッドの話題と異なる書き込みやローカルルールを無視すれば2ちゃんの先輩たちによるアドバイスがあったりします。西村氏は「真偽は読者が判断すること」と発言していますし、2ちゃんねらーの「ソースを示せ」にも代表されるように、ある種のリテラシーも存在しています。 一時期猛烈に輝き、存在感を示した2ちゃんですが、なぜ「終わった」のか。なぜマスになり得なかったのかを解明するひとつのキーワードがリアルであると考えています。 ised@glocomでは、『オフ板は2ちゃんねらーが最後に行き着く場所だ』というコメントが紹介されています。このコメントは、「マトリックスオフ(公共の場所で、映画マトリックスに登場するネオをエージェントスミスが追いかけるという趣向)」を主催していたある人の発言です。 これは、2ちゃんがリアルへつながるコミュニケーションを模索していたことを示しています。他にも「うまい棒を持って選挙に行こう」、「湘南ゴミ拾いオフ」など、いろいろな試みが行われ、話題にもなりましたが定着しませんでした。リアルな行動すらネタ化されてしまいました。 これを最終的に決定付けたのが「電車男」です。「真偽不明」のネタだったはずのものが、本となって印刷され書店に積み上げられ、ワイドショーで語られ、人々の間で「確からしい」ものになっていく。次々と電車男関連本が出版され、映画、テレビドラマ化…。2ちゃんが紡ぎだした物語は、既存メディアに取り込まれ、消費されていきました。 ネタ物語のリアル化。この逆説によって、リアルを模索していた人たちは、既存マスメディアの軽薄さと、リアル世界のくだらなさを改めて思い知らされることになりました。「ウソから出たマコト」のような状況を冷ややかに見ていた2ちゃんねらーは、再びサイバーへ「引き篭もって」(決して否定的な意味ではありません。リアルを意識することが絶対善であるとは考えていません。あくまでマスメディアとしてどうなのかという視点ですのでご注意ください)いきます。 現在、2ちゃんは、細分化された各スレッドで「マターリ」とする場となっています。巨大な掲示板にもかかわらず、横のつながりを持たない小さなコミュニティの集合体になってしまい、マスメディアにはなり得ませんでした(リアルへ影響力を持ちすぎた2ちゃんを制御するため、西村氏らが電車男を「わざと消費させ」、リアルへの模索を失敗させたのかもしれない、とうがった見方が頭をよぎりましたが、これこそネタ文化2ちゃんの思うツボなのかもしれません…)。 ちなみに、2ちゃんは依然として大きな存在であるように見えますが、これは常に取り上げるものが一歩時代遅れである既存マスメディアの特性によるもので、消費の最終段階に入っているだけです。現状の「マターリ」が続く限り、2ちゃんがこれ以上社会的存在感を増すことはないでしょう。 では、2ちゃんとブログの違いはどこにあるのでしょう。ブログは「@名無しさん」が大半の2ちゃんに比べて、匿名にせよハンドル名(HN)にせよ、一定期間書き続けることによって管理人や運営主体の同一性が担保される構造となっています。そして、ほとんどのブロガーが、イベントや旅行、買い物など身の回りの出来事や家族や友人との付き合いや悩みなど、リアルに根ざしたエントリーを立てています。 それらは、アクセスも少なく、コメント欄もレスがないか、友人や家族からのものですが、そのようなブログが今後はさらに増えていくでしょう。ブログの普及は「匿名と実名」や「サイバーとリアル」論争をあっさり乗り越えていく可能性があります。「ブログ終焉」論争でも、「リアル」と言う言葉がかなり使われています。私には、この反応こそが、ブログがリアルに根ざしたコミュニティツールへ変貌を遂げようとしていることへの、リアルとサイバーを切り分けたいネットワーカーたちの反発、不安の表れではないかと思えるのです。 新聞社では、事件事故、漁業補償交渉や合併・地方自治などを取材する一方、中高生向け紙面のリニューアルを担当し、「紙」媒体の価値と限界を認識。2004年9月にブログ「ガ島通信」をスタートする。既存メディアの問題点と意識改革、新しいメディアと参加型ジャーナリズムについて議論している。 |
[ 489] 今後の不登校への対応の在り方について(報告)
[引用サイト] http://www.mext.go.jp/b_menu/public/2003/03041134.htm
このように不登校が増加し続けている現状にあって、豊かな人間性や社会性、生涯学習を支える学力を身につけるなど、すべての児童生徒がそれぞれ自己実現を図り、また、社会の構成員として必要な資質・能力の育成を図るという義務教育制度の趣旨から、不登校に関する取組の改善を図ることは、我が国社会にとって喫緊の課題であって、早急に具体的な対応策を講じ、実行する必要がある。 不登校については、特定の子どもに特有の問題があることによって起こることとしてではなく、どの子どもにも起こりうることとしてとらえ、当事者への理解を深める必要がある。一方で、不登校という状況が継続すること自体は、本人の進路や社会的自立のために望ましいことではなく、その対策を検討する重要性についても認識を持つことが求められる。 そのため、この課題を教育の課題としてのみとらえて対応することに限界があるのも事実である。しかしながら、そうした点も考慮した上で、義務教育段階の児童生徒に対して教育が果たすことができる、あるいは果たすべき役割が大きいこと、また現在の取組には改善の余地があることに着目し、特に教育関係者が取り組む事柄について示すのが、本協力者会議の意図である。これは、不登校児童生徒に向き合って懸命に努力し、成果を上げてきた学校関係者等の実践例等を参考に、学校や教育関係者等が一層充実した学校における指導や家庭への働きかけ等を行うことにより、不登校に関する取組の改善を図り、まずは公教育としての責務を果たそうと考えるものである。 また、言うまでもなく、不登校は、その要因・背景が多様であることから、学校のみでは解決することが困難な場合も多い課題である。その観点から、本協力者会議においては、学校の取組の強化のみならず、そのために必要な学校への支援体制や関係機関との連携協力等のネットワークによる支援、家庭の協力を得るための方策等についても検討を行った。 本協力者会議は、できるだけ実証的・客観的に現状と課題を検証すること、様々な立場から実践に携わっている関係者からヒアリングを行うなど幅広く意見を聴くことに特に意を用いて検討を進めてきた。また、本協力者会議の発足に先立って公表された不登校経験者に対する追跡調査(以下、「不登校経験者の実態調査」という。)の知見を積極的に生かすなど、不登校の当事者の意識や要望等に配慮するとともに、国民の幅広い理解と協力が得られるよう、会議の公開やパブリックコメントを実施するなど、開かれた会議運営に努めてきた。 不登校の定義や不登校児童生徒数の推移等 文部科学省の「学校基本調査」及び「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」(以下、「問題行動等調査」という。)においては、「不登校児童生徒」を何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるため年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたものとして調査しており、本協力者会議においても同様に不登校を定義して検討を行った 不登校児童生徒への指導の結果 不登校の増加に対して、学校関係者は手をこまねいていたわけではもちろんない。様々な取組によって、平成13年度では、不登校児童生徒のうち25.6%の者が登校する(できる)ようになっており、21.4%の者が「登校には至らないものの好ましい変化がみられるようになった」との報告がなされている。また、「『指導の結果登校するようになった児童生徒』に特に効果のあった学校の措置」としては、小・中学校とも「家庭訪問を行い、学業や生活面での相談にのるなど様々な指導・援助を行った」、「登校を促すため、電話をかけたり迎えに行くなどした」が多く挙げられている。 進路の状況等 不登校生徒の進路の状況については、中学校卒業後5年間にわたって追跡調査した「不登校経験者の実態調査」から、様々な知見が得られる。その結果によれば、不登校経験者は、総じて進学率が低く(高等学校等65%、大学等13%)、就職率や高等学校中退経験の割合が高いといった傾向が示されている。また、中学校卒業から5年後の時点(約20歳)では、「就学・就労ともにしていない者」が23%であり、同年齢全体のいわゆる「無業者」の割合に比して高い数値となっている。意識調査の結果と併せて考察すると、就職・就労の経験を通じて、夢や希望を見出して生活している者が少なくない一方で、それらを経験する機会を逸したまま、進路を模索する状態が続いている者が見られる。 また、学校に行かなければならないといった義務感や学校へ行かないことに対する心理的負担感が薄れてきている傾向も指摘されている。「不登校経験者の実態調査」では、「学校へ行きたかったが、行けなかった」という葛藤を抱える事例は依然として少なくなく、不登校当事者自身も悩み苦しんでいることが分かるが、一方で、「学校へ行かないことに何ら心理的負担はなかった」、「自分自身は不登校を悪いこととは思わないが、他人の見方が気になった」といった者が相当の割合を占めている。なお、こうした回答の中に、家庭や地域などの「他人の見方」によって不登校児童生徒が心理的に強い圧迫を感じるような事例や様々な事情でやむを得ず欠席に至っている事例が含まれているということを忘れてはならない。 保護者の側については、近年の都市化、核家族化、少子化、地域における人間関係の希薄化などを背景に、一部では、無責任な放任や過保護・過干渉、育児への不安、しつけへの自信喪失など、家庭の教育力の低下が指摘されている。これらは、アで述べた子どもたちの社会性等をめぐる問題の背景ともなっている。また、保護者自身にゆとりがない等の傾向や、学校に通わせることが絶対ではないとの保護者の意識の変化等についても指摘されているところである。 学校については、1で触れたように学業不振や友人関係等に関する学校生活上の問題、例えば、学校におけるいじめや暴力等の問題、更には個を大切にし、学ぶ意欲を喚起する等の配慮が十分に行き届かないような教育活動や教職員の児童生徒に対する共感的理解の不十分な例なども指摘されており、学校の取組として改善すべき余地があると考えられる。特に、いじめについてはいじめを苦にした自殺が相次いで発生するといった深刻な様相を呈した後、改善の兆しが最近見られるようになったものの依然として発生件数は相当数に上っている(平成13年度25,037件)。また、暴力に関しては、近年増加傾向が続き、平成13年度は初めて減少したものの、取組の一層の充実が求められている(平成13年度33,130件)。 また、保護者による子どもの虐待については、近年深刻の度を増してきており、平成13年度の児童相談所における相談処理件数は23,274件に達している。虐待を受けた子どもの約半数は小・中学生が占めており、虐待の内容は、身体的虐待、性的虐待、保護の怠慢・拒否(ネグレクト)、心理的虐待と様々である。このうち、ネグレクトには、保護者が学校へ行かせないなど登校を困難にするような事例が含まれており、不登校の背景にそうした疑いがあるものも見られる。また、いずれの種類の虐待であっても、子どもの心身の成長に重大な影響を及ぼすものであり、人間関係をつくれなかったり、非行に走る要因になることなどが懸念される。 不登校の要因・背景の特定の難しさ このように、個々の児童生徒が不登校となる背後にある要因や直接的なきっかけは様々であり、また、不登校の状態が継続している間にもその要因や背景が時間の経過と共に変化する、本人にもはっきりとした理由がわからない場合が少なくない等、不登校の要因や背景は一つに特定できないことも多い。こうした点は、個々の不登校の事例についてはもちろん、社会全体の不登校児童生徒数の増加を論じる上でも留意する必要がある。 多様な要因・背景と適切な対応策 不登校への対策を考える上では、その背後にある要因・背景と、最初に不登校を引き起こすことになった直接のきっかけ等を整理してとらえ、その対応にあたっては、不登校児童生徒やその保護者等の状況や支援のニーズへ配慮した上で、効果的な対策を講じることが求められる。 その際、多様な不登校の要因や背景に応じた対策を講じることが必要である。すなわち、不登校は、「学校に行きたいけれども行けない」等の心の問題としてとらえられることが多いが、不登校としてとらえられている中には、あそび・非行による怠学、LD、ADHD等による不適応、病気、虐待等を要因としたものも含まれ、不登校対策はそれらの多様な実態を視野に入れたものでなければならない。例えば、あそび・非行型の不登校といじめにより心に悩みを抱える不登校とでは対応策は大きく異なる。多様な要因や背景のある不登校を一括りに扱い、論じることは問題であり、個々の要因に応じた適切な対応策が求められる。 不登校の実態把握に当たっての問題点としては、例えば心因性の病気、虐待等の家庭の問題、保護者の考え方や事情による意図的な長期欠席等、調査上における取扱いが必ずしも十分に明確にされておらず、結果として不登校の概念規定やそれに基づく実態把握が曖昧となっている点や、LD、ADHD等の判断や診断を受けた場合の調査上の取扱いが明確でない点、また、対策が異なるあそび・非行による欠席等を不登校として整理することについての疑問等が指摘されている。また、不登校が継続する理由については、「問題行動等調査」の中で、単一の選択肢の回答を求めている関係上、近年の調査結果においては、「複合」(特定できない等)が占める割合が高く、不登校の要因や背景の実態が見えにくくなっている等の指摘がなされているところである。 実態把握と対応の在り方との関係 不登校の要因や背景を把握することは、適切な対策を考える上で必要である。一方で、不登校の継続する理由や態様(タイプ)は、時期によって変わることもあり、また、対応は個人個人でそれぞれ異なることから、不登校の要因や背景につき把握することはあくまでも一つの目安であるととらえ、固定観念に基づく対応や安易なタイプ分類による硬直的な対応とならないよう注意する必要がある。 高等学校における長期欠席の課題への認識 従来は、不登校については、主に義務教育段階の課題としてとらえられ、高等学校における生徒の長期欠席については、行政として必ずしも十分に実態把握がなされてこなかった。しかし、高等学校進学率が約97%に達する現状においては、高等学校における長期欠席の実態があることを認識することは、高等学校における生徒の不適応への対応を図る観点からも、また、中学校時に不登校であった生徒のその後の支援を考える観点からも重要である。高等学校における不適応への対策を検討するために、まずは、高等学校における長期欠席の実態を把握することが今後必要であると考えられる。 「ひきこもり」問題との関連 近年社会的な関心が高まってきている、いわゆる「ひきこもり」については、様々なとらえ方がされており、公的な定義はないが、ある調査(社団法人青少年健康センター調査、平成12年11月実施)では、「6ヶ月以上自宅でひきこもって社会参加しない状態(学校や仕事に行かないまたは就いていない)が持続しており、統合失調症等ではないと考えられるもの」とされている。この調査結果によれば、年齢層は、一部に学齢児童生徒を含むが、多くはそれ以上の者であり、20歳代や30歳代の者も相当の割合を占めている。この「ひきこもり」は、児童生徒の社会的な自立を目指すという、本協力者会議の基本的な考え方に照らして、見過ごしにできない問題である。 不登校と「ひきこもり」の関連性については、前述の調査によると、「ひきこもり」の1年間の相談件数のうち約40%が小・中・高等学校での不登校の経験を持つといった結果が示されている。これは現在「ひきこもり」状態にある者の経験について分析したデータであり、不登校から必ず「ひきこもり」状態になると誤解してはならない。しかし、一方で、不登校の深刻化からその後長期にわたる「ひきこもり」につながるケースもあり、「ひきこもり」を防止する観点からも、不登校への早期の適切な対応は重要であり、また、社会全体で不登校に関する課題に取り組む意義は大きい。 なお、「ひきこもり」については、家族の不安・焦燥感が本人への圧力や叱咤激励につながり、更にそれが本人の焦りを招き「ひきこもり」状態を継続させるといった悪循環が生じることがあり、これを脱するためには、本人や家族の努力のみに任せるのではなく、専門家等の第三者の関わりが欠かせないという指摘がある。この点は「ひきこもり」状態を示す不登校児童生徒やその保護者への対応を考える上でも示唆となろう。 不登校の解決の目標は、児童生徒が将来的に精神的にも経済的にも自立し、豊かな人生を送れるよう、その社会的自立に向けて支援することである。その意味においても、学校に登校するという結果のみを最終目標にするのではなく、児童生徒が自らの進路を主体的にとらえ、社会的に自立することを目指すことが必要である。 不登校の時期は児童生徒にとって、場合により、いじめによるストレスから回復するための休養期間としての意味や、進路選択を考える上で自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つこともある。しかし、同時に、現実の問題として、不登校による進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクがある場合もある。 こうした点は、不登校経験者の声からも確かめることができる(「不登校経験者の実態調査」)。既に中学校卒業後の進路の状況については触れたが、自らの不登校経験に対する意識を見ると、成長した点等を積極的に評価する回答がある一方で、「生活リズムの崩れ」、「学力・知識不足」、「人間関係に不安」等を理由に、後悔したり、様々な苦労を経験したという回答も相当数ある。なお、卒業後に進学や就労など様々な体験を経ることによって、多くの者が進路の形成を図りつつ将来への夢や希望を持ってきているということにも留意しておきたい。 こうした観点から、義務教育段階にある不登校児童生徒、更には中学校卒業後に「ひきこもり」状態にあるなど、進学も就労もしていない青少年に対し、「心の問題」の解決を目指した支援のみならず、本人の進路形成に資するような指導・相談や、それに必要となる学習支援や情報提供等を積極的に行うことが重要であると考える。 不登校への対応に当たっては、多様な問題を抱えた児童生徒に、態様に応じてきめ細かく適切な支援を行うこと及び社会的自立へ向けて、進路の選択肢を広げる支援をすることが大切である。そのためには、学校、家庭、地域が連携協力し、不登校の児童生徒がどのような状態にあり、どのような支援を必要としているのか正しく見極め(「アセスメント」)を行い、適切な機関による支援と多様な学習の機会を児童生徒に提供することが重要である。 連携ネットワークによる支援に関しては、不登校の解決を中心的な課題とする新たなネットワークを組織することもあろうが、学校や関係機関等からなる既存の生徒指導・健全育成等の会議等の組織を生かすなどし、効果的かつ効率的に連携が図られるよう配慮することが重要である。 また、連携ネットワークにおいては、不登校への事後的な対応のみならず、幼稚園・保育所・小学校間、小・中学校間、中・高等学校間等の連携を重視して、個々の児童生徒が抱える課題に関する情報交換や対策の協議を日常的に行うなどして、不登校を生むことのない、一人一人の児童生徒が自己の存在感や自己実現の喜びを実感できる学校教育の実現に向けて日頃より連携を図ることが望まれる。 不登校対応の最終的な目標である児童生徒の将来の社会的自立を目指す上で、対人関係にかかわる能力や集団における社会性の育成などの「社会への橋渡し」、あるいは学びへの意欲や学ぶ習慣を含んだ生涯学習の基盤となる学力を育てることを意図する「学習支援」の視点が重要である。 したがって、学校・教育関係者は、すべての児童生徒が学校に自己を発揮できる場があると感じ、楽しく通うことができるよう、一層の学校教育の充実のための取組を展開していくことがまずもって重要である。同時に、児童生徒の不登校のきっかけとなった問題等には学校に起因するものも多くあることを、危機感を持って認識し、その解消に向けて最大限の努力をすることが必要である。 個々の不登校児童生徒に対しては、主体的に社会的自立や学校復帰に向けて歩み出せるよう、周囲の者が状況をよく見極めて、そのための環境づくりの支援をするなどの働きかけをする必要がある。児童生徒の自分の力で立ち直る力を信じることが重要であることは当然であるが、自分の力で立ち直るのを何も関わりを持つことなく、また児童生徒の状況を理解しようとすることもなく、あるいは必要としている支援を行おうとすることもなく、ただ待つだけでは、状況の改善にならないという認識が必要である。 不登校の背景や態様は様々であり、働きかけの方法自体は個々の児童生徒によってそれぞれ異なる。例えば、無気力傾向が見られる場合には、児童生徒が達成感や満足感を繰り返し味わううちにエネルギーが蓄積され、元気になるといったきっかけづくりを支援すること、また、非行による怠学傾向がある場合には、規則的な生活のリズムを身に付けさせたり、学ぶ意欲を出させるきっかけづくりを行うことや、状況に応じては毅然とした教育的指導を行うこと、あるいは、保護者による虐待等の問題がある場合には、地域の民生委員や児童相談所等との連携を図り、家庭に対して必要な関与をすることなど、本人の状態やその環境を踏まえた上での適切な働きかけを行うことが重要である。 言うまでもなく、登校への働きかけの在り方を短絡的にとらえ、画一的に「する」とか「しない」といったように対応するべきではない。児童生徒を全人的に受け止めることなく、また状況への配慮や理解し共感しようとする姿勢なしに、強引な登校への促しを行うことが不適切であることは当然であり、そのような機械的な働きかけにより児童生徒やその保護者等追い詰めるようなことがあってはならない。 登校への働きかけの在り方を考えるに当たっては、不登校の当事者の声に耳を傾けることも大切である。既に指摘したとおり、不登校経験者に対する調査結果において、不登校経験に対する様々な自己評価がなされる中、後悔したり、現在の状況に及ぼすマイナスの影響を感じたりする者がいることを踏まえると、個々の不登校の状況に即した対応が大切であることが改めて確認される。また、しばしば不登校児童生徒が、「そっとしておいて欲しい」という気持ちと、「放っておかれると淋しい」という相反する複雑な感情を抱いているということにも留意しておくべきであろう。 家庭はすべての教育の出発点であり、人格形成の基礎を培う重要な役割を担っており、家庭の教育力の充実を目指して様々な施策の推進を図ることは極めて重要である。しかし、不登校の解決を目指す上では、不登校の原因を特定の保護者の特有の問題のみに見出そうとするのでなく、子育てを支える仕組みや環境が崩れている社会全体の状況にも目を向けつつ、不登校児童生徒の保護者の個々の状況に応じた働きかけをしていくことが大切であると考える。 不登校の要因・背景は多様化しており、虐待等の深刻な家庭の問題を抱えて福祉や医療行政等と連携した保護者への支援が必要な場合もあれば、子どもの非行への対応、基本的な生活習慣や教育環境の改善のための支援を必要としている場合や、保護者自身がしつけや子育てに対する自信がなく支援を必要としている場合等もある。また、不登校となった子どもへ対応するための十分な情報を保護者が持たず悩んでいる場合もある。 その際に、保護者への働きかけが、保護者の焦りや保護者自身を追い詰めることにつながり、かえって事態を深刻化させる場合もあることから、保護者に対しては、児童生徒への支援等に関して、共通する課題意識を持って取り組むという基本的な関係をつくることが重要である。その意味から、不登校に関する相談窓口に関する情報提供、不登校児童生徒への訪問等における保護者への助言、不登校児童生徒の保護者が気軽に相談できる体制を整えること等が教育関係者等に求められる。また、その際に、「親の会」等の既存の保護者同士のネットワークとの連携協力を図ることや、そのような保護者同士のネットワークづくりへの支援をすることにより保護者を支援すること等も考えられる。なお、保護者との関係においては、「支援する」といったことだけではなく、「親の会」に学校の教員やスクールカウンセラー等が積極的に参加し、保護者の経験から学ぶなど、関係者が相互に意見交換をするという姿勢も大切である。 また、不登校となった児童生徒の保護者のみならず、保護者全般に対する不登校への理解を深めるためのセミナー等による啓発を行うことや、就学時検診や乳幼児検診等の保護者が集まる機会を活用した子育て講座、思春期の子どもを持つ保護者向けに作成された資料等の活用など、子育てについての悩みや不安を持つ保護者に対する支援の充実を図ることが期待される。 学校における不登校への取組については、ややもすると児童生徒が不登校になってからの事後的な対応への偏りがあったのではないかという指摘も一部にあり、学校は、児童生徒が不登校とならない、児童生徒にとって魅力ある学校づくりを主体的に目指すことが重要である。 具体的には児童生徒にとって、自己が大事にされている、認められている等の存在感が実感でき、かつ精神的な充実感の得られる「心の居場所」として、さらに、教師や友人との心の結び付きや信頼感の中で主体的な学びを進め、共同の活動を通して社会性を身に付ける「絆づくりの場」として、十分に機能する魅力ある学校づくりを目指すことが求められる。すべての児童生徒にとって、学校を安心感・充実感の得られるいきいきとした活動の場とし、不登校の傾向が見え始めた児童生徒に対しても、不登校状態になることを抑止できる学校であることを目指すことが重要である。 新学習指導要領のねらいの実現 平成14年度から実施されている新学習指導要領は、児童生徒に学習指導要領に示す基礎・基本を確実に身に付けさせ、豊かな人間性や自ら学び自ら考える力などの「生きる力」を育成することを基本的なねらいとしている。児童生徒にとって魅力ある学校づくりのためには、この新学習指導要領の趣旨を実現することがその基本となると考えられる。各学校においては、この新学習指導要領の下、創意工夫に満ちた教育課程を編成し、各教科、道徳、特別活動はもとより、新設された「総合的な学習の時間」を有効に活用し、体験活動を推進するなど、社会性の育成を目指した様々な取組を一層積極的に展開することが望まれる。 特に、学級活動、児童会・生徒会活動、学校行事等の特別活動の充実は、学校生活の基盤となる児童生徒間や教師との人間関係を形成し、児童生徒の学校における居場所づくりや帰属意識を高める観点から重要である。新学習指導要領では、特別活動に関して、学級や学校の生活への適応指導、児童生徒の自発的・自治的な活動、ガイダンスの機能などの充実が図られている。こうした趣旨を踏まえ、例えば、児童生徒にとって環境が変わる入学時や年度初めにおいて、オリエンテーションの期間を意図的に設け、学級活動、児童会・生徒会活動、学校行事等を効果的に関連付けるなど、人間関係づくりや学校生活への適応に関する指導の充実を図るための取組を一層工夫することが考えられる。また、学級活動において、生き方を考えさせる指導の工夫をしたり、児童会・生徒会活動の中で、規則・規律について主体的に考えさせる取組の充実を図っていくことも意義があろう。 開かれた学校づくり 新学習指導要領の下での教育活動の実施に当たっては、活動の場を学校内に限定することなく地域の様々な場で活動を展開するとともに、指導者についても教員に限らず外部の多様な人材の協力を得るなど、地域社会の教育力を積極的に生かしていくことが重要である。児童生徒の「心の居場所」や「絆づくりの場」としての学校を実現する上でも、このような取組を通じて、学校と社会とのつながりを強め、開かれた学校づくりを推進することが不可欠である。 社会の変化を背景に、学校においてはより一層、今日の児童生徒の興味や関心に合った学習や活動の場を提供することが求められているところである。このような課題に応えるためには、地域の団体、企業、NPO等との連携により学校外の社会との結び付きを強めるような様々な体験活動の実施や、地域のボランティアや専門家等の学校外の多様な人材の協力を得ること等を通じた開かれた学校を目指す取組により、児童生徒に多様な学習の機会を提供し魅力ある学校づくりを進めることが重要である。 学校が説明責任を果たしていく観点からは、国の定める小・中学校設置基準において求められているとおり、教育活動その他の学校運営の状況に関する自己点検・評価や保護者等への情報提供について、積極的な取組が必要である。また、学校運営を常に改善し、教職員の意識の向上を図るため、学校評議員制度を活用することにより、保護者や地域の学校に対するニーズを把握することは、保護者や地域との信頼関係を築き、協力を得る上でも有効である。魅力ある楽しい学校づくりのため、学習指導や生徒指導の在り方等について、児童生徒の願いに対して、適切な配慮を行うことはもとより大切なことである。 きめ細かい教科指導の実施 学校関係者は、学業でのつまずきから学校へ通うことが苦痛となる等、学業の不振が不登校のきっかけの一つとなる例が少なくないということを認識する必要がある。様々な調査を通じて、学年が進むに連れて児童生徒の授業理解度が低下していく傾向が示されていることにも留意すべきであろう。 このような観点に立ち、児童生徒への指導に当たっては、一人一人の個性が異なることを常に意識し、具体的な指導の方法や進度につき、児童生徒の側に立った配慮が必要である。例えば、各教科等において理解の状況や習熟の程度に応じた指導等による「分かる授業」を実施したり、補充指導の充実を図ったりする等、基礎基本の確実な習得のためのきめ細かな指導を推進していくことが重要である。 学ぶ意欲を育む指導の充実 学校において、児童生徒が発達段階に応じて自らの生き方や将来に対する夢や目的意識について考える、そうしたきっかけを与えることのできる指導を行うことは、児童生徒が楽しく、学ぶ意欲を持って主体的に学校に通う上で重要である。このような観点から、学校においては、あらゆる機会をとらえ、社会との接点や関わりを児童生徒が実感することができるような創意を生かした取組を行うことが望まれる。そのような取組においては、学校外の多様な人材や機関の協力を得た体験活動等が効果的である。 児童生徒が楽しく、安心して通うことができる居場所としての学校づくりのためには、いじめや暴力行為を許さない学級づくり、更には必要に応じて警察等の関係機関との連携を図ったり、出席停止の措置を適切に講じる等、問題行動への毅然とした対応が大切である。さらに、いじめの解決に向けての真摯な取組を進めていく中で、いじめられた児童生徒を守り教育相談等の援助を十分に行うことはもとより、「いじめる側」についても、何らかの問題を抱えており支援を必要としているという認識に立ち、適切に対応することが大切である。 教員が児童生徒を全人的に受け止め理解し共感しようとする姿勢を持つことは、教員と児童生徒の人間関係の改善を図る上で重要である。また、教員による体罰や人権侵害行為等があってはならないことは言うまでもなく、児童生徒にとって安全で安心できる環境を確保することは学校や教育委員会の当然の責務である。 特に小学校においては、不登校は中学校生活への不適応や思春期の問題等に限られるものと考えるのではなく、小学校における学校生活上の問題や基本的な生活習慣が身に付いていないこと等が背景となっている場合もあることや、早期の段階での対応が効果的であることを認識し、対応することが必要である。 また、中学校で不登校生徒が大幅に増加することから、小・中学校間の接続の改善を図る観点から、小・中連携を推進する等の配慮が重要である。具体的には、例えば、中学校区の地域コミュニティーでの合同の活動、小・中合同の教育活動の実施や連携カリキュラムづくりの実施、小・中学校間の教職員の交流や兼務等の人事上の工夫、中学校の新一年生の担当教員として必要な資質を考慮した教員の配置の工夫等が考えられる。また、学校の実情に応じて小学校高学年において部分的に教科担任制を取り入れる工夫も、中学校との違いを緩和したり、教師の得意分野を生かした授業の実施をするといった観点等から考えられる。さらに、中学校へ入学する際の不安を解消するために、小学校高学年の児童を対象とする中学校への体験入学を実施したり、中学校入学時や年度初めの人間関係の形成や変化への適応に向けたきめ細かい指導を充実するため、学校や学年の開始時期における集中的なオリエンテーションを設けたり、小規模小学校から中学校へ入学した者への入学時の学級編制上の配慮を行ったりすること等が考えられる。 きめ細かく柔軟な個別・具体的な取組 以下の取組は、基本的には、不登校となった児童生徒に対し、きめ細かく柔軟な対応を事後的に行うための学校における取組について述べたものであるが、これらの事項への取組を日常的に充実することは、同時に、すべての児童生徒や、不登校の傾向はあっても完全な不登校状態にはない児童生徒に対する取組としても重要である。 校内の指導・支援体制については、現実には、不登校児童生徒への対応を学級担任一人に任せがちで、学校全体での組織的かつ具体的な対応が十分に行われていないのではないかという指摘もある。例えば、不登校の児童生徒が現在どのような状況で、どのように学級担任や養護教諭、スクールカウンセラー等が関わっているのか、今後どのように指導・支援を進めるのかといった点で、具体的な情報共有等のための取組が不十分であると考えられる。こうした問題は、学年内のみならず、学年間あるいは学校間の引継に際しても生じていると見られる。 また、個々の教員を援助する校内体制づくりについては、例えば、学校を休みがちである、学習に集中できない、問題行動が見られる、学級生活で孤立しがちである等、何らかの学校生活への適応の面でのつまずきのある児童生徒を早期に見出し、管理職や養護教諭等関係職員が、スクールカウンセラー等も加えて、定期的な会合を開き、当該児童生徒を支援していく校内サポートチームをつくることが有効であると考えられる。さらに必要に応じて、外部の機関の協力を依頼し、協働して支援に当たる等の体制をつくることが考えられる。なお、校内の体制については、既に類似の委員会等の組織がある場合(例えば、生徒指導やLD、ADHD等に対応するための委員会等)には、ケースに応じて、参加する教員や関わる専門家等を替えること等により、複数の組織を設けることなく、柔軟な対応をとることが適当であると考えられる。 具体的には、当該コーディネーター的な役割を果たす教員は、校内における不登校児童生徒の学級担任や養護教諭、生徒指導主事等との連絡調整及び児童生徒の状況に関する情報収集、児童生徒の状況に合わせた学習支援等の指導のための計画づくりに関する学級担任等との連携、不登校児童生徒の個別指導記録等の管理、学校外の人材や関係機関との連携協力のためのコーディネート等を行うことが求められる。 また、不登校児童生徒への事後的な対応のみならず、不登校傾向がある児童生徒への早期の対応を行うことも重要な役割である。特に、児童生徒の社会性を育む観点等からも効果的である開かれた学校づくりを進めるためには、地域社会や関係機関等との調整は重要であり、学校内に生徒指導や体験活動のための連絡窓口がある場合等にはそのような既存の校内の体制と連携協力を図ることが有効である。 不登校の対応にあっては、前述の適切な働きかけ、関わりの重要性を一人一人の教員がしっかりと認識する必要があるとともに、各教員は児童生徒のありのままの姿を受けとめ、先入観を持つことなく粘り強く聴く姿勢を持つことが重要であり、個々の教員が児童生徒に対する共感的理解の基本姿勢を持つことが求められる。このように、児童生徒にとって、話しやすく相談しやすい雰囲気を持ち、児童生徒の立場に立って聴き、指導ができる資質を身に付けることが教員に望まれるが、その場合においても、児童生徒のありのままの姿を受け止めるということが、正すべき行動を正すことなく、それを容認してしまうかのような対応として誤解されてはならない。 また、教員は、学級等の集団の成員の心の結び付きを重視し、ともに認め励まし合いながらよりよい学級をつくろうとする中で、児童生徒が存在感や自己実現の喜びを実感できるように努めることが大切である。その意味から、児童生徒理解や個々の児童生徒への対応に関する資質の向上ばかりでなく、学級や学年運営等の望ましい集団の育成に関わる資質や能力を教員養成や研修等において育成することも重要である。 このほか、不登校の多様、かつ今日的な要因や背景へ対応する上で、初期の段階での対応の判断を誤らないよう、関連する他分野についても基礎的な知識を身に付けておくことが望ましい。例えば、精神医学の基礎知識やLD、ADHD等に関する知識、児童虐待の早期発見や「ひきこもり」に関する知識を教員が身に付ける意義は大きい。ただし、これらの知識については、教員はあくまでも初期の対応を適切にするために必要なものであり、自らが専門的な診断を下そうとしたりすることがないよう注意が必要である。 特にスクールカウンセラーについては、「心の専門家」としての専門性と学校外の人材であることによる外部性とにより、不登校児童生徒等へのカウンセリングや教職員、保護者等への専門的助言・援助において効果を上げている。スクールカウンセラーが配置された学校関係者は、その効果を高く評価しており、養護教諭、教師、保護者等からの相談活動へのニーズは高い。また、スクールカウンセラーの配置校と他の学校とを比較すると、不登校の増加を抑止するといった効果も示されている。 スクールカウンセラーには、「学校におけるカウンセラー」という性格上、 学校の組織・機能、校風等についてよく承知した上で、独自の資質や対応が求められる。例えば、校長のリーダーシップの下、児童生徒への対応を考える上で必要な情報については、プライバシー等に配慮しつつ関係教職員と共有し、連絡を密にすることや、児童生徒の方から相談に来ることをただ待つのみならず、場合により、学級担任や養護教諭等から得た情報を基に、不登校に関する取組に積極的に関わっていく姿勢が求められる。そうした観点から、不登校あるいはその傾向のある児童生徒への対応、保護者との相談、教員からの相談への対応・助言、教員等に対する研修や事例研究の企画・実施等への参画、専門機関への紹介等を積極的に行うことが求められる。 このように、スクールカウンセラーの配置を推進していく中で、様々な課題も提起されているが、不登校への対応をはじめ、総じてその成果は大きく、できるだけ早期にすべての児童生徒がスクールカウンセラーに相談できる機会を設けていくことが適当であると考える。国に対しては、引き続きスクールカウンセラーの効果的な活用方法について調査研究を進めつつ、必要な条件整備の在り方を検討していくことを望みたい。 そのような情報共有のためには、個人情報の取扱いに十分配慮しつつ、不登校児童生徒の個別の指導記録づくりを行うことが有効であると考えられる。当該指導記録には、児童生徒の欠席や「保健室登校」などの状況はもとより、関係機関との連携の下に行った対応とその際の児童生徒の言動・状況や保護者の対応等の経過について記載することが考えられる。 記載に当たっては、客観的事実のみを記載し、主観的な判断を避けるように努めなければならない。また、当該指導記録を保護者との相談や家庭訪問の際に使用し、保護者の見解を聞いた上で作成するなどの取組も、保護者との連携を深める上で有意義であろう。さらに、当該指導記録を児童生徒の指導のため関係機関との連携において使用することを想定する場合には、その旨を保護者に説明し、当該指導記録の役割やその記載事項等について保護者からの理解を得ておくことが重要である。 家庭への訪問等を通じた児童生徒や家庭への適切な働きかけ 既に第3章の「基本的な考え方」で述べたように、学校は、登校への働きかけについては時期や態様に応じた適切な配慮をする必要があることを踏まえつつ、児童生徒が学校外の施設に通う場合や家庭にいる場合であっても、当該児童生徒は自らの学級・学校の在籍児童生徒であることを自覚し、関わりを持ち続けるよう努めるべきである。 不登校児童生徒の学習状況の把握と学習の評価の工夫 不登校児童生徒が適応指導教室や民間施設等の学校外の施設において指導を受けている場合には、当該児童生徒が在籍する学校がその学習の状況等について把握することは当該児童生徒の学習支援や進路指導を行う上で重要である。 学校が把握した当該学習の計画や内容がその学校の教育課程に照らし適切と判断される場合には、当該学習の評価を適切に行い指導要録に記入したり、また、評価の結果を通知表その他の方法により、児童生徒や保護者、当該施設に積極的に伝えたりすることは、指導の改善による児童生徒の学習の充実はもとより、学校に通うことができない不登校児童生徒の学習意欲に応え、自立を支援する上で意義が大きい。 児童生徒の再登校に当たっての受入体制 不登校児童生徒が再登校をしてきた場合には、温かい雰囲気の下に自然な形で迎え入れられるよう配慮するとともに、徐々に学校生活への適応を図っていけるような指導上の工夫を行うことが重要である。その際に、当該児童生徒の状況が学校の教職員の共通理解の下にあることは重要であり、情報共有がなされていないために児童生徒が再び登校への意欲をなくすようなことがあってはならない。 児童生徒の立場に立った柔軟な学級替えや転校等の措置 いじめに関しては、前述のようにいじめを絶対に許さない毅然とした対応をとることがまずもって大切である。また、いじめられている児童生徒の立場に立つとき、緊急避難としての欠席が弾力的に認められてよいことはもとよりであり、こうしたいじめを背景とする欠席に際しては、その後の学習に支障のないよう適切な配慮が求められる。 また、教員による体罰や暴言等、不適切な言動や指導が不登校の原因となっている場合は、学校や教育委員会の関係者は、そのような不適切な言動や指導をめぐる問題の解決に真剣に取り組むとともに、保護者等の意向を踏まえつつ、十分な教育的配慮を持った上で学級替えや転校を柔軟に認めていくことが望まれる。 なお、今日、多くの場合、欠席日数が著しく長期にわたったとしても、不登校児童生徒の進級や卒業の認定については弾力的に取り扱われているが、保護者等から学習の遅れに対する不安により、進級時の補充指導や原級留置に関する要望がある場合には、その意向を踏まえて、補充指導の実施に関して柔軟に対応するとともに、校長の責任において原級留置の措置をとるなど、適切な対応をとることが考えられる。また、欠席日数が著しく長期にわたる不登校児童生徒の進級や卒業に当たっては、こうした点について予め保護者等の意向を聴いて参考とするなどの配慮をすることが望まれる。 不登校児童生徒の実態に配慮した特色ある教育課程の試み 不登校児童生徒の実態に配慮した特色ある教育課程については、学習指導要領等の基準によらない教育課程の編成・実施を特例的に認める研究開発学校制度の活用により、不登校児童生徒を対象とした分教室における特別のカリキュラムの編成などに関する研究が行われているところであり、引き続きその推進が期待される。 また、それに加えて、平成15年4月に施行される構造改革特別区域制度の下では、不登校の児童生徒の実態に配慮した特色ある教育課程や指導方法等による学校の設置や、不登校児童生徒の指導を行うNPOで一定の実績等を有するものの学校設置について、その成果を検証していくことも考えられる。その際には、学校の裁量の大きさに伴って説明責任が強く求められることから、適当な尺度や基準の下、情報公開、第三者評価などが適切に実施される必要があろう。特に、こうした学校を利用する児童生徒の学習到達度については、十分なフォローアップが求められよう。 適応指導教室の設置数については、平成2年度においては84箇所であったのに対し、平成13年度は991箇所に達しており、全国的に整備が進められてきている。しかしながら、平成13年度において、適応指導教室を設置している市町村教育委員会の割合は、全体の約27%であり、また、利用者からの評価は他の学校外の施設に比して高くなっているものの、全国の不登校児童生徒のうち1割程度の者しか通級できていないという実態からも、いまだ適応指導教室の整備状況は十分なものとは言えず、今後一層、質・量両面の充実が望まれる。同時に、適応指導教室から各家庭等へ、より一層その存在や指導内容等について積極的に周知し働きかける等、主体的な活動を行う必要がある。さらに、地域によっては、小学生の受入が十分にできていないといった指摘もあり、今後児童生徒の発達段階に応じたよりきめ細かい対応が求められる。 さらに、適応指導教室の指導体制をめぐっては、専門性の不足や年齢構成の偏りなどの課題が指摘されている。児童生徒がどのような状態にありどのような支援を必要としているのか適応指導教室が正しく見極め(「アセスメント」)を行い、教育相談を実施することや、後述する地域ネットワークの中核的機能を担うことなどを考えると、カウンセラー等の専門家など多様な人材を配置することも望まれる。 地域ネットワークにおける中核的機能の整備 不登校児童生徒が、各地域において身近で公的支援を受けられるよう、適応指導教室の物理的な整備充実を図る一方で、既存の適応指導教室や学校、地域の関係機関との連携協力・資源の共有化を図ることが必要である。このため、地域において教育センターや適応指導教室が核となり、学校や他の小規模な適応指導教室、児童相談所、警察、病院、ハローワーク等の関係機関、更には民間施設やNPO等と連携し、不登校児童生徒やその保護者を支援するネットワークを整備することが望まれる。 教育委員会の中には、不登校児童生徒やその保護者を対象とした宿泊型の施設を設置し、そこを核として、周辺の学校に対し不登校児童生徒への対応に関し助言したり、教員のための研修や事例研究会を企画・実施するほか、悩みを抱える保護者に対する相談や保護者同士のネットワークづくりへの支援、数日間にわたる体験活動プログラムの提供、各種の情報収集を行うなど、地域ネットワークにおける中核的機能を担わせている事例もある。こうした試みが、各地で積極的に進められていくことを期待したい。 社会教育施設の体験活動プログラムの積極的な活用 社会教育施設では、不登校児童生徒を対象とする様々な野外体験活動プログラム等が提供されており、例えば、宿泊型のものや自然を利用したもの等、都市部における適応指導教室や小規模な適応指導教室では提供しにくいものが実施されている場合も多い。 具体的な連携の内容としては、例えば、各地域のネットワークを活用しながら、公的機関による民間施設に関する情報提供や、共同の事例検討会の実施、研修等における講師としての協力、不登校児童生徒の指導計画の共同作成・実施、体験活動プログラムの共同開発・実施、訪問型の支援に関するマニュアルの共同作成、第4章で触れた学校外での学習評価における連携等の取組が考えられる。 このような公的機関と民間施設等との密接な連携を進める上で、公的機関による情報収集のみならず、民間施設からの積極的な情報提供や民間施設の運営等に関する透明性の確保が望まれる。また、民間施設等の実践には評価すべきもの、参考とすべきものが多々ある一方で、一部には不適切な指導が疑われるものや活動の実態がはっきりしないものもあるという指摘もある。その観点から、本協力者会議においては、「平成4年報告」に別記として掲げられている「民間施設についてのガイドライン(試案)」について、事業運営の透明性の確保や相談・指導面での情報公開の必要性の観点から見直しを行った。 教育委員会、学校、適応指導教室等の公的機関は、このガイドライン(試案)を保護者等へ周知するとともに、ガイドライン(試案)に照らして把握できた情報を保護者の参考に資するよう提供することが望ましい。また、不登校児童生徒や保護者は、民間施設において相談・指導を受ける際には、当該ガイドライン(試案)や教育委員会等から示された情報に留意することが望まれる。さらに、学校は、教育委員会と連携し、民間施設における相談・指導が個々の児童生徒にとって適切であるかの判断や出席扱いの適否の判断等をするに際して、当該ガイドライン(試案)を参考とすることが望ましい。 今後、適応指導教室に通うことができない者など、支援を受けていない不登校の児童生徒やその保護者等に対し、より積極的に支援を行う観点から、地域の実情や状況等を踏まえつつ、このような取組が全国各地で実施されることが望まれる。その際、適応指導教室や教育センター等、地域の中核的な機能を持った公的施設が人材バンクを整備して訪問に当たる人材の斡旋を行うなど、訪問型支援にあたり、コーディネーターとしての機能を果たすことが考えられる。 訪問型の支援の実施に当たっての配慮 公的な機関等による訪問においては、専門家のみならず、様々な人材と連携協力して実施することが考えられる。例えば、一部の自治体では大学との組織的な連携により、心理学や教育学を学ぶ大学生等を派遣することにより成果を上げている例もある。その場合には、この活動を大学における単位認定に反映させる等の措置も考えられる。 なお、特に、ひきこもりがちな不登校児童生徒の家庭を訪問する際には、その影響の大きさを考え、守秘義務の遵守はもとより、所定の時間外の私的な接触には慎重に対処したり、スーパーバイザーへの報告を確実に行うなど、指導する上での配慮事項等につき十分徹底を図る必要がある。さらに、訪問が解決に向けての次のステップへ結び付くよう適応指導教室や学校等と密接な連携を図ることが求められる。 ITを不登校児童生徒への指導や支援にどのように活用していくかについては、今後先駆的・実験的な事例等を踏まえながら研究する必要がある。既に保護者との相談等における電子メールの活用については一定の成果が報告されている。また、特に、ひきこもり傾向がある等、人との直接的な関わりが苦手な児童生徒については、相談等のきっかけとしてITを活用することは有効である。教育委員会が、不登校児童生徒の家庭に対してパソコンを貸与し、学校や適応指導教室への無料アクセスを認め、カウンセラーに相談したり、他の児童生徒と交流したりすることを可能とするといった実験的な取組も試みられている。 なお、学習指導におけるITの活用については、高等学校以上では、通信制の学校が存するなど相応の普及をしているが、義務教育段階にあっては、ひきこもり傾向のある不登校児童生徒に対し部分的にインターネットを利用した学習の実施、個別学習ソフトの開発などの試みも見られるものの、今後なお一層の研究を進めていくことが必要である。 今後は、このような選抜方法の多様化の流れの中、高等学校で学ぶ意欲や能力を有する不登校生徒について、これをより適切に評価することが望まれる。例えば、進学の動機や高校で学びたいこと、学校外を含めて中学校時代に学んだ事柄などを記載した自己申告書を調査書に添付することや調査書に代えて提出することを認めたり、また、例外的な選抜枠を設けて面接や実技、作文のみで評価したり、学力検査の成績のみで評価することも考えられる。一部の教育委員会では、既にこうした方法を取り入れており、今後更なる取組の広がりを望みたい。 高等学校における長期欠席・中途退学への取組の充実 高等学校における不適応による長期欠席についても行政として把握し課題として認識することが必要であることは既に第2章「不登校の現状」で述べたとおりである。国においては、高等学校での長期欠席に関する調査は行っていないが、中途退学に関しては、「問題行動等調査」の一環として把握している。学校復帰のできなかった長期欠席者は、中途退学者の中に含まれてしまっていると考えられる。この調査結果によると、平成13年度の公私立高等学校の中途退学者は約10万5千人、在学者全体に占める割合(中退率)は2.6%となっている。中退率は近年横ばいであるが、過去と比べると比較的高い水準にあり、また、その事由別の構成比の推移を見ると、「学校生活・学業不適応」の項目、例えば「人間関係がうまく保てない」が伸びている。 高等学校における長期欠席や中途退学の課題については、小・中学校時に不登校であった生徒や、高等学校入学後も欠席傾向がある生徒に対し、単位制の活用や選択幅の拡大等による個に応じた教育課程編成、少人数制の指導による「分かるまで」のていねいな教科指導、生徒の個人として優れている点や長所、学習における進歩の状況の積極的な評価、体験活動の積極的な推進、副担任制を活用することによる担任の選択制度等の多様な取組が行われている。今後、各地域の実情に合わせ、中高一貫教育の推進や、総合学科や単位制高等学校等の特色ある高等学校づくり等も含め、多様な取組や工夫が行われることを期待したい。 中学校時に不登校であり高等学校へ進学しなかった者、または高等学校へ進学したものの中途退学をした者等、中学校卒業後に進学も就労もしていない者等に対して、例えば、通信制の高等学校や専修学校高等課程への進学、放送大学の選科履修生・科目履修生や大学入学資格検定試験等を通じた多様な進学、職業訓練等の機会等について相談できる窓口や社会的自立を支援するための受け皿が必要である。 こうした支援の望ましい在り方については、今後、各都道府県や市町村の青少年担当部局、福祉・労働担当部局等との連携や都道府県と市町村との連携の下に検討する必要があるが、その検討に当たっては、自治体において既にそのような施設を設置している例や、青少年の自立支援を行い、成果を上げている既存の民間施設等の取組等が参考になると考えられる。 中学校卒業後のひきこもり傾向にある青少年への支援 中学校卒業後のひきこもり傾向にある青少年やその家庭への支援については、教育行政のみでそれを行うことは困難であるが、状況に応じ、訪問や手紙等による働きかけを家族との連携の上で行うことが望ましい。また、電話や面接による相談や訪問による本人や家族への支援、あるいは進路や就職に関する情報提供を行う等、保健・医療・福祉・労働行政機関と教育行政機関や関係するNPO等が連携した地域のサポートネットワークを整えていくことが有効であると考えられる。 例えば、児童生徒が連続して欠席している等、不登校傾向が見られた場合には、各学校が速やかに市町村教育委員会へ報告をし、それを受けて市町村教育委員会が学校の指導計画づくりを促すとともに、フォローアップを行う等、早期の把握と対応に関する学校や教育行政関係者等の意識を高めている例もあり、そうした取組を広げていくことが望まれる。 また、初任者研修をはじめとする教職経験に応じた研修、生徒指導・教育相談といった専門的な研修、管理職や生徒指導主事を対象とする研修などの体系化とプログラムの充実を図り、教員に対して、例えば不登校に関する知識や理解、児童生徒に対する理解、関連する分野の基礎的な知識などを身に付けさせていくことが必要である。加えて、視野を広げたり、知識・能力の専門性を高めたりするためには、様々な機関や施設等へ教員を派遣する長期研修の推進も重要である。例えば、関係機関との連携を推進する観点からは、児童相談所などへの長期派遣研修を積極的に進めることも意義あることと考える。また、教員の現職教育の機会を提供している大学・大学院との連携を図り、指導的な教員を対象にカウンセリングなどの専門的な能力の育成を図っていくことも望まれる。その他、例えば放送大学を利用した学習など、教員の自己啓発を促すことも大切である。 きめ細かな指導のための適切な人的措置 不登校を未然に防ぐ観点から、魅力ある学校づくり、「心の居場所」としての学校づくりを進めるためには、少人数授業やティームティーチング、習熟度別指導などのきめ細かな指導が可能となるよう、適切な教員配置を行うことが必要である。また、小・中学校さらには高等学校の間の連携を推進するため、異校種間の人事交流や兼務などを進めていくことも期待される。 また、不登校児童生徒が多く在籍する学校については、教員の加配等、効果的かつ計画的な人的配置に努める必要がある。そのためにも、日頃より各学校の実情を把握し、また加配等の措置をした後も、校内指導体制の確立、家庭や関係機関との連携の強化等に向け、この措置が効果的に活用されているか等のフォローアップを十分に行うことが大切である。 モデル的な個別指導記録の作成 各市町村教育委員会においては、各学校で不登校児童生徒に対する個に応じたきめ細かい指導を行うために活用できるよう個別指導記録のモデル案等を作成することが求められる。また、当該個別指導記録が効果的に活用されるよう適切な指導が望まれる。 転校のための柔軟な措置 いじめや教員による不適切な言動や指導等が不登校の原因となっている場合等には、市町村教育委員会においては、保護者等の意向を踏まえつつ、学校と連携した適切な教育的配慮の下に、就学すべき学校の指定の変更や区域外就学を認める措置を講じることが望まれる。また、他の児童生徒を不登校に至らせるような深刻ないじめや暴力行為があった場合は、必要に応じて出席停止措置を的確に講ずる必要がある。 適切な対応の見極め(「アセスメント」)及びそのための支援体制づくり 不登校の要因・背景が多様化しているため、対策を検討する上で、初期に適切な対応の見極め(「アセスメント」)を行うことは極めて重要である。そのためには、児童生徒の状況によっては、個別の教員や校内の関係者のみが対応するのではなく、専門知識を持つ外部の者等の協力を得ることが必要であり、そのような初期段階のアセスメント機能に関し、各学校等をサポートする地域の体制を構築することにつき、各教育委員会は今後具体的に検討していく必要がある。その際に、適応指導教室の機能を充実してそうした役割を担わせたり、あるいは学校と関係機関等のコーディネートを行わせることも考えられる。 適応指導教室の整備充実やそのための指針づくり 各都道府県教育委員会においては、適応指導教室の更なる整備充実のために、域内の市町村教育委員会と緊密な連携を図りつつ、未整備地域を解消して不登校児童生徒や保護者が利用しやすい環境づくりを進めたり、別添1の「適応指導教室整備指針(試案)」を参考に、地域の実情に応じた指針を作成し、必要な施策を講じていくことが求められる。もとより、市町村教育委員会は、主体的に適応指導教室の整備充実を進めていくことが必要である。 教育センターや教育研究所等における教育相談機能の充実 教育委員会は、所管する教育センターや教育研究所等における教育相談機能を活用し、保護者や不登校児童生徒をはじめ、学校、適応指導教室等が身近に助言・援助を得られる体制の整備を図り、域内の不登校に関する連携ネットワークの機能の充実を図ることが望ましい。その際、ITの有効な活用方法について研究を進め、教育相談の実践に生かしていくことが期待される。 また、不登校の対応にあたっては、ひきこもりがちな不登校児童生徒やその保護者等に対し、必要な配慮の下、訪問型の支援を積極的に推進することが期待される。その際には、家庭の協力を得ることが不可欠であり、また、保護者自身が悩みを抱えている場合等もあることから、情報提供や保護者のネットワークとの連携等による支援の充実が必要である。 民間施設等との連携協力のための情報収集・提供等 教育委員会においては、情報公開を適切に行っている健全な民間施設やNPO等との連携協力を推進するため、積極的に情報収集に努めるとともに、学校や保護者等への情報提供を適切に行うことが必要である。また、各民間施設等は、設置者の判断によりそれぞれ自らの責任で自主的に運営されていることを前提に、各公的機関や保護者等へその情報提供を行うことが望ましい。 不登校への対応に関する全国の情報収集・情報提供 国においては、各教育委員会等において展開されている有効な施策や実践事例に関し、情報収集や情報提供に努め、各教育委員会等の不登校対策の推進を支援することが望まれる。その一環として、本協力者会議の報告を踏まえて、各学校の指導方法の改善が図られるよう、より具体的な手法や事例等について紹介する指導資料の作成を行うことを求めたい。 また、新たに、本協力者会議の報告に基づく指導資料の作成を行うほか、平成15年度から実施される事業を積極的に展開し、適応指導教室を中心とした地域ネットワークの整備のための実践的な研究を進め、この報告で述べた様々な提言の具現化を図っていくことが必要である。さらに、不登校児童生徒に対するITの有効な活用の在り方などについても、教育相談・学習指導の両面にわたって研究を一層深めていくことが望まれる。 既に述べたとおり、本報告書の提言は、教育委員会や学校等での具体的な取組の充実を図ることに主眼を置くものであるが、文部科学省においては、スクールカウンセラーの配置、更には不登校児童生徒の実態に配慮した特色ある教育課程の試み等の課題について、取組の成果と課題を十分に検証しつつ、必要な検討を行うことを望みたい。 不登校対策については、画一的な不登校像を安易に描いて論ずるのではなく、不登校児童生徒の将来の社会的自立を目指し、一人一人の状況を踏まえて、その「最善の利益」が何であるのかという視点に立ち、真剣に考えなければならない課題である。国はもとより、家庭、地域、学校関係者など教育に携わる者全てが、そうした姿勢を常に保ちつつ、不断の取組を進めていくことを願って止まない。 |
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