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許さとは?/ ノーローン

[ 111] たけくまメモ : 許される模倣・許されない模倣
[引用サイト]  http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_94e4.html

前エントリで、「竹熊はトレースと模写の違いを混同して議論している」というような疑問が寄せられました。具体的にはおがたさん、fineさん、ニュー速+住人さんなどからの書き込みです。まずおがたさんが、
今回の事件はAですよね。竹熊さんが論じているのは主にC、ひょっとすればBも入る程度で、Aは入っているのかな? もちろん、じつはこの3つ、境界線は曖昧であったりするのですが、すくなくともBとCの地点から見れば、これらとAとの距離は非常に遠いものがあるように思います。》
《 同感です。私もたけくまさんはBとCについて書かれていると受け取りましたし、それであればたけくまさんの意見に同感です。
でもAはパクリでも模写でもなく「トレース」なので、漫画の歴史だとか関係ないし、非常によく行われていることでもないと思います。トレースはコピーして原稿に貼り付けるのと大差ないです。
私も趣味でイラストをWebに公開したりしますが、BとCは別にいいですが(むしろ嬉しいと思う部分もある)、Aをやられたら嫌です。訴えたくなります。》
で始まる長文の意見を寄せられています(ニュー速+住人さんの意見は、いくつもに分かれた長文なので、お手数ですが前エントリのコメント欄を参照してください)。
さて、実は先日からの2ちゃんの関連スレを読んでいて、僕が軽く違和感を憶えたのが、まさにこの「トレース」と「模写」の違いでパクリの正当性(妥当性?)を線引きする、という部分でした。それが議論の前提、了解事項であるかのように語られていることに、ひっかかっていたわけです。
僕の理解では、おがたさんたちに限らず、多くの人が「トレースは絶対に許されないが、模写は許される(場合もある)」というニュアンスで議論されているように思います。そして末次さんの今回の件が問題なのは「模写ではなく、(原著者に無断での)トレースだから許されない」というわけです。これを俺なりに整理すると、
●トレースとは、お手本の絵を、トレーシングペーパーあるいはライトテーブルなどを使って、オリジナルの上に紙を置いて忠実になぞって寸分違わぬ絵を描く行為(おがたさんの言うA)。
と、なるのではないかと思います。Cについては、結果としての表現次第ではありますが、まったく同じ絵にするほうが難しいでしょうから、あまり問題にはならないように思うので論議から一応除外します。
俺はたしかに前エントリで、トレースと模写を同じ文脈で使ったり、明確に使い分けていませんが、これは、議論として使い分ける必要をあまり感じなかったからであります。もちろん厳密には、このふたつは違う行為を指す言葉ですので、使い分けるべきだったかもしれません。ただしその場合でも「模写・トレースなど」というように、意味としては並列的に使うことになると思います。
この件について俺が使い分けない理由は単純で、かりにある表現が盗作や剽窃だとして裁判となった場合、法解釈的には「模写」も「トレース」も同じことだからです。これは別に俺個人の意見ではなく、著作権に詳しい弁護士さんなどに聞いても、ほぼ同じ答えが返ってくると思います(もし法律の専門家がお読みになっていましたら、これについてのご意見をうかがえれば幸いです)。
ここにふたつの作品があり、いずれも特定の作品を下敷きにしていたとします。それで一方が「盗作・剽窃」であり、一方が「問題なし」と判断されたとする。この違いはどこに求められるのかというと、そこに「創作性独創性に基づくプラスαがあるかないか」という一点にかかってくるわけで、ベースになる表現が模写かトレースかという違いを云々することに、問題の本質があるとは、俺には思えません。
※「創作性」より「独創性」というほうがより適していると思われるため、修正しました。以下の記述にも同様の訂正を加えております。
わかりやすい例としては、パロディがあります。パロディを俺なりに定義づけるなら、「ある作品を批判する目的でその表現の一部を借用する批評的創作」とでもなるでしょうか。パロディではオリジナルの表現を、場合によってはそっくりそのまま模倣(模写ないしトレース)することがあります。ただし、必ずそこにはオリジナルにはない別の要素を加え、しかもそれによってオリジナルを批判する構造をとります。したがって、まったく元のままの表現をとることはありえませんし、それによってパロディというものの創造性が、多くの国では法的または慣習的に許容されていたりするわけです。
マンガと著作権―パロディと引用と同人誌と (↑クリックでamazonに飛びます。竹熊のパロディや著作権についての考えかたも、こちらにより詳しく載っています)
最後のところ、いささか歯切れが悪い書き方になってしまったのは、日本の著作権法ではフランス著作権法の「パロディ条項」(フランス著作権法四一条四号)のように、パロディをオリジナルから自立した表現として認めるような内容は一切書かれていないからです。したがって現在は慣習的に許容されているだけですが、パロディそれ自体は日本でも長い伝統を持つ表現行為ですので、いずれ判例なり条文なりという形ではっきりさせてほしいものだと願っております。
なお断っておくと、俺はパロディに対して「二次創作」という言葉を使いません。二次創作の場合、原則的には一次創作、すなわちオリジナルの著作者に対して「使用許可」を得る必要がありますが、パロディは原作を茶化して笑いものにすることで、批評する行為ですので、原作者を立腹させる可能性が常につきまといます。その場合、いちいち使用許可を得る必要があったら、パロディそのものが成立しない可能性があるわけです。この意味で、パロディ行為には新聞や雑誌の報道に近い側面があると言えます。
話を戻します。ながながとパロディの話を書いてしまったのは、この「原作にはないオリジナル部分」が一番わかりやすい例だからです。しかし、特にパロディを目的としてなくとも、既成の作品を下敷きにしたものは無数にあるし、その中には盗作もあれば「独立したオリジナル作品」とされるものも、たくさんあるわけです。
そして、その線引きは「元作品にはない新要素の有無と程度」によるもので、それによってわれわれは、この作品はパクリだ、またはこの作品は創作だ、と判断しているわけなんです。しかも、その判断には明確な基準があるわけではなく、ケース・バイ・ケースで個別に判断するしかないものだと思います。これはどの法律の専門家に尋ねても、おそらく同じような答えになるのではないでしょうか。
以上の前提を踏まえて、最初に提示した問題に戻ります。許される模倣と許されない模倣の線引きに、「トレース」と「模写」の違いを使うべきかどうかについてです。
トレースはたぶんに機械的な作業ですから、模写とこれとを区別する意見は、もちろんわからないではないのです。というか、かつては俺もそう考えていました。いや、そもそもマンガ界には「単純トレースはパクリだから許されないが、模写の場合、模写側のタッチが多少混入するし、またそれなりの技術と労力をかけているわけだから、少しなら許容できる」という「常識」が、あったように思います。そうした常識の上に、露骨に模写を使ったパロディ行為も、これまでは許容、ないしは黙認されていたと思うのです。
おそらくおがたさんや、他の「区別すべき」派の人たちも、そういうニュアンスで言っているのだと理解しているのですが、違いますか?
僕も実はそう思っていて、昔、ある弁護士さんとその話をしたら、「そうした区別は法的には何の根拠もない」と一笑にふされてしまいました。要するに法律というのはこうした場合、あくまでも「その表現に有意な創作性があるかどうか」を問題にするので、それがトレースであろうが模写であろうが、はたまた写真複写であろうが、そこに創作性(プラス・アルファ)が認められなければ、同じこと(剽窃・盗作)だというわけです。
ここで問題となるのは、トレースにはなく模写にはある「線のゆらぎや、微細なタッチの差」を「有意な創作性」 「独創性」と判断するかです。これもケース・バイ・ケースというしかありませんが、俺は、基本的にはそういうあまりにも微細な部分は「独創性に含めるべきではない」と思います。もちろん、スラムダンクを下敷きに、ゴッホやピカソがあのタッチで模写するくらいの明白な差があれば、かりに構図はまったく同じであっても有意な創作性 独創性になるかもわかりませんが。
今回の末次さんのパクリ問題でいえば、俺もあまりにも稚拙な盗用行為だったと思うし、彼女は思慮が足りなさすぎたと思います。この意味では、全作品の絶版回収はともかくとして、彼女が謝罪したことはもっともだったでしょう。しかし、これが他の作家さんに目を向けると、特にパロディの文脈でもなく自作の一部に内外の雑誌や書籍から写真やイラストを無断トレース・模写するような実例が、俺自身「あれ」や「これ」と指摘できるくらい、現実には腐るほどあるわけですけども、それが今後、続々と露見しはじめた場合、作家や出版社はどう対応するのかという別の問題が発生してきます。
その場合、「いやこれは単純トレースではなく、作家のタッチが多少混入した模写だから問題ありません」と釈明するのでしょうか。
俺が前のコメント欄で「講談社はパンドラの筺を開けてしまったのではないか」というようなことを書いたのは、こうした意味からです。今回は対応として、余りにも厳しすぎた。いや厳しいのはいいとして、ここまでやると版元サイドも自分の首を絞めることになるのでは…と心配しているわけですよ。
今回の件では無関係のはずの俺が、なんでこの問題にここまでヒートアップするのかといえば、俺もかつて『サルまん』という、「意図的な模倣」をその表現のベースにしたパロディ作品にかかわっておりますし、はっきり他人事ではないからです。
もちろん講談社の今度の対応は、毅然とした立派な対応だと評価する向きもあるでしょう。今後似たような事例があったとしても、当然同じ対応をとられることでしょうが、これはもはや講談社一社の問題ではなく、マンガ界全体の問題でもあると俺は思うわけです。この際、マンガに関わる版元と作家、読者が一丸となった「マンガ表現を根源的に考える会」というものを発足し、問題の根を徹底的に解明したうえで、その対策を研究するなどして、定期的に研究成果を公開するようにしたらどうかと思います。これはマンガの未来に非常に有益なものをもたらすでしょう。もちろん俺も手伝いますよ。
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ええーい、このサイトの常連さんに弁護士の方はおられませんか?弁理士は?法学者は?司法書士でも、法学部学生でも良いです!
ここに叩き台を提示するからこれを元ネタに末次由紀さんを弁護する論陣をはれるかどうか検討をお願いしたいです!
誰だってバスケのシーンを描くのにある程度、写真などを参考にすると思うんですが、参考のレベルをこえてコマ割りまでそっくりそのままトレースした(のではないかと推測されている)というのが行き過ぎだったのかな。
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404BNF「問題はマネでなくてマネー」 模倣が問題を生むのではなく、価値が問題を生むのだ。問題はマネでなくてマネーである。オリジナリティは数値化不能 ここに欠けているのは時間の観念かな。... [続きを読む]
「○○って××のパクリだよね〜」とか安直な物言いをするひとが嫌いです。「お前の思うオリジナルとやらを提示してみろ!!」と(言いませんが)。軽い気持ちで深い考えもないのでしょうけどね…
「パンドラの箱」。あらゆるメディアで表現の自由を狭める圧力が強くなっているときに、漫画界が自分の首を絞め殺してしまうきっかけにならないように、してもらいたいです。
「トレース」と「模写」の違いは、書き手のプロセスの違いなんですよね。ここに線を引く行為は、以前に出た「マネなんだけど、漫画の場合マネするんだって大変なんだから同情の余地がある」みたいな論と同じで、気持ちはよく分かるけど、まあそれ言っても仕方ないんだよね残念ながら、みたいな感じ。
読み手にとっては、書かれた時にオリジナルの絵がトレーシングペーパーの下にあろうと、横にあろうと、そんなことは書き手の勝手。判断することができるのは出来上がった絵だけ。どういうペンを使おうと、どういうインクを使おうと、ガラスからの距離が何センチだろうか、出来上がった絵がオリジナルならオリジナル。本絵と同じなら盗作。描き方のプロセスが本質的な違いになるはずはない。
実際、デッサンの基礎的な訓練を積んでる人にとっては、トレースするのと横において見て書くのと、大してできあがりに差はないのではないかと。実際、世の中でいっぱい、トレースに頼らず模写によって、名画の贋作というのがこれまで作られてきているわけです。
ただし、最近の一部の「若手」漫画家や、一部の(一部の、ですよ)同人作家にとっては、そういう技術力や訓練が決定的に不足していて、模写では同じように書くのがそもそも不可能で時間もかかるので、模写とトレースの間には決定的な違いがあるのだ、ということならば、さもありなん、と思います。そういう場合、トレースと模写の間に線を引くのはけっこう妥当なのかもしれません。ただ、それは一般に敷衍できるものではないでしょう。(絵が下手な漫画家は許さん、というのもまたちょっとツライものがある。基礎的な技術という意味での絵が上手でない人にも、いいオリジナルの絵が描けてかつ面白い、というのはありますからねぇ)
>そもそもマンガ界には「単純トレースはパクリだから許されないが、模写の場合、模写側のタッチが多少混入するし、またそれなりの技術と労力をかけているわけだから、少しなら許容できる」という「常識」が、あったように思います。
今回の件はこの常識からも大きく外れてしまったから、ってことですかね。一般人にもこの常識は通じたみたいですし。
↑連載中の作品の単行本が初見の作家で、辿って昔の作品を読みたがる人もいるので、あながち単純なことは言えないと思いますよ。
その次に「中央線トーマス」は「二次創作」なのか「パロディ」なのか、かかる区別は可能なのかじっくり議論いたしましょう。
描きながら服などの修正を加えていく作業はAの方が面倒だからです。トレスでは一通り写してしまってから修正するか、こまめに紙を浮かしたりライトを切ったりしなければいけない。
そしてなにより、オリジナルの作品を描いていて、そのまま使える資料なんて(背景ならともかく)まずありません。服にしても漫画の画面で映えるようにするには省略・デフォルメが必要です。人体ポーズでも手元だけとか、これを想像でもうちょっと前傾、とか加工しながら描いてます。トレスした絵をそのまま使うというのはオリジナルのネームの方をトレス絵に沿わせているわけで、これは意識が「後退」してるように思います。漫画として成立すればなんでもいいや、という感じで。
一方トレスというのは没頭できる単純作業でして、これだけとってみればかなり楽しい!。忙しかったり、作画がうまくいかない時の逃避行動になりえたりします。
どこからが著作権の範囲になるのか、ぼんやりと考えながら製作しています。人格の清潔さと作品の面白さに因果関係があるのならばもっと真剣に考えるかもしれません。
赤塚さんはあれはあれでよいと口にしていたという噂をききましたが長谷川側よりたしなめられたとかなんとか。
私が知っているのはサザエもんのTシャツですね。「いそのくんだいじょうぶだよ」と印刷されていたようないなかったような。
音楽ですとコード進行には著作権は及ばないはずです。例えば私がイエスタディのコードをそのままつかって別のメロディと歌詞をくっつけたとします。でもこういうのはスレスレだけど盗作にはならないのでないかなーと思うのですが。
>意見を述べる前に、最初に確認しておきたいことは、今回の問題、現時点では「著作権侵害事件」ではないということです。というのは、著作権侵害は「親告罪」ですので、著作権者、すなわち今回の場合は「スラムダンク」の著者である井上雄彦氏が「エデンの花」作者である末次由紀氏を裁判所に訴え出ない限りは、罪を構成しません。
自分でこう書かれてたんだから、トレースと模写で人の感じ方が変わるのであれば、分けることに意味があると思いませんか?
法的にはABCは同じものというのはその通りなのでしょうが、著作権の場合は、結局は道義的にOKかどうかという点で決まるんじゃないですかね。
民事の場合は当然ながら著作権を侵害された者の訴えによるわけですが、刑事事件の場合でも親告罪であり、やはり被害者の意思によるわけですから。
パクられることに対してうるさい人とそうでない人がいるという個人差がありますが、同じ個人であっても、パクられ方によって許せたり許せなかったりするケースがあると思います。
場合によっては模倣されたことを光栄にすら思う場合もあるかもしれないし、笑って許せる場合もあるでしょうし、一方絶対許せないと思う場合もあるでしょう。
その意味では、やはりABCは異なるものなんじゃないかな。もちろんABCだけが判断要素ではないですが。
その論理だと、日本の出版社は京都以外は全部倒産するってことだな。みんなアメリカ映画のパクリなんだから。
その論理だと、日本の出版社は京都以外は全部倒産するってことだな。みんなアメリカ映画のパクリなんだから。
もう一歩踏み込んでスラムダンクの人がこれを使ってくれって資料として渡していた経緯があってもやはり駄目なの?
なんか、「ライオンキング」と「ジャングル大帝レオ」のときの、当事者間でどういうやりとりがあったのかは知りませんが、部外者たる傍観者には、あれあれ?って言う幕切れだったときのことを思い出しますね。
数多ある作品・作例の中からそれを選び出したという行為の裏には、その絵が他よりも優れているという評価が存在するはずです。その意味では、「謙虚さ」はないかも知れませんが、無意識の「敬意」はあるのでは無いでしょうか。
「ここでこのキャラには、スラムダンクみたいに(かっこよく)決めて欲しいなぁ」という考えに至るためには、スラムダンクを評価しているのではないかと思いますよ。
あと、今回の場合とは異なりますが、「どうせパクルんなら、そのまんま写せばいいのに、どうして改悪するかね?」ということも、世の中にはままあります。
末次にしても、下描きにつかっただけでキャラや服装は元のままというわけではない。つまり末次の絵になってるわけです。
パソコンやコピーが手軽に使えるようになったから、簡単にトレス出来るようになっただけで、昔だったら手元に置いて見ながら描くだけでしょう。
そういえば一昔前「AKIRA」の単行本をバラバラにしてポーズ集作ってるマンガ家がいるという噂もありましたね。
著作権法は複製か否かを問うているのであり、その手段は問うていません。だから、A)もB)も同じ「複製権の侵害」にあたるのです。これを「画」ではなく「文章」に置き換えると、手書きで写そうがコピー機にかけようが、「複製」という点では全く一緒だというのが分かると思います。
…というのが、竹熊さんのお会いになった弁護士さんの言ってることなんじゃないのかと思うのですが、いかがでしょうか。
ところで、漫画に関する著作権侵害裁判って、これまで実際にどんな例がありましたっけ。とっさに思いつくのは「ポケモン同人誌」なんですが、他に何があったかなぁ…
話題と関係無いけど、ここでの荒巻さんの「他人を貶めることで自分を持ち上げ悦に入る」一連の発言態度は、かつてファンだった者として見ていてとても悲しくなるので自重して欲しいなぁ。
先生私は「さるまん」がパロディだとわかりませんでしたw あれを本気にして漫画家になった人もおるはずです!!
ところで魁クロマティ高校という漫画があります。俗に言うキャラをまったくパクッた漫画なのですが、もちろんトレースではなく模写
これについてパクラレ元の池上遼一先生が自分と作風の似ている『魁!!クロマティ高校』に抗議されるのかと思いきや大絶賛されてます。なんと男らしいのでしょう。
《 著作権法は複製か否かを問うているのであり、その手段は問うていません。だから、A)もB)も同じ「複製権の侵害」にあたるのです。これを「画」ではなく「文章」に置き換えると、手書きで写そうがコピー機にかけようが、「複製」という点では全く一緒だというのが分かると思います。》
マンガに関する著作権裁判というのは、考えている以上に少ないのです。十年前に調べただけなんですが、判決まで出ているものだと、13例程度しかなく、その少なさに驚きました。
新聞などで報道されているケースでも、ほとんどが示談で済まされていて、実は裁判にすら至っていないというケースが多いです。示談ですと判例になりませんから、司法の判断材料がなかなか積み重ねられないということでもあります。
ちなみに、その13例の半数近くがサザエさんがらみだったと思います。現在では、もう少し判例があるのかもしれません。
例の「ポケモン同人誌事件」は、刑事でしたよね。マンガにからんだ著作権事件で、刑事事件になったのはあれ一例しかないと思います。
うーん知らないですね。富士山の写真なんて同じ地点より同じ倍率で撮れば基本的に同じにしかならないと思うのですがどうでしょう。
構図やポーズは同じで、でも異なるシチュエーションだったり顔も服装も別のものとして描かれているのだとしたらどうなるんでしょうね。
これはもうどなたか指摘されてるのかな。今回の件で大事なことのひとつは、ネットの普及によってまんがのパクリの比較検討がだれでもできるようになったことが大きいんじゃないかと思います。
80年代ですと、あだち充さんが美少女グラビアをトレースして首のみゆきちゃんにするとか、そういうのいっぱいありました。でもまんがマニアのあいだで内輪で盛り上がって終わってたのに、いまだとHPにばっと載せて煽るのがカンタンにできてしまいます。
>今回の件で大事なことのひとつは、ネットの普及によってまんがのパクリの比較検討がだれでもできるようになったことが大きいんじゃないかと思います。
私もこれを強く感じます。二つの任意のイメージの類似に気付く、というのは簡単なようで意識的にやろうとすると結構難しいですが、ネット上だと、多くのマニアの目を集めることで素早く事例が集積できます。
分けて考えるべきと主張している人はトレースが「手抜き」だから許せんのかな?とコメント読んでの感じです。
そこに作家としての良心を問いたい気持ちは分かるけど、「パクリ」については、どんな手段で真似られたかではなく、創意があるか、単なる真似か、って事でしょう。
「トレース」じゃないです!!見て描いたんですよー!!といわれて、それが明らかになれば、モロな真似でも許せるのか、といえばそんなことないハズ。
仮にオリジナリティの価値や作家の倫理や著作権法というものを一旦脇において、経済的な観点のみから考えると、「盗用」と「引用」の違いは「対価を払ったかどうか」という点にあると思います。
BがAの作品の表現を「借用」(ここでは中立的な意味で使ってます)してBの作品の中で使用した場合、Bの作品を読んだ後にAの作品を読んだ読者は、Bの作品を読んでいなかった場合に比べ、Aの作品の効果(例えば新鮮さ)が弱まる訳です。
この効果は一般に(読者の購買意欲を高めるという意味で)プラスの効果なので、Aの作品はBの作品によって損害を被っていることになります。
そこで(慣習的には)Bはその対価として、借用元を表示したり、表示しなくても明らかにそれと分かる借用の仕方をすることによってAの作品を「宣伝」する訳です。
今回の問題で言えば、末次氏はトレースという借用元に与える損害が大きいような借用の仕方をしているにも関わらず、その対価を一切支払っていない(借用元を表示=宣伝していない)という点で悪質な借用(=盗用)であるといえます(全作品回収・絶版がその行為に対する処罰として適当かどうかはまた別の話ですが)。
もちろんこのような見方は極端なもので現実的ではありませんが、将来的に「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在」せず「あらゆる創作は、模倣の土台の上に成立している」という考え方が広まっていくなら、引用と盗用の区別はこのようになされるのではないでしょうか。
「サザエさん」の裁判って、確か「キャラクター」の複製に関する話だったですよね。今回の末次氏のような作画の複製に関する話は、連載の中断で決着して、裁判にまで発展する事例はあまり無いような気がします。見落としがあるかも知れませんが。
それにしても今回の件、処分も大きければ、報道もデカかったですよね。そして、今、マンガをめぐる報道は地球をかけめぐるのです。海外でもスレが立ちました。
今回問題になった「エデンの花」は、すでにドイツ語版が出ていて(日本のamazonでも売っています)、英語版がもうすぐ刊行予定だったのですが、どうなるのでしょう…
わたし絵のほうはうといのでうまい例を思いつかないのですけど、誰か近年の有名な人物画を私が顔と服装をかえて同ポーズのまま別の絵にして自分の名義でどこかのコンクールに出展すればそれは盗作と呼ばれるであろうことは想像できます。
ですがまんがはここまで厳密ではないはずです。まる一ページぶん構図からコマわりまで同一で服装と顔のみ違うとか、そういうケースであれば盗作と呼ばれるとしても、そこまで極端なものはめったにないと思うのですが。
主な訂正は「創作性」「有意な創作性」とした表現を「独創性」に統一しました。このほうがもっとわかりやすいかと思って。
最近、インターネットの普及の影響からか、各方面で創作物に関するこういった盗用騒ぎが増えて来たように思います。
こういった騒ぎには、得てして「著作権」という言葉が使われがちですが、消費者が実際に訴えているのは倫理的な問題で、法的なものではない場合がほとんどだと思います。
たけくまさんの文章は、法的な回答と倫理的な回答が混在してしまっています。そして、制作者と消費者の間で、模倣の倫理的な許容範囲に食い違いが出てきているように見えます。
法的な解釈は既に確立されているようですね。それならば、模倣の倫理的な許容範囲について、製作者側と消費者側のギャップを埋める時期に来ているのかも知れませんね。
大友先生の場合は、模写にしても上手い(単なる模写とは思いませんが)ので、お客さんを楽しませることができるので、価値があるのでしょう。
私も法的にどうかは別として、特に道義面を楯に「トレース」のみが問題点としてクローズアップされるのに違和感があります。
ひとつは竹熊氏のおっしゃる通り、ここで言う「A、B、C」は傍で思うより簡単に線引き出来ないのではないかということ。
『野望の王国』を「模写」した場合と、「トレース」した場合では、実は出力された絵の結果はさほど変わらないのではないでしょうか。
もうひとつは、多分絵を「トレースされたこと」自体に怒る作家はあんまりいないんじゃないか?ということです。
よく見るのは、自分が(苦労して)編み出した独特の「技法」「アイデア」などを無断で使われた時に怒る、というパターンですかね。
今回の講談社の対応も倫理的な非難に屈してではなくて、ヘタしたら訴えられかねないから過剰反応してるだけでしょう。もし裁判沙汰になる可能性が全く皆無なら、出版社も頬かむりしてやり過ごしてたと思いますね。
でも今までも似たような事をやってきたマンガ家はゴマンといるわけで、非難はされつつも黙認されてきた現状があるわけです。黒でないにせよ灰色のマンガ家は一杯いるでしょう。
トレスだろうと模写だろうと法的に区分できないのであれば、極論をいえば次は誰が槍玉に上がってもおかしくないわけです。
講談社がもっと穏便な決着をしていればよかったのですが、今回全作品の回収という極端な先例を作ってしまった以上、同じ目に合うマンガ家が次々と出てくる可能性もあるんですよ。
みんな達はどうして贋作作成が簡単だと思うのだろうか。あれって半端じゃない模写と絵を描く技術がいることは、素人でもわかりますよ。ルパン三世とかギャラリーフェイクみたいに「ちょっと頼むわ」と依頼できるおっちゃんやじいさんがそこらにゴロゴロいるわけでもないです。
>ベースになる表現が模写かトレースかという違いを云々することに、問題の本質があるとは、俺には思えません。
法と倫理を混同するなという意見がありますが、そもそも法は社会通念上の倫理を最低限のラインで実行するものなので、法がOkを出すなら社会的にはOkなのです。盗作が親告罪なのは被害者はあくまで被盗作者の観点。消費者ではありません。
とまれ、作品の受け取り手である消費者は個人的な倫理で作品の良し悪しを決めて選べばいい話で、そもそも通念的倫理をどうこう言う話ではないと思います。第一個人的な倫理観を皆様披瀝なされて、これほども多様な意見が出るのだから、すべての人が納得のいく画一的な処置や規制など法で出来るはずがありません。トレースが許せないのなら買わなければいい。市場原理でNoを出された作家は消えてゆくでしょう。
しかし今回の処置は作家を守り育てるべき講談社が、市場や被盗作者の反応を待たずに一方的に作者を切り捨て、作家生命を断ったのでなんとも言えませんが。
個人的には安易な模倣は避けるべきですが全体的に独創性を加味した作品になるなら、作中にトレースしたカットが存在しても構わないと思います。そもそも漫画は「絵」だけで成立しませんので。
素人ならともかく、何冊も本出してる漫画家の人なら、見りゃ描けます。同じ構図、同じポーズになってりゃいいんだから。
最初の「マンガ家の描写盗用問題についての私見 」のコメントでは井上さんにプンプン怒ってらっしゃるのかと思いきや、その後のコメントでは逆に「どんどんやれ」と。
ほぼ竹熊健太郎さんの意見に賛成ですが、トレースとその他については著作権者がどう思うかもあるように思います。
>ご自分でお描きになった(トレース、そのほかの方法で描き写したものは除きます)CLAMP作品のキャラクターを、Webサイト(携帯端末用サイトを含みます)や同人誌、私設ファンクラブ(サークル)の会報、各種グッズなどに掲載、使用することについては問題ありません。
前にも書きましたが、絵という整理された線をトレスするのは簡単ですが、写真をそのままトレスしてもカッコイイ絵にはなりません。マンガ家のデフォルメや構図があるからいい絵になるんです。
斎藤プロでは海外するスタッフにありとあらゆるモノを膨大な写真を撮って貰ってストックしていて背景の参考にするらしいです。
本来、盗用問題は当事者同士の問題だという点は理解できます。しかし、今回は消費者側から問題がもちあがった事は事実です。
消費者の多くは法的解釈よりも、倫理的・感情的な解釈によって行動します。出版社と作家の関係を議論する必要もありますが、消費者を考慮しなければ、近い将来また同じような問題が再発すると思います。
たけくま氏が、「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない」から、トレースは「法解釈的に問題ない」と述べていると誤解してしまいました。早計でした。
「あらゆる創作は、模倣の土台の上に成立している。」と、たけくまさんが書かれていますが、まったく同感です。
仮に、何の元ネタも無く100パーセントオリジナルで絵を描いたとしても、過去をたどるとほぼ間違いなく構図、絵柄、アイディア等、何らかの類似した物に行き当たると思います。
いまの僕らの社会は先人の知恵と努力の積み重ねでつくられ、それをベースに、あらたに創作し、未来に引く次いでいくのだと思います。
創作の世界で盗作云々と、法律論で語るのはあまり意味のある事とは思えません。法律なんてのは所詮、政治屋の都合一つで簡単にひっくり返っちゃうじゃないですか。
それより、過去の知恵に敬意を払いつつ、それぞれの信念とか、公共性のような事で話し合う事の方が大事のような気がします。
竹熊さんは、トレスの是非を問題にしているのではなく、安直と思えるほどの出版側の対応を問題としているのではないでしょうか。
今回の事件は模倣やトレスはどこまで許されるのか、という漫画界がこれまで目をそむけてきたデリケートな問題に対し、出版社があまりにも安易な判断を(少なくとも現時点では)下したように見える点につきると思います。
講談社の「英断」を称える声もあるようですが、仮にこれがもっと人気作家やベテラン作家の場合でも同じような処遇を下したのだろうか?と穿った見方を見方をしてしまうのです。
そうそう、小林よしのり氏が自分の漫画のコマを多数流用されて本を出版されたために訴訟を起こしたことがありましたね。
確かに消費者の倫理意識と法の規範意識に乖離があるかもしれませんが、先にも発言したとおり、法は最低限の倫理、モラルなのです。社会的な制裁はこれに抵触したときに発動されるべきで、出版社が自主的にいわば私刑をくだして吊るし上げにした今回のことは悪しき前例だと思います。
結果として作者は誰かを害しようなどというような悪意も無いにかかわらず、職も名誉も、創作者としての未来も、そして過去までも消されてしまいました。
今回、確かに消費者側からの問題提起であったかもしれませんが、消費者の倫理観はあくまでも市場原理的に(買うか買わないか)反映されるべきで、言葉狩りの横行する現在にあっても解るとおり、作品の受け取り手の消費者がいつ告発者となるかわからないなら、表現の自由は著しく害されると思います。
どんな悪辣な批判やこき下ろしでも、いったん作者の手を離れた作品に対しては当たり前ですが自由に何でも言えるものです。
消費者が擬似告発者になってしまったのは、支配的な立場にある出版社が、それに敏感に反応し、作者に制裁を加えたことです。
こう言っては何ですが、たかが模倣で批判を受けるだけならまだしも、人生すら危うくされるなら、創作などはとてもとても。
今までそれでうまくいっていたのに、また表現が狭められると実につまらないのっぺりした世の中になりそうな気がします。
今回の末次のについてはそのまんまトレース、作者の味付け全く無しな完全盗用なのが漫画人としてまったく許されることでは無いと思う。こんなんじゃ漫画的に進歩ないからね。
>そうそう、小林よしのり氏が自分の漫画のコマを多数流用されて本を出版されたために訴訟を起こしたことがありましたね。
小林よしのりの場合は盗作した本が評論本の体裁を取っていたから認められたわけで、今回のケースが当てはまるとはちょっと思えませんが・・・。
結局竹熊先生の提案された「マンガ表現を根源的に考える会」のような第三者機関を設立するのが落とし所かもしれませんね。
映倫ならぬ日本マンガ倫理委員会でも作って、盗作や差別問題のようなトラブルはそこで解決に向けて話し合うわけです。
もちろん法的拘束力はないわけでこじれれば裁判にするしかありませんが、マンガの場合ほとんどは業界内のトラブルですからある程度はそこで解決出来るんじゃないでしょうか?
末次問題もそういう機関があれば、いきなり連載中止や回収処分でなく、警告なり問題個所の書き直しなりという形で穏便に済ませられたかもしれません。
これはちょっと違います。ゴー宣批判本を書いた上杉聰氏は、批判の必要から『ゴーマニズム宣言』を「引用」したのであって、盗作したわけではありません。
その「ただ一点」というのが、レイアウトの都合からコマの配置を変えて引用した部分です。これはマンガの「同一権保持権の侵害」にあたると認定され、小林氏の側が「勝訴」しました。ただし、判決をよく吟味すると、敗訴したはずの上杉氏側の主張が99%は認められているという、奇妙な裁判になりました。
この裁判以降、マンガの「引用」の基準がより明確になったとして、小林氏の意に反して被告側(や、マンガ評論家など)がむしろ喜んだ、という小林氏にとっては「やらなきゃよかった」くらいの皮肉な結果になっています。
↑これは、成り立ちません。たとえば、日本語を使って書かれた小説があるとして、その作家は「日本語そのもの」を作ったのでしょうか。もちろんそんなことはありません。
私が「厳密に」というのは、そこまで含めた意味で言っているのです。ただしこれは著作権とは次元が違う問題であることは認めます。日本語そのものに、著作者は存在しないので。
模写ならいいがトレースは許せないという意見は描き手側にも受け手側にも非常によくあるものだと思います。
模写もトレースも「元の素材がある」ということはかわりがないですよね。その二つの違いは労力と技術力で。
描き手受け手の双方の多くに、労力と技術力が第一に神聖なものであるとする観念的な要素があるのだなぁと強く感じた次第です。
法的な問題がクリアーになったとしても、人間の中にある労力・技術力への神聖視がなくならない限りこういった件は何度でも槍玉に挙げられるのかもしれませんね。
今回の出版社の行為は法的には問題ないのかもしれないが、全ての創作者の共有すべきモラルの領域に部外者が土足で踏み込んで来たような印象を受けるね。
>竹熊さんは、トレスの是非を問題にしているの>ではなく、安直と思えるほどの出版側の対応を>問題としているのではないでしょうか。
問題は4である。何故これ程の措置に至ったのか、具体的な説明が全く無い。ファンの多くは恐らく女性であり、それに対するそれなりの説明責任は出版社にあると思う。
「気に入らなきゃ見るな」とか内容に反論するでもなくただ「帰れ」というは非常にレベルが低いですよ。。。
ニュー速+住人さんは理路整然と論じているでしょう?主張にも筋は通っています。悪い点をあげるとするならば名前くらいです。
盗作だってことが出版社によって証明された末次は盗作者、されてないほかの漫画家はそうじゃない、それだけ。
漫画でも音楽でも、創作、表現については、それが人の間でのみ発生する以上、知られているか知られていないかがすべてだ。
>自作の一部に内外の雑誌や書籍から写真やイラストを無断トレース・模写するような実例が、俺自身「あれ」や「これ」と指摘できるくらい、現実には腐るほどあるわけですけども
ちゃんとサイトでもつくって世間に判断してもらわない限りそれは竹熊のただの妄想でしかないんだよwwwわかってんのか?。
それよりストーリーをパクってるのが問題だと思うのです。例えば、浦澤直樹の(20世紀少年は狙っているのでいいにしても)プルートゥはひどい。一流とされる人ですらそういう現状なのは悲しいです。
漫画の中で「写真等(絵画)」を流用する場合、極論ですが写真(絵画)作品の価値全てを流用するので、問題になるでしょう。
仮に有名(無名)な物語を元に漫画化して作品をオリジナルと偽った場合、これも問題模倣となる場合があるのではないでしょうか?
講談社さんについては、「表現に問題があった場合の絶版ガイドライン」を公開していただければ…と思う漫画好きの独り言です
議論のやり方に苦言を呈されているのは分かりましたが、そもそもブログのコメントって議論する場所なんですか?
私の視点では、ここは色々な方の意見を拝聴し、なるほどなぁとか、そういう見方もあるのかという意見交換の場だと捉えていました。
確かに多少の反論や、議論も生じるかとは思いますが、議論のガイドラインを決めるかのようなニュー速+住人さんのコメントには失礼ですが正直ちょっとウンザリしました。
とはいえ、実は私もたけくまさんのレスで、自分の聞きたかったことや言いたかったことが、微妙にかわされたと感じることがありました。
ただ、そこは一旦グッとこらえて、自分の中でじっくりと咀嚼したとき、竹熊さんが非常に真摯な態度でレスをしてくれていると気づきました。
そして一旦グッ、とこらえることは、「ハンドルネーム」でレスをしている自分にとって、たけくまさんを始め、実名でレスをされている他の著名人の方々に対する最低限の礼儀だと思っています。
ニュー速+住人さんは、本来とても論理的で弁の立つ方と思われますので、是非、今度書き込まれるときは一旦グッとこらえてみて頂けたらと思います。
これに類することは、もう10年以上も前に、サルまんの中で仰ってますよね、たけくまさんは(もちろん、冗談交じりにですが)。
みんなもさ、竹熊さんがニュー速さんを締出そうとしているわけじゃないんだからさ、そんなに排他的になるなよ。
ニュー速さんにはソープランドも糾弾してもらいたいな。売春禁止なのにへんじゃん。おかしいよ、この世の中。
たけくまさんとしては散々論じてきた模倣の歴史が世間ではあまり認識されていない(様 に、一連の反応から感じられてしまう)から、これを気にもう一度主張しよう という事ではないのでしょうか?
いいですか、サンプリングで曲を構成するというのは、つまりは自分では演奏をしないでひとの演奏をそのまま流用しているわけです。
例えばキドニーパイをつくったとします。あれはけっこうてまがかかる料理です。つまみぐいする側にすれば、破片のそのまた一部をいただく以上のことではないのだから文句いわれる筋合いではないと考えるとしても、作る側にすればあれこれ手間がかかっていることにかわりはないわけです。
すると理論的にはこういうことも考えられます。例えばビートルズの曲をサンプリングして一曲こしらえてしまうとして、その際にはCDとかで出回っている本人たちの演奏のものではなく自分でバンドをくんで演奏したものからサンプリングするとか。
こういうケースが過去にあったのかどうかは知りません。でも、この手でしかも原曲が特定できないほど細かなサンプリングがなされたとすれば、これは法的に追求することは難しくなるはずです。
だって、これはイエスタディとかレットイットビーら(の楽譜)をコード分析して、それをランダムに並べて新たに演奏するのと実質的になにもかわらないのだから。
でわたし思うのですけど、絵画とかは知らないけどまんがにおけるポーズとか構図というものは音楽でいうコードにあたるものなのでないかなー。
同じコードに同じメロディをのっけたらこれはもう大騒ぎになるのでしょうけど、そこまで極端な例はじっさいにはやたらおきることではないと思うのですが。
あくまで個人の感想だし、法と照らし合わせれば、また別なのでしょうが、やっぱり顔や衣服だけ代えて、角度や位置、空間の取り方は全部一致するなら、単なる手抜きしてるよなー、悪意はなくても故意的だよなーと思ってしまうのです。
>ニュー速+住人さんは理路整然と論じているでしょう?主張にも筋は通っています。悪い点をあげるとするならば名前くらいです
ニュー速+住人なる人の論も穴だらけで、とても理路整然としているとはオレには思えないけれど、そこを突っ込んでも仕方ないのよね。
ニュー速+住人はさ、そこんとこが分かってないで一人で延々と長文をアップしているからウザイと思われているわけでさ。
それでも興味を示している一部の人はいるわけだから、それなら他の人の迷惑にならない別の場所でやってくれって言ってるわけ。
でも今論じられてるのは書き手側から解釈しかなくて、読み手がそれを見た印象は省かれているような気がします。
法的な角度で見ると何ら問題はないのかも知れませんが、買う側からすると作者のこの行為はあまりにも残酷な裏切りに見えてしまいます。
これで思い出しましたが昔、夢枕獏先生が超プロレス主義という雑誌の中のインタビューで同じようなことをいってました。
夢枕先生は、過去いろんな漫画に自分の作品のネタを漫画にパクられた(特に某格闘漫画おそらく○羅の○のこと)と書きながらも。
漫画にぱくられるのは、漫画というライバルに認められることであり。逆に自分にとっては本望だ。といっていました。
その上で、パクる側の礼儀として自分のプラスアルファを入れることそれがないのは礼儀に欠ける。ともいっていました。
ちなみに今回の講談社の対応をみて、平田広史先生の日本壮絶史の堺事件のことを思い出してしまったのは私だけでしょうか?
「本来処罰は、井上先生の訴えあってこそ行われるべきもの。井上先生の訴えなくしてなお行うはいかな仔細か承りたし!!(W 」
それは作品に宿る魂のような神秘的なものではなく、単に読者に新鮮さという印象を与える一つの効果に過ぎない、と。
また、ポーはこの作品の中でインスピレーションという神話を解体し、創作の過程を意識化すること試みています。
たけくまさんも『サルまん』で創作の過程を意識化(マンガ化)しようと試みた方ですが、「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在」せず「あらゆる創作は、模倣の土台の上に成立している」と述べられているにも関わらず、「オリジナル」と「盗作・剽窃」の違いを独創性に求めてるのは、たけくまさんの中にまだどこかで独創性の神話を信じている部分があるのではないかと思いました(オリジナルの根拠を独創性に求めるのはトートロジーではないでしょうか)。
他の友人からの指摘で気が付いたのですが、フォトショップで確認したところ、完全にボディーラインが一致する「トレース」だったため出版社に抗議、その後作者がトレースを認め、謝罪文の掲載と作家の連載停止で幕をおろしました。
個人的な感じ方はいろいろあると思われますが、私も単なる「資料を横に置いて真似た」ぐらいの行為だったら何も言わなかったでしょう。それは私も資料を見ながらよくやりますから(W.
ただ、下敷きに絵をトレースされたらたまりません。それはわたしの労力を簡単にしかも完全に奪われることですから。
漫画は模倣です。ですが、その模倣は「最低でも自分の頭で一度噛み砕いた模倣」であって欲しいと思います。
このようにネットなどで明らかなトレースに関しての情報が出回ることは、むしろ悪いことだとは思いません。最近安易な似たもの路線が増える中、最低限のラインは守るいい戒めになればと思います。
ニュー速+住人氏は議論の為の議論を延々とふっかけてるようにしか見えない。それに興味を持つ・持たないは見る側の自由。それ以前に人様のスペースでやるな。
ゴミだのカビだの、自分以外の人間が馬鹿に見えて仕方がないのだろうが、非常に不愉快でまともに読む気にもならない。どうかご自分のblogなり2chなりで続けて下さい。
いいですか、例えば私がミスチルの楽譜を手に入れてコードは同じメロディも同じ(キーは変えてもいいかな)のまま歌って先方にあいさつもなしにCDを売ったらカヴァーとはいいません。著作権侵害とよびます。
そしてこれが一件だけならば、まだ雑誌での謝罪、コミックの書き直しというレベルで済ませられたことですが
(過去に問題になった上田氏の場合は本人への謝罪。電車男の際はコミックでの書き直しで手打ちになっています)
音楽でも例えばさだまさしは自分のアルバム内に過去の名曲のフレーズが引用されている場合、必ずライナーに「○○を使わせていただいた」と注釈をいれ、そしてその理由(どうしてつかったのか)を明記しています。もちろん、著作者には許可を得ている。
もし、本当に先人に対する敬意があるなら、包み隠さず、きちんと最初から説明する方が楽であり、案外元になったクリエイターも喜ぶのではないかと。手塚治虫が藤子不二男をかわいがったように。
>>例えば私がミスチルの楽譜を手に入れてコードは同じメロディも同じ(キーは変えてもいいかな)のまま歌って
末次さんというマンガ家が、過去にも似たような剽窃を行っており、いわゆる「トレース常習者」だったということは、ネットにもアップされているさまざまな事例から考えても、本当みたいですね。
ですから、末次さんがこのことで「罰」を与えられることには、僕も異論はないのです。しかしそれは、私見では「厳重注意」と「問題箇所の修正」をすれば済む話で、今回は罰として明らかに重すぎるのではないかと思う。
なんというか、万引き犯に死刑宣告をするかのような、バランスの悪さを感じるのです。もちろん万引きは犯罪ですが、いかに常習とはいえ、それで死刑というのは、あまりにも罪が重すぎるのではないでしょうか。
僕が一連のエントリで書いている要点は、末次氏の行為を擁護するのではなく、講談社の対応がいかにも場当たり的で、「罰」の与え方としては、一番まずいやり方をしてしまったのではないかということです。
つまり今回の末次氏のケース程度(あえて程度と書きますが)であるなら、似たような事例は他にもあり、そうした事例に対しても今後同様な対応をするのかどうか、そこが見えないということです。ちょっとこのへん煮え切らない書き方になって申し訳ないのですが。
末次さん以外にも似たような例はあるわけです。今後、そのようなことがないように気をつけると言っても、現在流通しているいろんな作家さんの旧作にも、探せばトレースや模写の例はたくさんあるのであって、そうしたものまで、その会社では「全作品の絶版回収」をするのかどうかということです。
10年前、20年前に描かれた作品であっても、新刊として流通している以上、時効は成立しないと思われます。その場合も対応策は「絶版回収」しかないわけで、そうなったら講談社的にも、相当に困ったことになるのではないでしょうか。
今回の騒ぎで2ちゃんねるにも多数のスレッドが立ち、いわゆる「検証サイト」のようなものも、たくさん出てきていますので、それらをご覧になれば、私の言う「他の事例」はおわかりになるかと思います。
ひとつだけ、例を挙げてもいいかなと思うのは、その中には今回の「被害者」であるはずの井上氏の「スラムダンク」にも、マイケル・ジョーダンの試合写真などからの「盗用疑惑」が出てきているようです。
私は、具体的な事例をネット上で何点か見ましたが、それがトレースであったかはともかく、あきらかに何点かのカットは、特定の写真をもとに描かれたことに間違いないと思いました。
しかし読者としての私は、そのことで井上氏を責める気にはなれないのです。トレースや模写があろうがあるまいが、スラダンは名作だと思いますし、井上氏に漫画家としての才能がないとは思いません。あえていうならば、井上氏はそうした資料写真を、見事に表現として使いこなしている。
ですが、そのことと、今回の末次氏のケースの間に、本質的な行為の違いがあるとも思えないわけです。要するに、どちらもトレースないしは模写を作画表現のベースにしているという意味では、同じです。
唯一、違いが出てくるとすれば、井上氏のケースが写真の著作権者の使用許可を得ている可能性ですが、手元にある「スラムダンク」を見ても、許諾を得ている記述はないようです。
そういうわけで、今回「被害者」であるはずの井上氏にすら、そういう「疑惑」が成立してしまうということが、私の感じているこの問題の根深さなわけです。
これは、問題が発覚したから絶版回収、というような場当たり的な処罰をするだけではとうてい解決できない構造問題なのだということを、ご理解いただければと思います。
あと、これは本文には書きませんでしたが、長谷先生もコメントで書かれた「編集者・出版社サイドの責任問題」もあります。
末次さんのパクリが常習的であり、ぱくられた側(上田氏)などから再三抗議を受けていたにもかかわらず、「スラダン」の件が起きるまで、編集部が放置していたように感じられることも、気になるわけです。もし編集側も知っていて放置していたのだとしたら、ある意味同罪であるし、知らなかったなら、あまりにも怠慢であったというべきでしょう。
今回の事件で、担当編集者や編集長はそれなりの「罰」を受けたのでしょうか。受けたのかもしれませんが、報道がなされてませんので、ここも「バランスが悪いな」と僕が感じる理由のひとつでもあります。
Aaさんて、いろんなカテゴリの話題で、断定的な物言いが多いですよねぇー・・・。当該事情にそれほど詳しいのかしら?だとしたら一体どういう業界の方なの?と勘ぐってしまうほど広範かつ詳細な知識をお持ちかと思いきや、そうでもないようで。更に詳しい方にたしなめられる場面も多々あったかと思いますが、そういう時は真正面から応じないようにしてらっしゃる?(笑)。上の方もおっしゃっていますが、見苦しいですよ。ほどほどになされては?
”スラダン”ですらそうなんですね。今回、創作とかオリジナルとか読者としての読み方とか編集とはとかいろいろ今も唸りながら現況を見つめてる感じです。あと竹熊さん、以前持ちかけた相談の件少しずつですが自分なりに今解決の糸口見つけ始めていますので・・すみませんでした、そしてありがとうございました。
いやこちらこそありがとうございました。音楽方面は疎いもので、つい感心しながら読むだけでレスをつけず失礼しました。これからもよろしくお願いします。
話がそれてきているようですが、漫画と音楽は全く別物なので、音楽で当てはまる判例・倫理観が全く当てはまるとは限らないことを考えた方がいいのではないでしょうか?
竹熊さんがおっしゃるように、「そこにオリジナリティ(独創性)があるかどうか」で盗作かどうか決定されるというのは同意見ですが、ふと少し自分の考えに対しても疑問に感じました。
今回竹熊さんは漫画において「物語」に対しての独創性から、多くの盗用とも受け取れる多くの漫画はセーフであろう。
しかし、いやこの事件や盗用に対しては違法・ダメだ!という方は「画像」という点を重視しているのではないのでしょうか?
なぜなら、盗まれた!というのは「オリジナルを書いた人」が始めて盗った方(模写した方)を訴えて成立する事だと思います。
それ以外では、竹熊さんが述べているA〜Cのどの場合においても、オリジナルを書いた人が黙認、ないし許容した場合は違法ではないという考えから来ます。
以上のことからして、この事件に対しては、オリジナルの方のスラムダンクの漫画家さん(以後「オリジナルさん」)がどのように感じているかによって全く白と黒が分かれます。
もし、オリジナルさんが「この絵はやりすぎだ」と思って講談社さんに訴えない代わりに絶版・連載中止を求めて今回のような措置をとったのならば非常に適切な措置だといえます。
しかし、オリジナルさんが何の見解もなしに・また講談社側がオリジナルさんの意見を聞かずに今回の措置をとったのならばやりすぎた行為だと私は感じます。
竹熊さんは「厳重注意と問題箇所の修正が妥当」とおっしゃられましたが、この問題箇所の特定というのは一般的にどのように行われるものなのでしょうか。
例えば、著作権者が「これこれは私に権利がある」と特定して主張したものならそこを直せばいいんだろうなとなんとなく想像できます。
しかし今回のような、はっきり言えば「本当にパクリはこれだけ?」というような疑問がつきまとう場合はどうでしょうか。
あの、すみません、「いくら修正したって誰ももう信じない、無駄だから絶版にしろ」ということが言いたいのではないのです。私だったら、一度信頼を失った作品がどういう状態ならその修正版を受け入れるかなと自分に問いかけてみても、答えが見つからなかったのです。
問題があるのなら問題がある本だけに対処すれば良いけで、それなのに全部を回収してなおかつ絶版。たしかにこれはあまりにも酷いと思います。
ただ、あくまでも憶測ですが、盗用、もしくは盗用の疑いが、ひとコマでも各本の全てにあったとしたなら、この処置は妥当かも知れないないと、漠然と思いました。
報道と講談社さんの発表でしか、この件の中身は見えてませんが、もしかしたら水面下ではもっと多くの原因があったのかもしれない。
あくまで個人的感想ですが、その昔浅田弘幸や田島昭宇が上條士をあからさまにパクっていても、上條に対する愛情が感じられたので気にならなかった。
チミが面白くても、ソフィスト張りのピンのずれた稚拙な論理で人をコケにしているのが読みづらいし、それに反応する人も居て迷惑なのよ。
末次氏はただトレース(区別のつかないレベルの模写でも可)を「自分の作品だ」と誇りを持って言えるのでしょうか。
虚心に帰った本心で「これが私の作品だ」といえるのであれば、そこにオリジナリティがあるのでしょう。第三者にはわからなくても。
指摘されたらうろたえまくり、言い訳しまくりで責任転嫁。それこそが(「誰でもやっている」というレベルを超えた)盗作の何よりの証拠でしょう。
そういうことだったのでしょうね(「厳重注意」と「問題箇所の訂正」で済ませるという事は、後の問題は編集部で責任を負う、ということですから)。
「作者がパクリを認めてしまったから」「パクリ箇所があまりにも多くて(おそらく検証サイトで上げられている部分以外にもたくさんあったのでしょう)、
上から物を見てのらりくらりと論ずるのは、ここでのあなたのポリシーなのかもしれませんが、そろそろ話をすすめてくださいませんか。
「ミーニングオブライフ」「ホーリーグレイル」なんかはオイラも好きだ。ギャグのスタンスが好き。多分にブラックだが。
「傷追い人」でニューヨークの廃ビルの風景を、立木義浩さんの「マイ・アメリカ」の写真をそのまま使って訴訟に至ったはずです。私は池上さんも好きですが「マイ・アメリカ」も好きだったので、これは強烈に覚えています。また、男組にはビートルズの映画のシーン(ヘルプなど。資料が出てくればアップしますが二、三日かかるかも)をそのまんまなぞったものが何カ所か出てきます。パクリと言えば、パクリと言えるものです。これほど大物の現役のトレーサーの手法についてはどうなんでしょう。
私は池上先生によってトレースされた絵は、池上絵に「消化・昇華」されていると個人的には思うので、私見として不快ではありません。
なにより漫画界で本当に一番不快だったのは、木城ゆきと氏が銃夢でHRギーガーの生み出した悪夢の風景を、「拝借」したことでした。
著作権で訴えられて裁判に至ったものって、ホントにケースバイケースで判断されてるんですけど、何がそれじゃいけないのかよくわからんです。「司法の場ではケースバイケースで判断されている」ってことですよ。
出版社の対応は「ケース・バイ・ケース」で捉えられてないようですよね。一律にするはずだ、またそうでなければならない、今回の処分は前例になる、という展開になってますよね。
マンガ大量消費時代になって久しいですが、他分野の消費活動とは決定的な差があると個人的には思いますので、
ステハンの人はいろいろ論じたいことがあるようですが、その前提としてまず自分を絶対的な高みに置きたいようなので、
元の記事が駄目駄目なんだから、そこに群がるのもその程度の人たちなんだかし、いくらやったって意味無いのに ニュー速+住人さんご苦労様です。この記事書いた人が権威あるから書かざるを得ないといった所ですかな?
>マンガ大量消費時代になって久しいですが、他分野の消費活動とは決定的な差があると個人的には思いますので、(そしてそう思っている人は他にも多いと思いますので)
追記2:先日、タイに行って来ました。つい この前まで王立だったこの国の観光地にてヤオイ雑誌を片手に観光する女の子やら 路上で座り込んで現地の子供がマフマフと「かっとび一斗」を熟読する姿に うむむ・・・・と思いました。
ケースバイケースについてたけくまさんの言葉は「これはどの法律の専門家に尋ねても、おそらく同じような答えになるのではないでしょうか。」となっています。
・法律が作られるときに国会で審議し、質問への回答によっておおよその方向や性格、考えられる事例が示され、法律施行後は審議の内容が重視される
えー、ついでに言えば、以前も書きましたが、社会の上に法律があるので、法律を拡大解釈し、社会生活に悪影響を与えるような運用はされないことが前提となっています。
出版社の対応がケースバイケースではなく、これが前例になってしまうかも、という危惧は、これが前例の無い厳しい措置であり、そういう措置を取った経緯がわからないので、そういうふうに先回りして考えざるを得ないってことなんでしょうね。
出版社が、今後こんなことが起きたとき、どんな対応をしていくのかってことは、残念ながら、出版社の勝手なんでしょうねえ。
著作権法違反とか契約違反とか労働協約違反とかいった法に触れない部分であれば、誰も文句は言えない…文句言えても影響を与えられない。
だからここで「出版社、変じゃないの」「出版社がどういう理由と経緯でこんなふうにしたのかはっきりさせろい」と声を上げるのは今後の対応、ひいてはマンガなどの表現活動をしていくためのインフラ整備にはなりますわね。
・法律で具体的に○○はダメ、◎◎はダメ、と明文化すると●●が出てきたときに取りこぼしをして法律の抜け穴になる危険がある
経緯が明らかにならないのに出版社はやり過ぎであるとし、危惧をするのはなぜなのでしょうか。多くの人が、明らかでないまま予想で危惧しているように思います。妥当な予想だと思える根拠があるのでしょうか。前例がないということですので、私にはそこがどうも腑に落ちません。
情報が少なくて、「他の作家は大目に見ていたのにこの人だけ強い措置をとったのはネットをはじめとするパクリへの<社会的圧力>が強まったからではないか」と皆さんが想像しているからでしょう。
いろいろ調べてみたら「作家がもうやめるって言い出したんです」とかなるかもしれない。「編集者は2ちゃんなんかのことは気にしてませんよ」って言うかもしれない。まーなんともわからないんですけどね。
でも、あーかもしれない、こーかもしれない、って想像だけ逞しくして悲観的になるよりも出版社に<社会的圧力>で経緯を詳細にさせるのが、よさげな気がしてきましたよ。
結局、プラスアルファがあるかないかだから、漫画を読まないであるなしは判断できない。一コマだけみても、漫画としてどうなのかわからないし。もし、漫画として優れていた場合、出版社は、漫画文化をつぶした極悪出版社になる。必要以上の圧力をかけた2ちゃんとかも漫画文化破壊の国賊だな。
この考えは広い観方では〈この世のモノは、既にこの世に生じえているモノに依ってしか生じえない〉と解せる。
漫画の世界は模倣で成り立ってるというのはわかるし、テクニックなども他の漫画家から盗むのか通例の世界ですが(じゃなきゃ「お約束」は生まれないわけだし)、それでもほぼ丸写しは無いんじゃないかと思います。
ではもし裁判で争うことになった場合、トレースは絵を重ねてみれば簡単にトレースであることが立証できますよね。
ですが横において見て書いた場合は、それを立証することが非常に難しいと思われます。構図やコマ割りが似ていることは指摘できても、それが模写なのかどうか、立証することは難しいでしょう。
自分は以前のブログへのコメントで末次さんが「担当も知っていて見逃していた」という発言をされた為、講談社が自社に責任が回ってこないように厳しい処置(とりあえず見せしめ?)を取ったのではないか、という情報が気になっています。
このような作家を抱えている場合、今後どのような事態に発展するかわかりませんし、事実、彼女は「懲りていない」ことがわかります。(BBSに自作自演の擁護書き込みを行うなど)
そして、編集の責任に関しては絶版という厳しい措置が行われた以上、担当者には処分が下されているはずです。もちろん、社内の人事なので外部に説明する必要はありませんが。
私の記憶が確かならば一回目は作家への謝罪、2回目はおわびコメント掲載と単行本での修正でしたから・・・
過去に何回もやっていてなおかつパクリ元から苦情を言われたことがありつつそれでも創作の姿勢を正さなかったのですから、もう厳しい対処をされても仕方のないことなのではないかと思います。
絵を描くこと(もちろん漫画家はそれが主体ではありませんが)を生業にしている以上、他人のふんどしで相撲を取ったように受けとめられる行為は色々な方面に対する裏切りです。
ついでに「担当者も知っていた」というのは言い訳にもならないです。その担当者のあり方は置いておくとして、いい年こいた社会人が「でも上司が万引き許可してくれた」と言っているようなものだと思いますよ。
確かに連載中止は出版社側にも厳しく、読者に対する「最大の裏切り」をしたのと同じであり、作者は猛省を促されることになったと思います。
「たかが万引き」と思える思想は危険です。どんな小さな犯罪も「やったかやらないか」で180度違うものなのです。
そして「たかがトレースぐらいで」作家生命を絶たれるような重大事に発展することを自覚するのもプロだと思います。
今回問題になったのは「他人の絵をまんまトレースした」ことが原因です。つまり、それをしなければほぼ大丈夫。
ただ、資料写真を「そのまま」使うのは危険です。以前に「沈黙の艦隊」のかわぐちかいじ氏が他人の写真集の模写として写真家から抗議を受け謝罪したこともあります。
ですので、資料を見た際、まずそれを落書きなので立体把握し、きちんと自分の頭で絵に描ける状態にしてから原稿に書いてみてはいがでしょうか。空間把握能力の勉強にもなりますし、以後の応用も利きます。
単純トレースが絵描きにとって悪い点は「技術力の向上にならない」点です。つい忙しいとそういうことをしたくなる誘惑もわかりますが、まず自分の頭で描くクセをつけたほうがいいかと。資料と言うのはそのための補助素材です。
上記の文庫本に「(芸術的)独創≒真似に飽きるコトから生じるモノ」という自分なりの規定が書き込んであった。
(”金色”の表現をオリジナルで考えても、そうアイデアは出ないでしょうが「聖闘士 星矢」の聖衣を思い浮かべると書ける様になる等)
になってしまった後にしたために事件になったんでしょうけど、それでも「模写」が宿命付けられた職業としてはある程度の容認とボーダーライン確定、出版社同士の横の繋がりをつけるべきでしょう。
シェイクスピアには十行以上まんま剽窃した箇所がありましたよね。読んで一目で真っ黒丸分かりなのですが、古今彼の評価はゆるぎない。
個人的意見は武熊さんの意見とほぼ一緒だから重ねて言う気は無いが、私は貴方たちがしている議論を素直に読む気にはなれない。
絵を下に置いてライトボックスで照らし、元の線の2ミリ、あるいは1センチ横をなぞったら模写でしょう。トレースせずに、見ながら書いているわけですから。
また、トレースであっても、線の意味を頭の中で再構成するのは模写といっしょです。ポーズの概形を写す過程でも、服を変える過程でも、僅かなりの解釈は加えられるのです。
あと、CLAMPさんの言う「トレースは×」は、事件の内容から考えて、キャラの顔などの複製を目的とした行為を指しているのではないかと。
たけくまさんの意見は衛星写真のように感じますね。惑星(問題)の周りをまわって状況写真をとって分析するような感じです。今回に限っては納得しかねるようなお言葉の連続でした。
本当に注目されるべき意見は実際に被害をうけて盗作された側の作家の感想、意見。無論過去に被害を受けてきた作家連など。
それをフォーカスすれば盗作(丸うつし)という行為がどういう感情・打撃を与えるかが分かり、盗作という行為の重大性が浮き彫りになる。今のままでは若い子達がやたら深く追求せずに注目を浴びる人たちの意見を取り入れて納得し、
という被害者感情を無視した意見を出すばかりだと思う。なんでトレース定義なんて論議してるんだか。自己意見の主張になってるようにみえます。
そんなことを言い出したら収拾つかなくなるし、なぜ当該側でない貴方が、そう執拗に被害者を強調するのですか?
発端の問題と現在の問題は地続きなれどもう、別の問題じゃないかと思います。混ぜちゃだめだと思いますよ。
以前、唐沢なをき先生に絵を模写されたことがありますが(ガラダマ天国の統一協会ネタだっけ?)、むしろ嬉しかった記憶があります。で、トレスと模写は明らかに違うと思いますねぇ。
ただ、同じと思ってもらう努力がいるわけで、モチーフがどうであれ著作者人格権(同一性保持権)の侵害に触れる微妙な問題であるかと…ただまぁ作家なら作品とかネタでかえすべきだなーとはおもいますね。それで向上していけばいいかとおもいます。乱文失礼しました。偉そうですみませんです、はい。
一応、業界の人間のなのだから、スラムダンクがトレースの連続だったということを、今の今まで知らなかったなんてことはないですよね>竹熊さん
しっかし、漫画評論もどきの仕事やってる奴等は、なんで井上擁護したがるの鐘。あんな読者なめきった手抜き漫画読んでて面白かったか?
馬鹿な私の考えとしてはコピーする技術(技能ではありません)がある限り表層上での類似性には決着はつかないと思います。トレースが出来るのはトレスコ(まあ、実際はコピー機を使ってトレースダウンでしょうか…)があるからです。
模倣を行う手段がある限りいかなるものも模倣(盗用)の対象となり得るでしょう。そして、それは人体を使ったもの(昔なら、実際の絵を見て模写する)からアナログ(レコードやテープからの耳コピ)、デジタル(データにさえなっていれば全く手を加えること無く持ってゆける)へと非常に広範囲で、お手軽になってしまいました。
結局、模倣(盗用)は人間が作った「便利さ、お手軽さ」の道具がある限り続くものであり、その楽さ加減が、人を不愉快にする様な気がします。
例えば、寸分違わず(機械を使わず)模写をしたとしても「あ?これはトレースしているんだな」と思われれば(たとえ事実と違っても)「黒」になるのではないでしょうか(別に今回の事例や他の漫画家さん達がどうのこうのではないですよ)?
実際の行為ではなく、そのやり方を「知っている(お手軽に出来る)」からこその不快感と言う部分がある様な気がします。
そして、今回の色々ないきさつも結局、インターネットという技術と画像合成による検証という技術によって糾弾されてしまった様な気がします(まあ、ご本人にも問題があるとは思いますが)。
今後、至る所で同じ様な検証が魔女狩りのごとく始まることでしょう。技術が進んだが故に、気楽に楽しめない(ないしは「あえて許す、見逃す気持ち」が許されない)世の中になったとしたら、文化的には退化の様な気がします。
まあ、ここで意見(と呼べるものと言えないかもしれませんが…)が言えるのも技術あってのことですし、私の仕事もこれらの技術を利用して行っているので偉そうなことは言えないのですが、なんだか最近は非常に色々なことが堅苦しいように思います。
最後は技術と権利のバランスをどこに求めるかと言う何らかの社会的同意をいつ、どのような形で作り上げられるかと言うことにかかっているのかなぁと感じました。
公表する=パクられる可能性は高い。それは優れた作品であるゆえの宿命だと、逆に誇りに持てるくらい、許容してもらえると嬉しいんだけど。
>法解釈的には「模写」も「トレース」も同じことだからです。これは別に俺個人の意見ではなく、著作権に詳しい弁護士さんなどに聞いても、ほぼ同じ答えが返ってくると思います
金持ってる奴にとって、ハリウッドの模造品は取り締まり対象であり、日中韓のコピー製品は大切な持ち株の価値を上げる歓迎されるべき物です。
宇多田のPVとか歌詞・曲とか殆ど全部アメリカの歌手のパクリですが、それでも金持ってる奴の利益になればお咎め無しな訳です。
実際の写真のバスケと井上ワールドは違うからいいだろうと私は思いますよ。無意識的に金持ち連中のバラ撒いている価値観に踊らされないようにしましょう。
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[ 112] asahi.com:模倣、どこまで許される ドラえもん「最終話」 - 文化一般 - 文化・芸能
[引用サイト]  http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200706090089.html

人気漫画「ドラえもん」の「最終話」と称する物語が無断で漫画化、出版された一件は「作者」の男性が小学館と藤子プロに謝罪し同プロに売上金の一部を支払うことで決着をみたが、課題も投げかけた。模倣やオマージュ作品がどこまで許されるか、という点だ。
「最終話」は約1万3000部も販売したことで著作権者側が見過ごせない「一線」を越える結果になったが、一方で、本物と間違いかねないほどの出来ばえでも「一線」を越えていた。
読んだ人の中には、原作品への敬意や愛を感じた人も少なくなかったようだ。プロの漫画家からも「絵だけではなく、テーマや展開も藤子・F・不二雄さんの思想を受け継いでいる」という声が出ているほど。もし出来が悪ければこれほど売れることもなかったかもしれない。
好きな漫画作品をそっくりに描いてみたい気持ちは誰にでもある。ましてや藤子さんが亡くなったことで未完のままの「ドラえもん」の結末を自分の手で、と思う人が出てきても不思議ではない。
とはいえ、売るとなると次元が違ってくる。また、今回の「最終話」はコピーされ、ネット上で自由に見られる状態になっていた。小学館の大亀(だいき)哲郎知的財産管理課長は「この点も見過ごせなかった」と話す。その結果、藤子プロと小学館の対応は著作権を盾にした厳しいものとなった。
だが、今回の対応は例外的というニュアンスも小学館側には感じられる。漫画をめぐっては作者や出版社はこれまで少部数の同人誌レベルでのこうした表現は大目に見てきた。新しい才能は模倣を入り口にして生まれてくるものだが、その芽を摘まないようにという思いもあるようだ。
藤子プロの伊藤善章社長に「もし『最終話』がこれほど多く売られていなかったら?」と問うと、「う〜ん、難しいですねえ」という答えが返ってきた。
漫画評論家の村上知彦さんは「今回は、改変作品を売ることの問題意識が描いた側に欠落していた」と指摘する。一方で、著作権者側と非を認めた男性との話し合いで決着をみたことについて「こういう話し合いを積み重ねて、お互いの共通理解をつくっていくのがいい」とも話す。
今回の騒動は、「最終話」を読んでみたいという読者の願望の強さをあぶり出す形にもなった。村上さんは言う。「今後、読者の願望にこたえる形で著作権者側が自らこうした企画を実現していく可能性もある。一方で、描きたい人のために作品を公募するのも一つの方法ではないか」
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