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[ 634] いちヘルパーの小規模な日常
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/

高橋りりすさんの中では「アメリカの大学でセクハラを受けたことのトラウマ」と「日本でフェミニズム系の支援団体から受けた傷のトラウマ」という二重のトラウマが絡みあっている。
実際に被害者に関わる場合、「中立」は無い。たとえばその人の事件の記憶や証言が事実か虚偽か、ということ「だけ」ではなく、そもそもその人の痛みを(記憶の混乱や虚偽をふくめて)信じるか信じないか。それがまず大事になる。
しかし、ある種の場合は、早急にサバイバーの「味方」を標榜することの危うさも、ありそうに思う。たとえばamazonの評価「フェミニズムの落とし穴。あるいは善意という名の抑圧」がそう。この本を「ほら、やっぱり、フェミニストどもはサバイバー当事者を排除するじゃないか!」という「フェミニズム批判」の道具にするのは、全く最低だと思います。しかし、こういう表面的な話はどうでもよく、暴力の問題は更に深いのだけれども…。
反性暴力運動への内在的な批判としては、マツウラマムコさんの「「二次被害」は終わらない――「支援者」による被害者への暴力」等も有名だと思うけど、未読。一介のケア労働者として、高橋さんやマツウラさんの「当事者による支援者批判」には深く耳を傾ける必要がある。その上でぼくは、その先に生じる暴力のねじれをもう少し考えてみたいのだけれども。
赤木智弘さんや白井勝美さんなどの経済弱者系の当事者本を読んでいると、女性に対する物の見方にぎょっとさせられることがある。バックラッシュというのですらないような、不気味なほどの保守的な女性観。労働運動や反貧困運動をしている人からも、あまり表立っては批判されないようだ。ぼくにとっては、経済的な貧困の話と性の話は、切り離せないものなので、素朴に不思議に思う。もっとも新左翼にせよ青い芝にせよ、男性の左翼運動の歴史は性暴力の歴史なのかもしれないが……(この辺は『フリーター論争2.0』の4章などでかなりソリッドな議論がされています)。女性の権利運動・リブ・フェミの歴史の蓄積があり、一般の男性には広まらなかったとは言えメンズリブや男性学、あるいはクィアなどの歴史もあるのに。そういう問題を考える余裕がないから経済弱者なのだ、動物的生=性を送らざるをえないのだ、ということなのかもしれないけど、いくらなんでもどうなんだろうなあ、と考え込んでしまう。
《当事者は「自分の身に起きた不幸」を晒す。その不幸は、本当に不幸である。だからこそ、不幸がパワーになる。逆に、幸福になることは、パワーを手放すことになる。つまり不幸を手放すことは、せっかく当事者として生きていく道を掴んだのに、それを捨てることである。
上山さんの指摘する、ひきこもり当事者の長いキャリアが持つインパクトの、相反する2側面と重なる問題である。上山さんの長いひきこもりは不幸である。しかし、その不幸ゆえに上山さんはパワーを持つ。だが、上記の構造により、上山さんは引き裂かれる。すなわち、上山さんを上山さんたらしめているのは引きこもりキャリアであるが、そのキャリアこそが上山さんを苦しめているのだ。楽になるためには、生活を捨てることしかない。》
《確かに、「被害者っぽく振舞うこと」は自制できるかもしれない。場合によっては、私もその主張に賛同する。自制を志すことは、悪いことではない。しかし、「被害者と名乗ること」という、一線を越えること――つまり「私はあなたたちと違います」と宣言してしまうこと――をする人たちを突き動かす熱情は、自制を超えうる。》
当事者の自己矛盾。それは、その当事者性(たとえば引きこもりであること、性暴力の被害者であること)こそが「不幸」の源泉であると同時に、独特の「パワー」の源泉でもある、という二重性の中にある。当事者の人生は、この矛盾に「引き裂かれ」ざるをえない。
ある種の当事者が自分で自分にかける「呪い」とは、「自分は当事者だ」という強い意識と、「自分は当事者ではない」という強い否認、それらの矛盾と葛藤から(も)生れるのではないか。そういう気がしている。
一方で「自分は当事者だ」「当事者の立場から現実の不正を批判しなければ」と強く自分を説得しながら、しかしどこかで、「自分は当事者を名乗ってはならない」「いや当事者でなんかありたくない」と強く自己否定してもいる。しかも、自分ではその自己矛盾に――半ばまでは気付きながら――気付けないのである。いや正確に言うと、無意識では気付いているからこそ、その「気付けなさ」の盲目性が凄まじく深いのである。
そしてその人の《当事者性》は、むしろ、周りの他人への批判・違和・波紋として、ジグザグに示されていく。たとえばある第三者的な人が「人間は平等だ、あとは自己責任だ」と主張すれば、当事者の立場からそれを批判する。また「当事者だから何を言っても赦される」と自分以外の当事者が主張すれば、その自己絶対化をも強烈に批判する。――このような消極的な形で。これは確かに矛盾である。しかも本人の無意識に食い込んだ矛盾。ぼくはそこから「熱情」というより、何か「暗い熱情」という印象を受ける。
そういう人――スメルジャコフやイッポリート、スヴィドリガイロフを思い出すけれど――は何と呼ばれるんだろう?
そういう人は、被害者とも加害者ともいえない。通常の善悪をどこか超えてしまっているのだ。その生き方は、凄い、としか言えない。しかし、その凄さの中で、周りの人間を疲弊させ、巻き込み、亡ぼしていく。しかし亡ぼすことで、何か本質的なことを考えさせ、奇妙に倫理的にしていく。ぼくはそういう人々の生に漲る言い難い魅力と嫌悪を、何と呼んでいいのか、そしてそれにどう対処していいのか、今もよくわからないままでいる。
《そして、その自制を超えた行為の結果は、やはり当事者に帰されるだろう。私は、彼らの行為の結果は、免罪されないと考える。しかし、その自制を超えうる熱情は、誰にも裁けない。そして、自制ができないことがありえる、ということも、はっきり書いておく。》
font-daさんの言い回しもまた両義性に満ちている。その上で、ぼくは経験的に、「誰にも裁けない」と述べるだけではスルーできない、とも思っている。確かに、それは、世の「正論」で批判できる水準にはない。しかし、それを仕方ないもの、周りの人間が受け容れるしかないもの、とも思えない。暴力の転移を批評することは、依然必要だと思う。具体的な関係性の継続の中で。それはすさまじくしんどいこと、数年どころか数十年がかりの関係になるかもしれないことでもあるのだけれど*1。もちろんそれは自分の側が批評され続けることでもある。批評を通して、相手の「暗い情熱」を根もとから変えられる、という可能性に賭けることだ。font-daさんも「自制を超えた行為の結果は、やはり当事者に帰されるだろう」と言っている。
このあたりは、font-daさんが支援者や介入者の暴力を警戒し、杉田は弱者暴力を警戒する、という力点の違いにも関わるかもしれない。しかしぼくは、依然として、ある種の「当事者」に対しては、敵対性のラインは引くべきだ、と思っている。なぜなら、ぼく自身が「加害をくわえながら被害者意識から逃れられないこと」を反復してきたし、今もある部分で反復し続けていると思うから。そしてそれは変えられる、変われる、と少しだけ信じていたいから(それは自分の中に一線を引くこと、でもある)。何十年かかるか、分からないけれど。繰り返すけど、裁けない、にはとどまれない、と思う。いや、とどまりたくない。当事者としての他者の裁けなさ(その人が自覚的に取り返した純粋被害者性)を認めつつ、しかし、なお介入的な批判を試み続ける。前にぼくはそれを《愛=暴力》と述べた。その危険性についても述べた。しかし、当事者批評とは、そもそも、そういう危ういものなのだとも思う。それはきっと、批評の力の源泉でもあるのだろう。それは正論合戦や、どちらが正義かを争う証明ゲームではない。泥で泥が浄化される瞬間に賭けるような試みでしかないだろう*2。
しかも、自分が「当事者」から降りたのか降りられていないのか、当事者性Aから降りたと思ったら当事者性Bの上に乗ってしまったのか、それすら自分でもよくわからないのだ。
この「呪い」は「時の経過が自然に回復する」とは、たぶん言えないものなのだ。たとえば、自分から実名を晒している人でいえば、赤木智弘さんや攝津正さんもまたそうなのかもしれない(赤木さんは社会的成功を通して変わりつつあるようにも見えるが、今後どうなるかは分からない)。
いったん自分を呪ってしまったなら、二度とは完全な形で解けない。そういうものだろう。しかし、『ハウルの動く城』の呪いのように、ある不思議な仕方で、自分の中に染み込ませていくことができるものかもしれない。きっとそのためには、当事者の理論をどんなに懸命に練り上げても、ダメなのだろう。矛盾は悪化するばかりで、回復はしない。そこに他者の力が差し込んでいなければ。正確には、外から差し込む他者の力に自分の力を重ねることを通して、自分を変えるのでなければ。
しかし、「一線を越え」てしまった人々は、その「他者の力」こそが、永久に感じ取れないのかもしれない。いや――どうなのだろう?もしそうならば、絶望的なんだろうか。わからない。だとすれば、批評もまた、永久に意味を持たないのは確かだと思われる。
*1:多くの人が言うように、ある種の人々は、言葉の説得や論駁では変わらないのかもしれない。物質的な生活条件が変わらなければ、何も動かないのかもしれない。ので、第三者や機関の公的な介入が必要となる。かつて信田さよ子『DVと虐待――「家族の暴力」に援助者ができること』は、DVや虐待の加害者をある種の「底付き」状態まで追い込むべきだ、と提唱した。しかし、「介入」には依然微妙さもある。そしてその微妙さは消えないで残り続ける。また、繰り返すが、「被害者」や「加害者」にも多層性や個別性がある。引きこもりやニートの場合、犯罪や性暴力の被害者と違って、「被害」と「加害」の境界線が曖昧である。また「当事者」と見なしうるかの境界線もときにひどく曖昧である(上山さんは今もひきこもり当事者なのか違うのか)。ここにまた別の難しさがある。しかし、これはおそらく「当事者問題の例外状況」ではない、とは思う。
何度も言うけど、「第三者」と「犯罪被害の当事者」は立場が違う。ぜんぜん違う。共同の情念と個人の感情の安易な一体化は避けるべきだ(さらに言えば、特に性犯罪被害などの場合、被害者とその家族の間にも深刻な違いが生まれる*1)。
だからたとえ、ある人(第三者)が今ここで「自分が家族を無意味に殺されたら、犯人を絶対に殺す」とはっきり宣言したとしても、それが本当かどうかはその時にならないとわからない。けれども、何年過ぎようが憎くて仕方ない、殺したい、と言い続ける遺族たちは現にいる。そして十分な機会(チャンス)さえ与えられれば、本当に殺しそうに思う。殺す、と言いながら、その場になれば殺せない人、殺さない人もいるだろう。でも、殺す人もいるだろう。事実、銃社会のアメリカなどではそういうケースがある。日本ではそういうケースが無いのは*2、加害者と被害者を取り巻く法的・社会的状況のために、物理的に復讐するチャンスがほとんどないからだ*3。
もちろん、死刑制度の是非云々というより、刑事司法のあり方/被害者とその遺族の回復支援/経済的支援などの、具体的な支援状況の改善と構築が何より大切ではあるだろう。事件の後の生活、「その後の生活」があるのだ。十分な支援が無い状態で、極端な「問い」だけが、よりによって被害者遺族にも投げつけられている。「被害者遺族と死刑制度を自動的に結びつけ、当人に死刑制度の是非を聞くこと」自体が、とても暴力的かもしれないのだ*4。時として被害者や遺族が望むのは、必ずしも死刑云々ではなく、あまりにも低い日本の量刑の改善なのである。
そしてぼく個人は、自らが手を汚す決意を伴う復讐の意味を、今のところ否定できない*6。「どんな生も生かされてよい」「殺してはならない」とは思えない。そう書いた。
「その人自身が被告人の隣人となるということまで含めて〔死刑制度に〕賛成してもらいたいと思う」。これに躊躇なく「イエス」と言い切るのは、やはりなかなか難しい。いや、ことが自分ひとりの話なら、まだ難しくはないかもしれない。けれども、家族や子どもの安全が脅かされるかもしれないとすれば――。
では永遠の隔離ならいいのか。しかしぼくには、正直、死刑と絶対的終身刑の違いは、よくわからない*7。死刑より終身刑の方が重い、残酷だ、という人もいる(犯人を憎むゆえに死刑ではなく終身刑を望む、という人もいる)。死刑があるからこそ真に反省できる、という人もいる。もちろん、死刑では人は死に、終身刑では死なない。その点で二つは絶対に違う。それはそうではある。でも、「こちら側」にいる人にとっては、それは殆ど「同じ」ではないか。だって、その人が変わる、社会の中で生きられるような人間になる、と基本的には信じていないんだから。絶対的な隔離とは、社会的には「死」である(障害者運動の脱入所施設の精神を、ぼくは思い出している)。ここでは、自分・家族・社会の「安全」「秩序」だけが問われているのではない。この立場からは、必要なのは「窓を設けること」ではなく「扉を設けること」ではないか。素朴に、そう思う。ならば、ここで賭けられているのは、隣人・他者に対するミニマムな信頼・信用なのだろう。「死刑廃止論者よ、今からでも遅くはない。出獄してきた凶悪殺人犯の隣に住んでみよ」「出獄した凶悪犯罪者の隣に住め」(小谷野敦、http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080427)という問いは、たぶん、そういう身近なところにまで伸びている。
今まで日本の死刑判決を左右してきたのは、最高裁判決のいわゆる「永山則夫基準」である。そこでは「犯罪の結果の重大性」と「矯正の可能性」が秤にかけられる。死刑は生命自体を奪い去る冷酷な刑であり、「やむを得ない場合」――重大な犯罪を犯し、かつ、人格的に矯正不可能な場合――のみ適用される、とされた*8。結果の重大性は主に被害者の人数で測られる。矯正の可能性は、年齢が大きく左右する。ちなみに少年司法の問題はここに(も)ある。
裁判の場では、死刑判決に際し被告の「生まれつきの人格」「更生不可能」が言われる。「絶対悪」がいるのかどうか。ここはわからない。本当に難しい。たとえば宅間守の弁護人だった戸谷茂樹は、死刑の判決文によくある「被告人は生来下劣であって」「生まれついて」などというフレーズを「許しがたい」「このヤロウって思います」と批判している。どうしてお前らにそんなことがわかるんだ、と。しかしその戸谷ですら、宅間の弁護の過程で、深く逡巡しながらも「……私はもともと、死刑を廃止すべきだと考えていました。でも今回のケースでは、あってもいいのかなという気がしないでもない。今はペンディングです」と答えるまでに自分を変えている。取材で戸谷の言葉を聞いた森達也は、その変化を「意外」に思い、驚く*9。
人は変わりうるのか。どんな人間でも本当に心から反省し、謝罪と贖罪を行い、罪を償えるのか(被害者・遺族に対して)。その上で、再びこの社会の中でやり直せるように変われるのか(社会・コミュニティに対して)。そしてぼくら(第三者)は、それらを深く信じられるかどうか。さらに自分ひとりの信念表明だけじゃなく、家族や身の回りの人々とも、そのことを議論し、納得し、分かち合えるかどうか。
正直、疑念はある。ぼくなりに、べつに「凶悪犯罪者」ではないけれども、他人に暴力を振るい続けて変わらない人、絶対に懲りない人、そういう人を見てきたから。またぼくの中にも、ある種の傾向があり続けているから。しかし――。
「どんな人にでも人権がある」と言っているのではない。その人が変わるとは、本当をいえば、「絶対に暴力に手を染めず絶対に誰のことも殺さない人になる」ことを必ずしも必要としないと思う。というか、そんな人はいない。またやるかもしれない。その偶有性を消さずに、でもミニマムに信じる。本当は、加害者でなくても同じなのだ。だって、ぼくやあなただって、いつか誰かを殺すかもしれないのだから。その可能性は消えない。何を言われても、あの人は嫌だ。怖い。犯罪をゆるせない。それらの感情は否定できないし、否定する必要もないと思う。だとしても、絶対的な社会的排除や隔離はしないでおく。国家の応報刑や被害者への贖罪は必要だけれども、その後は、可能性として「扉」を開けておく(被害者や当事者抜きの「矯正」「更正」ではダメだけれど)。「またやるに違いない(としか思えない)人」を、少なくとも、ただたんに「またやるかもしれない人」として、ミニマムに信用すること。相手が「変わろうとしている」ことを信じること。そこから、可能な限りの「隣人」の意味を考えてみたい。これはべつに非日常的な話ではないと思う。
ただし、これらを、一部の個人の覚悟やリスクの問題だけにするのも、おかしい。たとえば野宿者支援をする人に、「だったらお前らが野宿者に家を貸し生活費を与えろ」という悪意ある嘲笑が寄せられることがある。支援者の多くはすでに一定の労苦や贈与を避けていないのだから、第三者にとやかく言われる筋合いはない。その上で、問いを当事者・支援者だけの関係性に閉じるべきではない。社会的・公共的な領域に広げることだ*10。「出獄した凶悪犯罪者の隣に住め」というのも、言いっ放しにするだけで、たとえば公的な更正プログラムや加害者臨床などを拡大し増築することを考慮しないなら、たんに自己責任論(文句があるならお前らが勝手に責任を取れ)で相手を切って捨てて、共同体内部の「自分たち」の責任や義務だけは免罪することでしかない。
たとえば、新しく地域に障害者施設が建築されるとき、今でも少なからず地域住民の反対運動が起こる。不安だ。怖い。子どもに何かあったらどうするの。依然としてそれはある。これに対し、必要なのは「絶対に安全です、私達を信じて下さい」という断定ではない。統計データを示して「ほら、安全でしょ」と説得することでもない。それらは必要だけれども、それ「だけ」ではない。だって、摩擦や軋轢、トラブルや暴力が生じるかもしれないのだから。未来のは不確定だから。ならば、本当なら、トラブルは起こるし誰かが傷つくかもしれないけど、その上で、信頼を創っていくと約束します、としか言えないのだ――もちろん、よほど信頼関係が築かれた後でなければ、そんなことは言えないけど。
いや。他人が変わるだけではない。自分の中に、新しい感情や関係が懐胎され、産まれるのを信じることだ*11。本村洋さんの中に生じた微細な変化も、そういう「新しい感情」ではないか。逆に、戸谷さんの例もあった。そして、顕微鏡的に見つめればこれらは必ずしも「対立」していないのである。
ぼくはこれらの潜在的な可能性(「被害者への二者関係的な謝罪と贖罪」+「コミュニティへの更正とリハビリ」を行いうる人間に「変わる」こと)が、死刑制度の是非よりも――いっそ具体的な赦しや贖罪よりも――大切かもしれない、と思っている。*12
苦しみと葛藤を深め、生きることを深めること。その可能性を排除・隔離しないでおく。いわゆるリベラリズムは、人々の価値観や文化の多様さに対する「寛容」を主張しつつ、形式的な「残酷さ」だけは絶対的に排除してしまう*13。だから「非人間」だけは絶対的に排除される。これに対し、むしろ自他の中の「根源悪」の可能性=欲望を見つめていきたい。対立や敵対の可能性をどこかで残しておきたい。結局、ぼくはずいぶん人文的でナイーヴなことしか述べられていない。自分でも恥ずかしい。そしてそれはたぶん、思想としての寛容ですらなく、その前提にあるもの、荒唐無稽に見えて実はありふれた感覚に関わるだろう。
そんなの無理だ。多くの人はそう思う気はする。ぼくにもとうてい無理っぽい。逃げるし、避けるだろう。でも。でも。ぼくらが。変わりうるならば。自分を信じうるならば。
刑事司法や少年司法のシステムは、国・加害者という二者関係で構成され、国による加害者への刑罰(処分)の賦課が問題となる。これに対し、被害者は「事件の当事者」ではあるが、「刑事手続きの当事者」ではない、とされてきた。たとえば日本の刑事裁判では、被害者・遺族は、傍聴席で裁判を見守ることしか認められていなかった。刑事裁判は社会秩序維持を護るためにあり、被害者のためにあるのではなかった(最高裁判所1990年判決)。起訴するかどうか、裁判の期日をいつにするかは、被害者や遺族と関係なく決められる。都合なんて考慮されない。訴状も、冒頭陳述書も、論告要旨も、判決も被害者には送ってこない。被害者は、捜査や裁判に必要なときだけ呼びだされる。たとえば遺族が傍聴席にすら座れない場合、一般傍聴希望者と同じ抽選に回される場合すらあった。法廷で証拠として提出される物的証拠・調書・起訴状・弁論要旨・論告要旨・判決文などを、閲覧することもできなかった。
二〇〇〇年一月、犯罪被害者やその家族・遺族たちによって「全国犯罪被害者の会(あすの会)」が設立。同年、犯罪被害者保護二法が成立。被害者や遺族への優先傍聴が認められ、裁判中でも公判記録の閲覧・謄写が可能になった。2004年には犯罪被害者等基本法、2007年には改正刑事訴訟法が成立。これで、刑事裁判の手続きを利用して民事の損害賠償請求ができるようになった(今までは、刑事裁判とは全く別の手続きで民事裁判を起こさなければならなかった)。性犯罪などの被害者の場合、実名などの特定事項が法廷では表れないようになった。そして、被害者が刑事裁判にある部分で参加できるようになった。被害者や遺族は検察官の隣に座って被告人に質問したり、求刑の意見を述べることも可能になる(今までは被害者は、傍聴席で検察官の反対尋問を聞くことしかできなかった)。詳細はたとえば「あすの会」のHP(http://www.navs.jp/)参照。
ちなみに、修復的司法/正義というと、「凶悪犯罪者の加害者と被害者の関係の和解」や「応報的な刑事司法や少年司法に代わる代替司法として主張されている」というイメージが強いかもしれないが、本当はとても広い諸実践を包括する言葉である。刑事司法や少年司法に限られるものではない。虐待やDVなどの被害者支援の実践や運動はもちろん、学校内でのいじめや非行などを修復的に解決するためのアプローチを総称するものだ。またハワード・ゼアたちは、修復的正義とはものの見方(レンズ)のことであり、先住民コミュニティの知恵の継承という面を強調している。一九七〇年〜八〇年代の北米で開発された被害者と加害者の和解プログラム(VОRP)の実践などによって、修復的正義の思想や概念がある形まで練り上げられてきた。しかしその背後には様々な流れが複雑に合流し分岐し、一九八〇年代から大きな潮流となったのである。というのも、誤解の面が大きい。*14
一九九〇年代から被害者支援をとりまく社会的状況が大きく動いたことに比べると、日本の場合、(本当はそれに付随する可能性もあった)修復的正義の実践的展開は、まだまだささやかなものであるようだ。しかし被害者運動の潮流に詳しいFont-daさんは、《2007年6月までは、「あすの会」が法律知識と自民党とのパイプで、圧倒的に政局をリードしてきた。しかし、私が(特にアカデミズムの流れを)見るかぎり、これからは「被害者と司法を考える会」の主張する、修復的司法の導入へと政治情勢はシフトしていくだろう》と述べ、また《私は修復的司法について興味を持っている。しかし、この制度は非常に扱いが難しく、下手をすると「こころのケア」(←いい意味で言ってません)の一環と捉えられるため、導入には慎重に考えている》と述べている。
*7:よくある「(絶対的)終身刑」と「無期懲役」に関する誤解。しばしば、テレビなどでコメンテーターが「日本の無期懲役では一五年程度で仮釈放になる」「早ければ七、八年で社会に出てくる」等と言っているのを見聞きする。しかし、これはあくまで制度上のことであり、実際にはそんなに早く仮釈放される人は、ほとんどいない(『矯正統計年報』)。諸外国には終身刑があるが日本にはない、という意見もよく聞くが、多くの外国の終身刑には仮釈放がある(相対的終身刑)。その点では、日本の無期懲役と変わらない。無期懲役は、誤解されているほど「軽い」刑ではない。また近年は、仮釈放までの期間が非常に長くなる傾向にある。
*12:正直に言う。遺族の報復、殺すことを否定できない、と言った。しかし、報復の是非に限らず、「殺したい」という人の欲望を絶対的に悪いこと、とすら言い切れないのだ。欲望の複数性を肯定する、とは実はそういうことではないか。そこにすらミニマムな「よさ」がある、と。やはり「欲望の複数性」を主張するのは、ほんとは怖いことなのだ。ぼくはそれもまた「感情」を超える「摂理」だ、とどこかで思っているらしい。具体的な関係の中でそういう瞬間が訪れることはある、と。そして、もし「隣人愛」が言われるとしたら、このあたりを深くくぐらねばならないだろう、とも思う。
首都圏だと紀伊国屋、ジュンク堂、池袋リブロ、丸善丸の内、八重洲ブックセンターあたりには今日から並んでいるそうです。
その上で、ぼくが身近なこととして考えなきゃなと思うのは「加害者の中に重層的に折り畳まれた被害者意識」のことだった。
ある種の加害者――特に親密圏としての家庭の内部で習慣的に暴力を振るう人――は、自分の加害性をそもそも認識できない。のみならず、社会が悪い、相手(妻や子)が悪い、と責任を相手に転嫁し、自分を免責する。さらには「殴るのはお前のためだ」「愛しているからだ」と主張する。
DVや虐待の場合は、加害者が被害者意識を持ち(殴らざるをえなくしているのは妻の方だ)、被害者が加害者意識を持つ(夫に殴られるのは私が悪いからだ)、という構造的なねじれが生じる場合もある。ここでは「被害」も「加害」も、奇妙なことに、ともに消えてしまうのだ――あるいは、それこそが最悪の《暴力》なのかもしれない(殴られ罵倒されながらも被暴力の自覚がうっすらとでもあるなら、まだ抵抗の意識があるはずだから*1)。
他人に暴力をふるいながら加害者意識が本当に全く無いタイプの人も多いが、自分の加害性に無意識に気付いているからこそ、一層暴力を振るい続けるというタイプの人もいる。
加害者にとって必要となる最低限のクリア条件は、自分の「加害」をしっかりと自覚することである。しかも、頭の理解ではなく――頭だけの理解は実は危険だ――、心からの実感として。それは非常に困難を極めるし、時間がかかることだけれども。
その上で、相手との関係を再構築することが必要かどうか(被害者がそれを望んでいるかどうか)、必要であるならばそれが現実的に可能かどうか。そういうふうに足をすすめてみる。
これは、男性のセクシュアリティの問い直しや書き換えと関わる。信田も言っている。《男性には自らの性を問いかけてもらいたいと思う。本書で描いたような他者の目に触れないところで行使される暴力を、男性性への問いかけのきっかけにしていただきたい。私にとっては、男性の暴力や性(セクシュアリティ)はいまだに謎のままなのである》(203p)。
もちろん、公的機関や第三者の介入が必要な場合も多い。応報と監禁だけではない。加害者の更正や社会復帰を、という社会的な整備もまた、少しずつ進んでいる(司法+福祉・臨床の連携)。DV加害者へのアプローチは、一九七〇年代のアメリカで始まった。当時の女性運動の高まりの中で、女性たちは家庭の中で殴られる女性たちの救済を国に訴えた。一九八〇年代にはアメリカの各州で刑事・司法制度が整えられ、その中から、刑罰に代わる加害者への更正プログラムの受講を命じるダイバーションシステムなどが構築される。これは広い意味での「修復的正義(司法)」の潮流へも流れ込む。日本の行政は加害者臨床にまだまだ消極的だが、二〇〇〇年代から、カナダの実践などに学びながら、少しずつ取り入れられてはいるようだ*2。これには批判もある。加害者をより狡猾にするだけではないか、など。しかし、実際、被害者こそが加害者の更正と謝罪を望んでいる場合もある(特にDVなどのケースでは、生活費や子どもの問題などがあるから、たんに緊急避難だけではどうにもならない)。
《刑務所でのプログラム実施者は、どれほど凶悪な犯罪者であろうと、彼らが「変化しうる」可能性を信じること、彼らを一人の人間として尊重してかかわることが求められる。この基本的姿勢はいささかオプティミスティックに映るかもしれないが、一九八〇年代より試行錯誤しながら性犯罪者処遇プログラムに取り組んできた先進国カナダにおける、これが一つの到達点なのである。》(177p)
その先に、たぶん、被害者の側から言えば「赦し」の可能性がある。加害者の側からは、「謝罪と償い」の可能性がある。具体的な二者の「関係」としての。たぶん…。このへんのアポリアについては、またエントリーを改めて。
こういうことを、自分の実経験に即して具体的に考えたい、考えるだけじゃなくて生活改善していきたいと思っているのだけど、本当に本当にしんどいことだと思います…。
[死刑][批評系]「死刑存置論者よ、殺すというなら自分の手で殺せ」と「死刑廃止論者よ、出獄してきた凶悪殺人犯の隣に住んでみよ」

 

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