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それからとは?/ ノーローン

[ 644] それから
[引用サイト]  http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/sorekara.htm

『それから』では、実業家の父の経済的な援助のもとで裕福な生活を送る代助が、恵まれた生活を捨て、三千代とともに生きる決意をするまでを描いている。代助のような生活を送る人間が恋愛のためだけに本当にこのような選択をし得るのか、かつて友人の平岡に周旋したはずの三千代になぜ今さら愛情を注ぐのかという疑問を多くの読者は感じるのではないかと思う。代助が三千代に近づいていく必然は、単に三千代への恋愛感情や過去の二人の関係だけに求めることはできない。代助の現在の生活の矛盾と父や兄との関係、さらに平岡との関係を考察することで、代助が三千代との人生を選ぶに到る心理の流れを解きあかすことができればよいと思う。
代助の父は明治維新後の資本主義的発展の波に乗り成功した実業家である。兄は父のあとを継いで実業家となり、代助は大学を卒業しても実業界に入ることを要求されなかった。この自由で気楽な立場に基づき、代助は高等遊民の生活を始める。
学生時代から満たされた生活を送ってきた代助に対し、出世して豊かな生活を獲得したいと願っている平岡が対比的に描かれている。平岡は大学を卒業するとすぐに就職し、一年後地方へ転勤になった。代助は平岡のように生活の心配をする必要がなく、卒業後も自由で気儘な生活にとどまった。二人は卒業と同時にまったく別の生活に入っていったが、卒業当初は互いの立場の違いが二人を今まで以上に親密にした。
だから自分も「早く金になりたいと焦つ」(七二)たと代助は言う。代助の生活には野心や希望を抱いて社会へ出ていく多くの学生たちのような熱意や活気が欠けていた。漠然とした焦りを抱いていた代助は、実社会の荒波に乗り出した平岡との交際に意義を感じる。
代助は自己の利害を度外視して友人のために尽くすことを自らの理想と考え、平岡に対してそれを実践した。社会に出て奮闘する平岡を理解し助力することは、代助にとって間接的に社会の活気に触れることであり、また代助のような立場にいる人間だからこそできる意義のある行為である。代助はこの理想を徹底させることで平岡の野心や熱意に対抗しようとした。平岡が持ち出した三千代との結婚の希望は、代助にとって自己犠牲という日頃の理想を実践する絶好の機会となった。
代助は三千代を平岡に周旋する際、過去の親しい交際を思い出し苦痛を覚えたと言う。代助と三千代は三千代の兄を中心に親しい交際を続けていたが、三千代の兄の死と父親の没落によって二人の距離は遠ざかった。三千代の兄の死後代助が三千代との関係を発展させようとすれば、気楽な生活や家族との関係を犠牲にしなければならなかっただろう。当時の代助にはもとよりそれほどの情熱はなかった。代助は実際には三千代との関係よりも今まで通りの安楽な生活を選んだのであり、平岡のために三千代への愛情を犠牲にしたというのは代助の誤解である。しかし三千代を平岡に周旋することを苦しい「自己犠牲」であると感じれば感じるほど代助の行為は意義を持つことになり、代助は平岡の行動力や熱意を前にしたとき感じる圧迫感を解消することができた。
彼等は双互の為めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうしてその犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。(十六)
当時の行為を代助はこのように回想している。代助の犠牲的行為は平岡の活動に対して無為の生活を肯定しようとする努力であり、この犠牲的行為を徹底させた結果代助と平岡との差は広がった。地方への転勤が決まり三千代を連れて東京を発つ日、平岡の目には「得意の色が羨ましい位」(一六)感じられた。財産やコネに頼らず実力だけで将来を切り開いていこうという気概が平岡の「得意」の内容である。財産を失い心細い境遇にいた三千代は、平岡にとって共に将来を築くのに相応しい相手であった。これまでと同じ安楽な生活にとどまった代助と、見ず知らずの土地に三千代と二人で出立する平岡との違いは明らかであった。平岡の「得意」は代助の痛いところを突いており、代助は平岡の「得意」を憎らしいと感じる。
平岡からは始終手紙が来た。「安着の端書、向ふで世帯を持つた報知」「支店勤務の模様、自己将来の希望」(一六)など日常生活のこまごまとした報告から、代助は自分の生活にない活気や充実感を感じとり返事を書くことに苦痛を覚えた。平岡が代助の行為に対する感謝の気持ちを伝えて来た時だけ、代助は平静を取り戻した。自分の行為が現在の平岡の生活に大きな影響を与えていると考えると、代助は平岡のために犠牲を払った自分の価値を高く評価することができた。
やがて平岡との文通が疎遠になりはじめると「今度は手紙を書かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに」(一六)無理に手紙を出すようになったと代助は言う。平岡が去ったのち、代助の生活は平岡に対抗することで得ていた緊張感を失った。平岡との友情が自分にとっても平岡にとっても大した意味を持たなくなりつつあると考えると、代助は自分の生活の意味が失われるような気がして不安になった。
代助にとって家族との関係が日常生活の中で強い結びつきをもつ唯一の人間関係になった。代助に実社会の雰囲気を伝えてくれる唯一の存在だった平岡とも遠ざかり、世間からひきこもった生活を送るようになった代助は、自力で自らの生活の中に意義を見出さなければならなくなった。平岡のための「自己犠牲」がもたらした結果を前にして、代助は今までのように犠牲的行為を理想と考えるわけにいかなくなった。平岡に対抗していたころの代助には自分の生活に目的を見出そうという意欲があったが、高等遊民としての生活を長く続けるにつれ、高尚な熱意や目的がない状態が人間の偽らざる状態であると考えるようになった。漱石は代助の生活のこの決定的な変化を
代助は自分の生活に生じたこの変化を、過去の子供じみた理想を克服し、社会に対する高度な認識を得た結果であると考えるようになった。
現在代助は父から独立した一戸を与えられ、月に一度「親の金とも、兄の金ともつかぬもの」(二五)を貰いに実家に行く。代助の無為の生活は書生の門野の生活と対比的に描かれている。門野は学校へも行かず就職もせず、代助の家に書生として置いてもらっている。自分の無為は余裕があるものに許された高尚な贅沢であると代助は考えているが、余裕のない家庭に育った門野が働きもせずごろごろしているのは代助の目から見ると「全くの呑気屋」(十)である。代助は父や兄の勢力のおかげで望めばいつでも「何でも出来」(八)る地位にいる。門野は有利な地位を望んでも得られる可能性はない。門野はのらくらしているようでも生活してゆくためには「風呂でも何でも汲」(十一)んで賄いのばあさんや代助とうまく付き合ってゆくことが必要であり、どんな境遇に置かれても使い走りでも何でもこなすことが門野が生活の中で身につけた能力である。代助は望めば「何でも出来」る地位にいるが、やらなくても差し支えがないから何かすることを望むことはない。余裕のある生活の中で代助は「何でも出来」る能力を失ってゆく。
実践的な能力を失うと同時に、代助は門野にはない「細緻な思索力と、鋭敏な感応性」(十二)を身につけ、それを門野の庶民的な能力よりも高く評価するようになる。「学校騒動」の記事に対する反応の仕方に、代助の「細緻な思索力」と門野の感覚の違いが描かれている。
生徒が校長を排斥したという事件のいきさつを読んで代助がまっさきに考えるのは、こういった事件の裏には校長批判に隠された別の「損得問題」があるに違いないということである。事件を痛快がる門野に代助は「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かることでもあるんですか」(七)と冷やかに答えている。事件の背後にある複雑な事情に目がとどかない門野の単純さに対する軽い皮肉がこめられている。
門野は「冗談云つちや不可ません。さう損得づくで、痛快がられやしません」(同右)と答え、代助の皮肉を理解しない。高い地位にいて生徒に対して力を持っている校長が、弱い立場にある生徒の要求に従わざるを得なくなることが門野には何となく愉快である。詳しい事情が分からなくても、門野は生徒側の「損得問題」が実現することを一緒になって喜んでいる。門野にとって社会は興味や同情や共感を感じさせる事件が毎日どこかで起こっている活気にあふれた場所である。
一方世間とかけ離れた生活を送る代助は、活動が生徒にとって持つ意味を問題にせず、個人的な利害の方に注目する。大隈伯が生徒の味方をしたという記事を読むと、生徒を早稲田へ呼び寄せるための方便だと解釈する。代助の目には社会が個人の「損得問題」によってでたらめに動いているように見え、社会で起こる出来事を退屈だと思う。学校騒動の記事を読みながらやがて「倦怠さうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落とした」(六)という描写には、社会の動きに対してニヒルになっている代助の冷めた感覚があらわれている。
代助の主な関心は日常生活の些細なことに向けられる。「仕舞には本当の病気に取つ付かれる」(十一)と門野に茶化されるほど代助は自分の身体の具合を気にかける。心臓に手を当ててその鼓動を確かめることは代助の習慣になっている。代助はもしこの心臓が止まったらと考え、こんな恐怖に脅えることなく毎日門野のように呑気に暮らせたら「如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう(五)と言う。代助は人並み以上に鋭い神経を持っていることを「天爵的に貴族となつた報に受ける不文の刑罰」(十二)と考え誇りに思っている。同時にこれらの言葉には現在の生活を「気楽」だとも「生を味はひ」つくしているとも感じられないでいる代助の気だるい気分が反映されている。
代助は自分の生活に活力の不足を感じる時、普段は忘れている平岡の暮らしぶりを想像してみることがある。「然したゞ思い出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要も」(十七)なかった。代助は平岡が相変わらず三年前に別れた時と同じ熱意をもって活躍しているに違いないと考える。けれども現在の代助は平岡の生き方を自分に関わりのない生き方として割り切っていた。だからわざわざ問い合わせる必要を感じなかったが、同時に「勇気も」なかったと書かれている。目的も熱意もなく家族との小じんまりした関係の中におさまっている代助にとって、平岡の活躍ぶりを目のあたりにすることは実際「勇気」を必要とすることであった。
別々の人生を歩んでいた代助と平岡は、平岡の辞職をきっかけに再び接点を持つことになった。平岡の境遇に思わしくない変化が生じたことをにおわせる葉書を受け取ったとき、代助は「はつと思つた」(十七)と言う。平岡の境遇が今まで想像していたような華々しいものでないことが分かると、代助は遠い世界の人間になりつつあると感じていた平岡との距離が縮まったような気がした。代助は「逢ふや否や此変動の一部始終を聞かうと」(同右)平岡の訪問を心待ちにした。平岡との三年ぶりの再会は、変化に乏しい代助の生活に平岡や三千代との親しい交際という新たな要素を持ち込むことになるはずであった。
二人の三年ぶりの再会の場面ではこのような気分で平岡を迎えた代助と、代助の厚意を退けようとする平岡とのすれ違いが描かれている。代助は玄関先に平岡の声を聞きつけるなり「手を執らぬ許りに旧友を座敷へ上げた」(十三)。しかし平岡の態度には代助のもてなしをそらすよそよそしい様子が感じられた。再会した最初の瞬間に二人が漠然と感じた違和感は、それぞれが持ち出す話題の違いの中にあらわれている。
辞職の理由をなかなか話したがらない平岡に対して、代助は夜中の十二時に始まる神秘的なニコライ復活祭の話や、その帰りに見た夜桜の美しかったことを話して聞かせる。現在の代助が平岡に示すことができるのは、こういった「麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験」(十九)である。代助は平岡と離れていた間に平岡の社会的な経験よりも高等遊民として味わう「贅沢な経験」の方をより豊かな経験であると考えるようになった。「そんな真似が出来る間はまだ気楽」(十八)だと言う平岡の「相手の無経験を上から見た様な」(十八)態度に、代助は余裕をもって対応している。平岡とは別の世界で自分なりの成果を挙げているという自覚が代助の余裕の内容である。
代助の話と違って、平岡の語る会社でのいきさつは散文的である。赴任当初は支店長との対立も辞さず自分の意見を主張したこと、そのため支店長から疎んぜられたこと、立場をわきまえた態度をとることでようやく支店長ともうまく付き合えるようになったこと等々を平岡は淡々と語っている。平岡は支店長との新たな関係を「無闇に御世辞を使つたり、胡麻を摺るのとは違ふ」(二一)と言う。実際平岡は支店長に媚びたり取り入ったりするつもりはなかっただろうが、出世が学問や実力だけで実現できるものではなく「御世辞」や「胡麻を摺」りといった多くの条件を必要とすることを知った。赴任してしばらくは「非常な勤勉家として通つてゐた」(一〇〇)平岡が、三千代の病気をきっかけに放蕩するようになったと書かれている。かつて代助を圧倒した平岡の熱意や理想は、出世のために必要な様々な条件を知ることによって大きく変化していった。
出世して豊かな生活を築きたいと願っても、実際に出世できる人間は限られている。出世の望みを無理やり断たれるところから出世のために必要な煩わしい手段を厭い出世以外に価値を見出そうとする新たな感覚が生まれてくる。平岡は支店長に気に入られ、順調に出世コースを歩みはじめたかに見えた。ところが部下の遣い込みが発覚して平岡は否応なく出世の夢を断たれることになった。もっとも責任ある立場にいるはずの支店長の地位が安泰だったのに対し、財産もうしろだても持たない平岡のような人間はまっさきに出世コースからはじき出された。
会社員なんてものは、上になればなる程旨い事が出来るものでね。実は関なんて、あれつ許の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ(二一)
失職をきっかけに平岡は支店長と自分の間にある大きな隔たりを思い知らされた。同時に、小さな過ちで即座に社会の底辺に放り出される部下の境遇を「気の毒」と感じるようになった。平岡は部下の不祥事のせいで辞職に追い込まれたが、芸者に入れ込んで会社の金に手を出した部下の過ちを恨む気にはなれなかった。
部下の遣い込んだ金を自分で弁償したという平岡の話を聞いて「君も大分旨い事をしたと見える」(二一)と代助は言う。平岡が経験してきた程度の「人間の暗黒面」(二二)には充分通じているという代助の自信があらわれている。「人間の暗黒面」という言葉にあらわれているように、代助が平岡の話から感じとるのは信頼していた部下が平岡を裏切った、上司が自分の身を守るために平岡を見捨てたといった個別的な人間関係である。このような煩わしい関係の中にあって平岡もまた自分自身の利益のために「旨い事」をしてきたに違いないと代助は推測する。代助が「平岡のそれとは殆ど縁故のない自家特有の世界で、もう是程に進化」(二二)したという「進化」の内容は、学校騒動に対する見方と同じように平岡の社会的な経験の中から個別的な事情や利害を取り出して問題にする観察力である。
「君も大分旨い事をした」と言うとき代助が注目しているのは、支店長のように「上」の方にいる人間も平岡や平岡の部下のように下の方にいる人間も「旨い事」をしたいと願っていることに変わりはないという一面である。代助は世の中の誰もが自己の「損得問題」を中心に動いているという見方が平岡に対しても支店長に対しても公平で客観的な見方であると考えている。しかし「旨い事をしたと仮定しても、・・・生活にさへ足りない位だ」(二二)と平岡が言うように、「旨い事」をしたいと願っても実際にその望みを実現できる人間は限られている。誰もが利己的な利益を追い求めるのは仕方のないことだと言うとき、代助は平岡と支店長の間にある隔たりを無視することによって、平岡や平岡の部下と比較にならないほどの力を持ち「旨い事」をし得る立場にいる支店長を無意識のうちに擁護していることになる。地位や財産に恵まれた代助は、平岡よりも支店長のような「上」の方の人間に近い立場に立っている。代助はこのような立場の人間に好都合な社会観を知らず知らずのうちに身につけた。
平岡は代助の言葉に苛立ちを感じた。代助は平岡が意気揚々と出世コースを歩んでいるわけではないことを知り安心したが、平岡が困難な条件をくぐり抜けて出世の道を歩んでいれば代助と平岡の社会的な立場は近づくことになり平岡は代助とも折れ合うことができたはずである。しかし出世の可能性を失ったことによって、平岡は代助の世界から遠ざかった。平岡は代助が生まれながらに恵まれている財産が社会でどれほど大きな意味を持っているか、代助と自分の間にどれだけ大きな境遇の違いを生み出すかを知った。代助が当たり前に思っている瀟洒な家や余裕のある暮らしぶりは、三年前には感じなかった距離を平岡に感じさせた。
平岡は代助とのすれ違いが二人の地位や境遇の違いから生じた感覚の違いであり、この隔たりを埋めることはできないと感じた。代助の兄に仕事の口を頼んでみたものの、平岡はそれ以後自分の方から代助を訪ねたり会社の都合を問い合わせたりする気になれなかった。豊かな生活を送る代助と出世コースを踏み外した平岡では住む世界が違っており、この再会を機に代助と次第に疎遠になることは平岡にとっては自然な成り行きであった。
代助は平岡とのすれ違いの意味が理解できず、二人のすれ違いを自分のことをいつまでも世間知らずのお坊ちゃんだとみなしている平岡の誤解のせいだと考える。
世の中の動きをすべて「人間の暗黒面」や「損得問題」で総括しようとする代助の目には、平岡の社会的な経験も見るべきもののない「陳腐な秘密」であると映る。平岡の経験に対して代助がどのような対象を陳腐でない経験と感じるかが、アンドレーエフの『七刑人』を読む場面で描かれている。
代助は死刑が執行される最後の場面に強烈な印象を受けている。夜明け前、七人の死刑囚たちが次々に絞首台に引き立てられてゆき最後に自分の番が回ってくる。代助はもし自分がこんな立場に置かれたらと考え、「生の欲望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、未練に両方に往つたり来たりする苦悶を心に描き出しながら」(四一)戦慄を覚えずにはいられないと言う。代助にとってこのような経験こそが、平凡な生活を送っている人間が味わうことの出来ない贅沢な経験である。
代助は平岡の「陳腐な秘密」に対して、普通の人間が感じたり興味をもったりしない対象に感銘を受け関心を持ち得ることを自らの思索力や感受性の鋭さであると考えている。しかし平岡のような実生活上の経験と芸術作品から受ける感銘や思索力は、代助が考えているように対立するものではない。高度な認識力を獲得しようという代助の意志とは裏腹に、代助の関心の対象は次第に世間離れした瑣末な事柄になり、思索の内容からは現実的な切実な問題が抜け落ちていく。
高等遊民としての「進化」を徹底させた結果、代助は「三十になるか、ならないのに既に」(二二)「ニル・アドミラリ」に陥った。代助は社会を知りつくしたために「ニル・アドミラリ」が生じたのだと考えているが、実際は現実の動きと関わりを持たず人間関係や関心の対象が狭い範囲に限られているためにこのような倦怠感にとらえられている。
代助は平岡が語つたより外に、まだ何かあるに違いないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を有つてゐないことを自覚してゐる。(二二)
平岡の経験を理解できない代助が平岡の辞職の細かな事情を詮索することは、実際個人的な事情に対する俗な好奇心を満足させようとする行為になる。平岡とは「縁故のない自家特有の世界で」進化した、「平岡が代助を子供視する程度に於て……代助も平岡を子供視し始めた」(二三)というのは「自己特有の世界」に対する代助の自信をあらわすと同時に、平岡の経験を自分と「縁故のない」世界の出来事として切り離してしまおうとする消極的な気分のあらわれでもある。
高等遊民としての「進化」には代助の少なからぬ努力が刻まれており、代助は平岡の経験の前に自信を揺るがされることはなかった。しかし「処世の階子段を一二段で踏み外し」「恰も肺の強くない人の、重苦しい葛湯の中を片息で泳いでゐる」(四五)平岡の苦しげな様子は代助に不安を感じさせた。代助には平岡のように処世の階段から転落し社会の中を「片息で泳いで」ゆく勇気はなかった。厳しい現実の中で「熱病に罹つた如く行為に渇いて」(一八二)いる平岡の様子は代助に気後れを感じさせた。
代助の予想した形と違った形であったが、平岡との再会は代助の生活に新たな刺激をもたらした。代助には平岡の落ち着きのない様子や生活の困窮が友人として平岡に近づいてゆく自然な動機だと思えた。しかし平岡にとって代助との友情という個人的な関係は問題ではなくなりつつあった。平岡は満たされた生活を送っている代助から同情や生半可な理解を示されるのが不愉快だった。代助が平岡の様子を気に掛けて自分から平岡の宿を訪ねたとき、代助を迎えた平岡は「其顔にも容子にも、少しも快さゝうな所は見えなかつた」(四四)と代助は言う。職捜しのために新居を捜す余裕もない平岡の境遇が「気の毒になつて」下宿の世話を申し出たものの、代助は平岡の境遇を心配することを友人としての当然の行為だと考えるわけにいかなくなった。
このとき、疎遠になってゆくばかりの代助と平岡の関係をつなぎとめたのが三千代の存在である。はじめて平岡の宿を訪ね三千代と再会した時、代助はたまたま平岡が「何か急はしい調子で、細君を極め付けて」(四四)いる場面に出くわした。平岡のせわしい後ろ姿を見送りながら「旅宿に残されてゐる細君の事を考へた」(四五)と言うように、代助には三千代が平岡の失職によって平岡以上につらい立場に立たされているように思えた。平岡に対するこだわりを三千代への好意を犠牲にしたせいだと考えてきた代助には、三千代と再会したときに三千代の方へ気持ちが向くことは自然な感情の動きであると思えた。
代助は平岡の留守にもう一度三千代に会おうと考えたが「気が咎めて」会うことが出来なかったと言う。また「勇気を出せば行かれると思つた」が「これだけの勇気を出すのが苦痛であつた」(四六)と代助はここでも再び「勇気」を問題にしている。代助が二人の生活に近づこうとすれば、恵まれた立場にいる人間としての同情や援助という形で近づいていく以外の手段はなかった。代助の生活には高等遊民としての恵まれた生活と余裕以外に平岡に対して示せるものがなかった。そして平岡に拒絶された同情や援助を平岡の妻である三千代に向けることは、平岡にとっていっそう侮辱的な意味を持つことになった。夫婦の不和を想像させる状況のもとで三千代と再会したことが代助が三千代に近づいていく根拠になったが、代助は二人の生活に自ら積極的に入り込んでいく決心がつかなかった。
こうして自分の方から三千代を訪れる勇気もなく「落ち付かない様な、物足らない様な」(四六)気持ちで過ごしている時に、代助は三千代の突然の訪問を受けた。この訪問は代助にとって、三千代に対するそれまでの躊躇を打ち破るきっかけになった。
代助が平岡ではなく三千代を通して二人の生活に近づいてゆくようになったことには、平岡とも代助とも違う立場にいる三千代の個性が大きく関わっている。三千代は実家の没落や平岡との気苦労の多い生活の中で鍛えられ、代助との過去を清算した。しかしお嬢さんとして育ち代助と結びつく可能性を持っていた三千代には、学生時代から一貫して代助に対抗し野心を抱いてきた平岡の気概は理解できなかっただろう。平岡が代助のお坊ちゃんじみた感覚に反発を感じ代助から遠ざかり始めても、平岡の反感や意地が理解できない三千代は代助に対して過去の関係やお互いの境遇の違いにこだわらない古い友人として振る舞った。平岡は借金の返済の目処が立たずに困っていたが、代助に金を借りることに躊躇を感じた。三千代は金の貸し借りに羞恥心を感じるものの、三千代にとって代助はもっとも借金を頼みやすい相手であった。
代助は三千代の態度の中に平岡のようなよそよそしさがないことを感じとり安心した。そして昔と同じように気軽に三千代を食事に誘う自分の態度が「幾分か此女の慰謝になる様に感じた」(四九)。三千代が代助の所に来ることができたのは代助との過去が自分にとっても代助にとっても終わったことだという自覚があったからだろう。しかし代助の目には三千代が示すこだわりのない態度が過去に二人を結びつけていた親密さのなごりであるように見えた。代助は三千代の境遇を気の毒に感じ、三千代のために何とかして金の都合をつけてやりたいと思う。
代助は三千代のための借金の依頼を通して、初めて自分が「金に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男」(五十)だと気づいたと言う。代助が家族との関係におさまっている間は、代助は金銭面でも精神面でも自由を感じることができた。しかし家族に認められる範囲を越えて行動を起こそうとするとき、代助に自由は与えられていなかった。金の問題は兄や嫂の手を煩わさずには解決できず、代助は借金の依頼を通して家族の中で自分が置かれている立場を思い知らされることになる。
代助の父は封建的な道徳主義を標榜して実業界を渡ってきた人物である。学生時代の代助は「親爺が金に見えた」と言うように、父の活動に圧倒され、父の道徳主義に感化された。今では父のブルジョア的活動を虚しい奔走と考え、現実の活動と一致しない父の道徳主義を「迂遠の空談」(一〇七)とみなしている。
代助がもっとも父を敬遠する理由は、「自分の青年時代と、代助の現今を混同して、両方共大した変りはないと信じてゐる事」(二六)である。戦争に出たことがある父は「度胸が人間至上な能力であるかの如き言草」(二七)をし、代助は戦争に出たことがないから度胸がすわらないと言う。戦争の話を引き合いに出しながら父が問題にしているのは、裸一貫から現在の地位を築き上げるまで多くの障害や困難を乗り切るために必要としてきた「度胸」である。父には自分の若い頃の野心や気概とくらべ消極的な毎日に甘んじている代助の生活が、「度胸が据らな」いための意気地のない生活であると思える。
代助はことあるごとに「度胸」を口にする父を「過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない」(三二)時代遅れの人間だと考えている。しかし代助以上に父と親密な関係にある兄や嫂は、代助と違った側面から父を捉えている。
「御父さんの国家社会の為に尽くすには驚いた。何でも一八の時から今日までのべつに尽してるんだつてね」(三四)と皮肉を言う代助に対して、嫂は「それだから、あの位に御成りになつた」(三五)と答えている。嫂にとって父は敏腕の実務家であり、長井の家をここまでにした立派な人物である。若くから父の片腕として実業界を渡ってきた兄は父とは違う新しい世代のブルジョアの感覚を身につけた。父が自分の活動をどう解釈しようと兄にはどうでもいいことであり、兄は事業に差し障りのないかぎり父の主義に口出ししないという態度を取っている。
家族の中で代助だけが父の道徳主義に大きな矛盾を感じたり父の自慢話を不愉快に感じる。兄や嫂が父の説教癖を面倒な性質だと感じながらも父と調和してやってゆけるのは、彼らがそれぞれの立場に応じて父の活動や父が築き上げた地位や現在の生活を評価しているからである。代助は兄や嫂が当然のごとく認め評価していることに関心がない。二人が父の実績だけを問題にしているのに対し、代助はより精神的な側面を問題にし父の道徳主義や言動の不一致を批判的に捉える。そしてこのような側面から父を批評し得ることを、自らの認識力によるものだと自負したきた。
代助は父を敬遠しながらもこれまで家族と深刻な対立を起こすことなく、適当に距離をおいて付き合ってきた。兄とも本音で向き合ったことはなかった。兄は父と違って「主義だとか、主張だとか、人生観だとかを」一度も持ち出したことがなく、また「此窮屈な主義だとか、人生観だとかいふものを積極的にうちこわして懸つた試もない」(五八)、代助にとってつかみどころのない人物である。その兄が借金の依頼を通して実業家らしい一面をのぞかせる。
兄は代助が学生の頃芸者遊びをしすぎて抱え込んだ借金をきれいに肩代わりしてくれたことがある。父が若い妾を囲っているように、こういった道楽に対する散財は彼らの世界では特別なことではない。しかし兄は平岡のような男のために金を借りたいという代助の感覚を理解しない。そういう場合は放っておけばなんとかなる、今までだってそれで済んできたと兄が例証にあげるのは、長井の家の敷地内に長屋を借りている男や、さらにその男を頼ってくる親類といった下層の人々である。平岡は出世の階段を踏み外し彼らと同じ世界の人間になった。平岡のように零落しつつある人間の利害に同情や友情という個人的な関わり合いを持つことは、兄の世界の常識では問題外である。
代助はブルジョア活動家の立場から平岡との関係を判断し切り捨てる兄と自分の立場の違いを認め、兄の立場からすればこのような態度をとるのは当然であると兄の無関心を肯定した。
借金の依頼を通してあらわれた兄との考え方の違いを、代助は二人の立場の違いとしてあっさり認めることができた。しかし平岡との間に対立が生じるとき、代助は兄を相手にしている時のように単純に割り切ることができない。
引っ越しの時以来改めて訪れた平岡の借家は代助にみじめな印象を与えた。代助はこの印象を「まだ落ち付かないだらう」(六九)というあたりさわりのない挨拶に包んで平岡に気付かれないように気を使っている。平岡には自分たちの暮らしぶりが代助に与える印象がよく分かっていた。そして「落ち付く所か、此分ぢや生涯落ち付きさうもない」(六九)と挑戦的に応える。「落ち付かない」という表現にあらわれているように、代助には平岡の生活がまともな生活だと思えない。一方平岡の言葉はこの不安定な生活を自分の運命として認め、受け入れようという覚悟が生まれつつあることを示している。
代助は平岡の挑戦的な態度を「決して自分に中るのではない、つまり世間に中るんである、否己に中つてゐるんだ」(六九)と考え、寛大な態度を取ろうとした。しかし平岡の態度には代助の寛大さを撥ねつけようとする頑なさが感じられた。平岡の態度は代助と平岡の価値観の対立を代助に見せつけ、代助は不愉快を感じる。
と指摘している。平岡は自らの「意志を発展させ」ようという気概を抱いて社会に出、支店長と対立し失職し不安定な生活に転落するという矛盾を引き起こした。平岡は知らず知らずのうちに社会の流れの中に身を投じることになり、その流れの中で日々悪戦苦闘している。その自覚が
社会的な様々な関係やその中での悪戦苦闘を通して、平岡の社会観は学生時代から大きく変化した。平岡の言う「現実社会」は代助の想像する「処世上の経験」(一八)と比べものにならない具体的な内容を持っている。平岡は代助の現実認識と自分の現実認識の違いをはっきり指摘することは出来ないが、代助の認識を現実に即していないと感じ
君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか(七五)
代助は「何故働かない」と自分を批判する平岡に対して、働かないのは「世の中が悪い」(七五)からだと答える。代助は経済力も文化も貧弱な日本が西洋と対抗しようとしために莫大な借金を抱え込み破綻を来たしたと説明し、日本の現状を「牛と競争をする蛙」(七五)に譬える。社会の発展は父や兄のような実業家や平岡にとっては新たな活動の場を得る機会になる。社会の矛盾の中に入ることを恐れる代助は、社会の発展を「敗亡の発展」(六八)と呼び社会で起こっている様々な動きを全般的な退化の現象にすぎないと考える。西洋に追いつこうという身分不相応な望みが日本の不幸の始まりだという代助の考え方は、生活に不自由せず、今以上の生活を望んだり野心を持ったりしないことを精神的な価値と考える代助の立場にふさわしい消極的な社会観である。
代助が現代日本の抱えるもっとも深刻な現象としてあげるのは、激しい「生存競争」や生活上の困難のために精神的な活動に携わる余裕が失われていることである。代助は平岡の粗末な借家を見てみじめだと感じる一方で、平岡がかつて野心の対象としていたような立派な家が一軒建つと「其陰に、どの位沢山な家が潰れてゐるか知れやしない」(七〇)と考える。代助の目には生きるためにあくせく働く労働者の生活も「沢山な家」を潰してまで金儲けをしようとするブルジョア的活動も同じように哀れな生存競争だと思える。「西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に餘裕がないから、碌な仕事は出来ない」(七六)と代助が言うとき、代助が比較の念頭に置いているのは自分自身の生活である。代助は働かないことによって得ている余裕を、激しい競争にさらされている実業家や一般の勤労者の中に見出すことができないと言って嘆いている。代助の言う「余裕」は平岡が言うように「此社会に用のない傍観者」(七七)だけが求める余裕である。「何所を見渡したつて、輝いてゐる断面は一寸四方も無」く「悉く暗黒だ」(七六)言う代助の悲観的な社会観は、余裕のある立場から高みにたって世の中を嘆いてみせる気楽な社会批評であり、平岡に何の感銘も与えない。
今まで他人の厳しい評価に自分の考え方を試される機会がなかった代助にとって、平岡と交わした議論は自らの社会論の価値をはかる試金石となった。三千代のためにもう一度嫂に借金を頼んでみようという代助の熱意には、平岡との議論で味わった漠然とした不足感が影響している。しかし代助は自分のこの熱意に平岡との関係が影響しているとは思わなかった。
能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢つ張り三千代の事が気にかゝるのである。代助は其所迄押して来ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。(八一)
友人としての厚意を平岡から撥ねつけられたことが三千代に近づくきっかけになったが、代助は次第に平岡よりも三千代のことを考える方が「愉快」だと感じるようになっている。三千代との間には平岡との関係で生じるわだかまりや気まずさはかけらほどもなく、三千代なら自分の気持ちを素直に受け取ってくれるだろうと感じるからである。
平岡との関係においては借金の問題は複雑な要素を帯びる。代助は平岡のためにという義侠心が恩義の押しつけになることを理解しており、この援助を単純に三千代に対する好意の結果だと考えようとしている。しかしその一方で代助は平岡が再び金の融通を頼みにくることを確信しており、平岡にとって金の依頼が重大な問題であることを認めている。
だから平岡は決して自分には生活の内情を打ち明けないだろうと代助は考えているが、このわだかまりも金の問題が絡んだ場合は平岡にとって別問題になると思っている。平岡にとっては代助との確執や自尊心よりも金の方が重要だという意味である。あるいは平岡は代助に援助を受けざるを得ない立場にいるが、いらざる意地をはって依怙地になっているという意味である。いずれにせよ平岡は金銭にこだわる俗物であるか、あるいは代助を他人行儀に扱うことで負け惜しみを言っているかのどちらかということになる。代助に悪気がなくとも、このような誤解に基づいた関係においてはいかなる金のやりとりも平岡とって屈辱的なものになる。
代助は金をめぐるこの問題に別の側面から矛盾を感じる。嫂に無心した金によって三千代を援助すること、それ以外に自分の好意を示すことが出来ないことは余裕どころか代助の立場の無能力を明らかにする。代助は平岡との議論を通じて漠然と感じた自分の無力を、嫂とのやりとりを通じて改めて思い知らされる。
代助は家族のうちで嫂ともっとも親しく付き合っている。しかし上流夫人らしい嫂の趣味が父とちがって代助の目に愛嬌と映るのは、直接ブルジョア的活動に関わるわけではない嫂と父の立場の違いによるものである。ブルジョア的な価値観が問題になる話題になると、嫂と代助の間にもまた対立が生じる。
嫂は学問をつんで自分よりもずっと「偉い」はずの代助が、自分に頭を下げて金を頼まなければならない「無能力」な境遇に甘んじているのはおかしいと言う。嫂の指摘はつきつめると代助が普段から聞かされている父の説教とかわりがないものであった。しかし金の都合がつけられないことを自分の弱点と感じ始めた矢先に言われた「無能力」という批判は、代助には自分のもっとも痛いところを突いた批判に思えた。今まであらゆる面において有利だと思っていた高等遊民としての生活が実際は無能力な生活なのではないか、実生活における能力の点で父や兄のブルジョア的生活よりもはるかに劣っているのではないかという疑問が初めて代助の頭をかすめた。嫂の言うとおり自分も「世間並」にならなければならないと代助は感じる。
しかし嫂の言う「世間並み」が具体的になるにつれて代助は冷静になった。嫂の言う「世間並み」とは父がすすめる縁談を受け入れることである。代助は父や兄の世話になっているのだからいずれは彼らの気にいるような結婚をするなり仕事に就くなりして彼らに報いるのが当然であると嫂は考えている。兄は「いづれ其内に何か遣るだらう」(六八)と代助を評価し、嫂は「貴方だつて、生涯一人でゐる気でもないんでせう」(九一)と代助に詰め寄る。兄も嫂も代助がいずれ奮起して彼らの世界で「何か遣る」ための準備期間として代助の現在の生活を受け入れている。
「世間並み」になるというのは父や兄の世界の常識を受け入れることである。そして嫂のこの忠告は、ブルジョア的立場から見た平岡と代助の関係のひとつの解消の方向を示している。嫂は代助が「大いに働らいて」金を儲ければ、「御友達を救つて上げる事が出来」ると言う。しかし「大いに働ら」くことによって代助は父や兄の世界に身を投じることになり、そうなれば平岡との現在の関係は父や兄にとってそうであるように代助にとって大した意味を持たなくなるだろう。「御友達を救つて上げる事」は代助にとって現在のような煩わしい感情的なごたごた引き起こす問題ではなくなる。
代助は自分が感じている矛盾が何なのか、何をどう解決してよいのか分からないままに、得体の知れない力に引きずられて後戻りの出来ないところまで押しやられるような気がした。代助は父や兄や嫂の期待にこたえることは出来ないことを
と説明している。代助には自分が結婚を受け入れる気になれない理由は分からなかった。だから嫂に対してはっきりした返答を返すことも出来なかった。嫂に詰め寄られた時「不意に三千代という名が心に浮かんだ」(九二)と代助は言う。三千代がいるために結婚する気になれないという三千代をめぐる代助の誤解が生じている。
嫂との談判に失敗したのち、代助はアンニュイに苦しめられはじめた。翌日の新聞で大会社の大々的な不正事件が暴かれていたが、父や兄にとって他人ごとではないこの記事に対しても代助は興味を感じなかった。
学校騒動と同じようにこの事件を「痛快」だと言う門野の感想は、代助の父や兄と掛け離れた世界に生きている門野の生活感覚に基づいて生じている。代助は門野とは遠い立場におり、門野の感じる「痛快」に共感できない。しかし父や兄の利害とも一致していない。双方の中間的な位置にあって現実の大きな矛盾や対立に入ってゆくことができないでいる。このような立場にあって代助が自分の生活に風穴をあけてくれる存在として唯一接点を持つことができるのが三千代であり、代助は三千代の境遇を案じる。三千代は代助の父や兄の世界の人間と違う。しかし彼らの世界からはじき出された平岡とも一致することができず、不安定で中途半端な立場に立たされて苦しんでいる。
代助は自己の無能力な立場に気付いて感じはじめたアンニュイを、金を都合することが出来なくて三千代に会いに行きづらいためだと解釈した。しかし嫂の好意から金の都合がつくと、再び代助にとって思いがけない問題が生じた。三千代に金を渡しに行った時、代助は「難有う。平岡が喜びますわ」(九九)という三千代の言葉を聞いた。一方、数日後に代助を訪れた平岡は「本当の御礼には、いづれ当人が出るだろうから」と「丸で三千代と自分を別物にした」(一〇二)冷やかな挨拶をした。三千代が代助から金を受け取った以上、平岡は代助に礼を言わざるを得ない立場に置かれていた。代助を訪ねてはみたものの金の話を切り出すことに抵抗を感じている平岡の様子は、代助の金が平岡の心に生じさせた葛藤をあらわしている。
平岡は金策に困り、三千代を代助のもとへ寄越して借金を依頼した。しかし結局平岡は代助の金に手をつける気になれず、三千代が後に告白するように代助の金を借金の返済に使わなかった。東京での再就職に差し支えるからと平岡は借金の返済を焦っていたが、借金を返しても返さなくても有利な就職口を見つけることは不可能であることが次第に明らかになってきた。代助の金は三千代が言うように「一層の事無ければ無いなりに、何うにか斯うにか工面を付いたかも知れない」(一二八)ものであり、平岡と代助の間にわだかまりを残すだけの結果に終わる。
代助の金は同時に平岡と三千代の間にある感情的な亀裂をも深めたであろう。二人のすれ違いを見た代助は三千代と平岡の結婚がもともと失敗であったと解釈し、その解釈に依拠する形でさらに三千代に近づいてゆくという循環が始まっている。
ちょうどこの循環が始まった頃に、循環に油を注ぐ事情が生じた。門野が「痛快」だと喜んだ汚職事件の発覚は実業界に波紋を及ぼし、父と兄の会社も大きな岐路に立たされた。父は景気の変動に左右されない地方の財産家と縁故を作っておきたいと考え、代助の結婚問題がこれまで以上に重要な意味を持つことになった。
平岡はとう々々自分と離れて仕舞つた。逢ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰に逢つても左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかつた。大地は自然に続いてゐるけれども、其上に家を建てたら、忽ち切れぎれになつて仕舞つた。(一〇三)
代助が現代人の一般的傾向として捉えているこの孤立感は、代助の立場をよくあらわしている。代助は父と話すときも、「叮寧な言葉を使つて応対してゐるにも拘らず、腹の中では、父を侮辱してゐる様な気がして」(一〇五)ならないと感じる。人間同士の「侮辱」や「不信仰」は激しい生存競争が引き起こした「二十世紀の堕落」(同右)であると代助は考えている。その一例が平岡と平岡を見捨てた支店長との関係であり、父や兄も実業家として活動する以上人との衝突は避けられないはずだと思う。代助はこの社会で積極的に何かをなそうと思えば必ず誰かを侮辱することになると考え、自分の消極的な生活を肯定してきた。
しかし代助が味わう孤立感や人を侮辱しているという感覚は、実際は切実な関心や必要に基づいた積極的な人間関係を結ぶことができない代助の生活と深く関わって生じている。代助は現在の消極的な生活を守るために、家族に対してさえ自分を誤魔化して応対せざるを得ない立場にいる。
父や兄に余裕があり家族が代助の無為に寛大な態度を取っている間は、代助も自分の態度を格別不徳義だとは思わなかった。しかし父が必要に迫られて真面目に縁談の話を持ちかけたとき、縁談に対する自分のいい加減な態度は父を侮辱するものではないかと代助は感じる。
父は代助に実業家としての活動は期待しない、親子の縁で代助の面倒は見てやろう、そのかわり代助も家族の利益を考えてほしいと要求している。代助が今まで通り父や兄の援助を望むのならば、家族のために父が要求する結婚を受け入れる義務が代助の側にも生じる。代助は父や兄が毎日直面している露骨な利害関係と無縁であることを中立的な立場であると考えているが、実際は目に見えない狭い利害関係で家族と結びついている。父の会社が大きく動く時には代助もその余波を被らざるを得ない立場にいる。そして代助が中立的と考えるのとは反対に、家族との関係以外に利害関係を持たない代助の生活は、父や兄の利害に決定的に左右される。
このような立場にいる代助が家族全体の利益がかかっている縁談を承諾しないのは、父には「自分の事ばかり思つて」(一一三)いる、「親や兄弟が迷惑」(一一四)する態度だと思える。父は代助の不決断を現在の気ままな生活に対する執着だと解釈し、留学や経済的独立といった代助の意にそうような条件を持ち出す。
地方の令嬢との縁談を代助はこのように自嘲的に捉えている。実業家としての生き残りをかけた厳しい競争に晒された父は、いつまでものらくらして埒があかない代助に業を煮やし、地方の財産家との結びつきという消耗的で無能な役回りを要求した。結婚後も今まで通りの生活ができるように財産を与えるという父の提案を、代助はごく自然な提案として受け取っている。しかし同時に、この縁談によって自分が置かれることになる立場の虚しさを漠然と感じている。「いづれ其内何か遣る」ための準備期と見なされ、何もしなくても家族からそれなりに能力を認められていたこれまでの生活と違い、財産家の娘やその家族との新しい人間関係が生じれば代助は一家の主として当然何らかの実質的な活動を求められるだろう。代助にはその期待に応えることはできないだろうし、結婚後もなお父の財産に頼って無為の生活を続けることは、代助自身が次第に感じ始めた無能力を周囲の人間の目にも明らかにすることになる。
代助は結婚を受け入れた場合のことを具体的に考えたわけではなく、ただどうしても結婚を承諾する気になれないという漠然とした意志を自覚しているだけである。しかし今回の結婚を断ったとしても、いずれ別の結婚問題が早急に持ち上がることは目に見えていた。代助は結婚を断り続けて父や兄との関係がこじれることを望んでいない。父の満足だけが問題ならば、なるべく父の意向に従いたい。そうすることが家族との円満な関係を保つという代助にとっての一方の利害と一致するからである。
もし嫂が此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々家族のものと疎遠にならなければならぬと云ふ恐れが、代助の頭の何処かに潜んでゐた。(一四五)
結婚を受け入れるか家族と対立するかという選択を代助は迫られた。代助はこの時初めて、家族と自分をつないでいるもっとも重要な関係が金の関係であることに気づく。父との感情的な対立に対しては「其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた」(一六七)。縁談を断ることで生じるもっとも深刻な結果は「財源の杜絶」である。この結果が現実的なものとして頭に浮かんだ時、代助はこれだけの犠牲に値する代償はないと感じた。しかし何も行動しないでいることは結婚を受け入れることを意味していた。そのことが代助を不安に陥れ、代助はこの解決を三千代に求めた。
彼は小供を亡くした三千代をたゞの昔の三千代よりは気の毒に思つた。彼は生活難に苦しみつゝある三千代をたゞの昔の三千代よりは気の毒に思つた。但し、代助は此夫婦の間を、正面から永久に引き放さうと試みる程大胆ではなかつた。彼の愛はさう逆上してはゐなかつた。(一七三)
代助が縁談を受け入れられないのは、三千代への愛情があるためではない。代助が送ってきた高等遊民としての生活と父の会社をめぐる新たな事情が、三年前の代助が抱きえなかったような愛情を新たに生じさせている。
必竟は三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。(一七五)
三千代への愛情が深まるにつれ、代助は現在の二人の関係を過去の因果の結果と考えるようになっている。「財源の杜絶」という危険を冒してでも縁談を断る意志を貫くために、代助は三千代への愛情の力を必要としている。代助にはいまさら父や兄の世界で活動する能力はなく、縁談を受け入れ父の援助を受け続けることは代助の無能力を確定することであった。このような生活から抜け出すことが代助が獲得すべき成果であり、代助自身「財源の杜絶」を恐れつつ同時にこの破綻を自らの上に招くことを望んでいる。しかし代助にはこのことは意識されていない。家族と決裂し「金剛石を放り出」(一六七)すのは三千代への愛情のためであり、その結果得るものも三千代への愛情だけだと代助には思えた。父や兄の世界における自らの無能力と向き合うよりも、純粋に愛情のためにすべてを投げ出すことを選ぶ方が代助にははるかに受け入れやすい選択肢であった。かつて自分の感情を偽って三千代を平岡に周旋したときとは反対に、三千代への愛情に正直になることが自分が現在取り得るもっとも誠実な態度であると代助は考える。
三千代には今になって自分への愛情を訴える代助の真意が分からなかった。しかし平岡との距離が大きくなるにつれ三千代の心にも平岡との結婚が誤りだったのではないかという気持ちが生じ始めただろう。三千代は病弱な自分が平岡の足手まといになっていると感じていたが、三千代には平岡以外に頼れる人間がいなかった。代助にとって現在の三千代への愛情が過去の因果によって生じているわけではないのと同じように、三千代もまた代助との過去を断ち切って平岡との新たな人生を受け入れていた。その三千代が代助の愛情の告白を聞いて即座に「覚悟を極め」ることができたのは、代助のもとへ行くことが平岡にとっても自分にとっても現在の行き詰まった状況を解決する唯一の方法だと感じられたからである。
代助は三千代への愛情に寄り掛かることで父や兄の世界を飛び出そうとし、三千代は平岡との対立の解決を代助の愛情に求めた。二人はお互いの生活の必然から三年前にはなかった情熱をもって結びついた。しかし二人が送ってきた三年間の生活は二人の間に大きな感覚の違いを生じさせていた。
代助は三千代を幸福にすることが自分の義務だと考えた。そのとき再び「財産の途絶」が代助にとって三千代との愛情に影を落とす最大の困難になった。無為の生活に慣れた代助には「如何なる職業を想ひ浮べて見ても、只其上を上滑りに滑つて行く丈で」(二二三)三千代との生活を切り開くため具体的に何をすればよいか分からなかった。代助は「平生から物質的状況に重きを置くの結果」(二二八)物質的な「余裕」のない生活に幸福はあり得ないと考えており、父と兄の経済的援助を失った自分に三千代を幸福にする能力はないと感じる。
三千代は将来の生活を危ぶむ代助の危惧を理解しない。気苦労の多い平岡との生活に慣れすでに困難な状況にある三千代にとって、平岡との生活も代助との生活も厳しいことにかわりなかった。三千代は自分には幸福な未来はあり得ないから破滅を覚悟することもできるが、恵まれた身分にいる代助には自分のような覚悟を決めることはできないと考える。
「御父様と仲直り」をすることは代助にはできないこと、父の世界からの乖離が三千代への情熱を生じさせたことは三千代には理解できなかった。三千代は代助の決意を「私が源因で左様なつた」(二二九)と考え、これまで何不自由なく生活してきた代助を破滅に巻き込むことをすまないと感じる。平岡と離れ代助に頼ることもできず「何うせ間違へば死ぬ積」(二三一)と考えた三千代は神経衰弱になり病の床につく。
「さう死ぬの殺されるの安つぽく云ふものぢやない」(二三〇)と言っているように代助には三千代のように破滅を覚悟することはできなかった。自分は何があっても後戻りするつもりはなかったが、三千代を破滅させることはできなかった。それでも代助が三千代に働き掛けることを躊躇しなかったのは、平岡と暮らすことに三千代の幸福の可能性はないという確信があったからである。
代助のこの確信は正しかったのか、平岡との生活を捨て代助のもとへ行くという選択は本当に唯一の解決だったのか、三千代自身が疑問に感じざるを得ない状況がのちに描かれている。平岡は三千代の身を案じ、仕事を休んで病床の三千代に付き添った。「夫程三千代を愛して居なかつたかも知れない。けれども悪んぢやゐなかつた」(二四四)と代助に告白するように、平岡には病弱の三千代を見捨てることはできなかった。妻帯者の不便をしきりに訴える平岡の不満も、三千代を見捨てるわけにはいかないという感情を前提にして生じる愚痴である。平岡の看護を受けながら、三千代は代助のもとへゆくという平岡にとって屈辱的な選択をした自分を責め平岡にすまないと感じる。
代助が平岡と対等の地位に立つ人間であれば三人の関係は愛情の問題として解決することができた。しかし平岡とって代助の行為は余裕のある立場の強みで平岡を愚弄するものであった。代助には平岡を納得させる説明はできなかった。平岡が困難な生活の中から得た感覚や感情を代助が理解できないように、代助が高等遊民の生活の中で三千代に愛情を抱くにいたった過程はたとえどれだけ説明されても平岡には理解できなかった。平岡は代助の三千代への愛情が現在の地位や財産を捨てさせるほど強いものだとは思わなかっただろうし、お坊ちゃんの一時的な気まぐれとしか考えられなかっただろう。平岡は二人の関係を許すことができず、代助の父宛に二人の関係を告発する手紙を書く。
代助は父や兄と対立し、これから自分が身を投じようとする世界の人間である平岡とも対立しなければならなかった。初めて自力で社会に出てゆこうとする代助には社会のすべての人間がことごとく自分と敵対するように思えた。
三千代以外の人間がことごとく敵であるなどということは現実には有り得ない。しかし三千代への愛情に寄りかかることで家族と訣別ようとし、三千代以外に親密な人間関係を持たない代助には、社会をこのように漠然とした一括りとして捉えることしかできなかった。職さがしに飛び出す代助の「それから」は描かれていない。代助には自力で生計を立てるあてはなく、病の床についた三千代との関係がこれから先どうなるかも分からなかった。しかし今後どのような事態が生じるにしても、代助は父や兄の世界と訣別することに満足を感じている。この刹那的な満足と三千代への愛情に身を任せ、先のことを一切省みずに家を飛び出すことが、代助にとって家族と訣別するための唯一可能な方法であった。
代助が父の経済的な支えを失ったことの現実的な意味は、この熱狂が終わったあと長い時間をかけて代助にも理解されるだろう。それからの後の世界は、『門』で描かれる。(終わり)

 

[ 645] 夏目漱石 それから
[引用サイト]  http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1746_18325.html

ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭(あたま)程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打つてゐた。彼は胸に手を当(あ)てた儘、此鼓動の下に、温(あたた)かい紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命(いのち)を掌(てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌(てのひら)に応(こた)へる、時計の針に似た響(ひゞき)は、自分を死(し)に誘(いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生(い)きてゐられたなら、――血を盛(も)る袋(ふくろ)が、時(とき)を盛(も)る袋(ふくろ)の用を兼ねなかつたなら、如何(いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生(せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助(だいすけ)は覚えず悚(ぞつ)とした。彼は血潮(ちしほ)によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生(い)きたがる男である。彼は時々(とき/″\)寐(ね)ながら、左の乳(ちゝ)の下(した)に手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
約(やく)三十分の後(のち)彼は食卓に就いた。熱(あつ)い紅茶を啜(すゝ)りながら焼麺麭(やきぱん)に牛酪(バタ)を付けてゐると、門野(かどの)と云ふ書生が座敷から新聞を畳んで持つて来た。四つ折りにしたのを座布団の傍(わき)へ置きながら、
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。此書生は代助を捕(つら)まへては、先生先生と敬語を使ふ。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへゝゝ、だつて先生と、すぐ先生にして仕舞ふので、已を得ず其儘にして置いたのが、いつか習慣になつて、今では、此男に限(かぎ)つて、平気に先生として通(とほ)してゐる。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云ふことを、書生を置いて見て、代助も始めて悟つたのである。
「君、あれは本当に校長が悪(にく)らしくつて排斥するのか、他(ほか)に損得(そんとく)問題があつて排斥するのか知つてますか」と云ひながら鉄瓶の湯を紅茶々碗の中(なか)へ注(さ)した。
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得(とく)にならないと思つて、あんな騒動をやるもんかね。ありや方便だよ、君」
「へえ、左様(そん)なもんですかな」と門野(かどの)は稍真面目(まじめ)な顔をした。代助はそれぎり黙(だま)つて仕舞つた。門野(かどの)は是より以上通じない男である。是より以上は、いくら行つても、へえ左様(そん)なもんですかなで押し通して澄(す)ましてゐる。此方(こちら)の云ふことが応(こた)へるのだか、応へないのだか丸で要領を得ない。代助は、其所(そこ)が漠然として、刺激が要(い)らなくつて好(い)いと思つて書生に使つてゐるのである。其代り、学校へも行かず、勉強もせず、一日(いつにち)ごろ/\してゐる。君、ちつと、外国語でも研究しちやどうだなどゝ云ふ事がある。すると門野(かどの)は何時(いつ)でも、左様(さう)でせうか、とか、左様(そん)なもんでせうか、とか答(こた)へる丈である。決して為(し)ませうといふ事は口(くち)にしない。又かう、怠惰(なまけ)ものでは、さう判然(はつきり)した答(こたへ)が出来ないのである。代助の方でも、門野(かどの)を教育しに生(うま)れて来(き)た訳でもないから、好加減(いゝかげん)にして放(ほう)つて置く。幸(さいは)ひ頭(あたま)と違(ちが)つて、身体(からだ)の方は善く動(うご)くので、代助はそこを大いに重宝がつてゐる。代助ばかりではない、従来からゐる婆さんも門野(かどの)の御蔭で此頃は大変助かる様になつた。その原因で婆さんと門野(かどの)とは頗る仲(なか)が好(い)い。主人の留守などには、よく二人(ふたり)で話をする。
まづ斯う云ふ調子である。門野(かどの)が代助の所へ引き移る二週間(かん)前には、此若い独身の主人と、此食客(ゐさうらふ)との間に下の様な会話があつた。
「矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも近頃(ちかごろ)は不景気で、余(あん)まり好(よ)くない様です」
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。兄(にい)さんの細君が出来ても、矢っ張り今の様にしてゐる積ですか」
「さう自任してゐちや困る。実は君の御母(おつか)さんが、家(うち)の婆さんに頼んで、君を僕の宅(うち)へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」
門野(かどの)は只(たゞ)へえゝと云つた限(ぎり)、代助の光沢(つや)の好(い)い顔色(かほいろ)や肉(にく)の豊(ゆた)かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると何時(いつ)でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の頭(あたま)は、牛(うし)の脳味噌(のうみそ)で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。話(はなし)をすると、平民の通(とほ)る大通りを半町位しか付(つ)いて来(こ)ない。たまに横町へでも曲(まが)ると、すぐ迷児(まいご)になつて仕舞ふ。論理の地盤を竪(たて)に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼(かれ)の神経系に至つては猶更粗末である。恰も荒縄(あらなは)で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の為(ため)に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも此(この)のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞(ふるまひ)たがる。其上頑強一点張りの肉体を笠(かさ)に着(き)て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して来(く)る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた報(むくひ)に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為(な)れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。門野(かどの)にはそんな事は丸で分らない。
歯切(はぎ)れのわるい返事なので、門野(かどの)はもう立つて仕舞つた。さうして端書(はがき)と郵便を持つて来た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報、明日(あす)午前会(あ)ひたし、と薄墨(うすずみ)の走(はし)り書(がき)の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋(やどや)の名(な)と平岡常(ひらをかつね)次郎といふ差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう来(き)たのか、昨日(きのふ)着(つ)いたんだな」と独(ひと)り言(ごと)の様に云ひながら、封書の方を取り上(あ)げると、是は親爺(おやぢ)の手蹟(て)である。二三日前帰つて来(き)た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が着(つ)いたら来てくれろと書(か)いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔といふ閑文字が数行列ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べてゐた。
「やあ、桜(さくら)がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか故(もと)の様にしんみりしない。代助も少し気の抜(ぬ)けた風に、
「みんな若(わか)いの許りでね」と代助は真面目(まじめ)に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後(のち)、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に力(ちから)に為(な)り合(あ)ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに口(くち)にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤(つと)めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた。代助は、出立(しつたつ)の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、直(ぢき)帰つて来給(きたま)へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其眼鏡(めがね)の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。家(うち)へ帰つて、一日(いちにち)部屋に這入つたなり考へ込んでゐた。嫂(あによめ)を連れて音楽会へ行く筈(はづ)の所を断わつて、大いに嫂(あによめ)に気を揉ました位である。
平岡からは断えず音信(たより)があつた。安着の端書(はがき)、向ふで世帯を持つた報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あつた。手紙の来(く)るたびに、代助は何時(いつ)も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書(か)くときは、何時(いつ)でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが厭(いや)になつて、途中で返事を已めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来(く)る場合に限つて、安々(やす/\)と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。
そのうち段々手紙の遣(や)り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二(ふた)月、三(み)月に跨がる様に間(あひだ)を置(お)いて来(く)ると、今度は手紙を書(か)かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する為(ため)に封筒の糊(のり)を湿(しめ)す事があつた。それが半年ばかり続くうちに、代助の頭(あたま)も胸(むね)も段々組織が変つて来(く)る様に感ぜられて来(き)た。此変化に伴(ともな)つて、平岡へは手紙を書(か)いても書(か)かなくつても、丸で苦痛を覚えない様になつて仕舞つた。現(げん)に代助が一戸を構へて以来、約一年余と云ふものは、此春(このはる)年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。
それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。時々(とき/″\)思ひ出(だ)す。さうして今頃は何(ど)うして暮(くら)してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄過(すご)して来(き)た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。其手紙には近々当地を引き上(あ)げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業替をする気になつたから、着京の上は何分(なにぶん)宜しく頼(たの)むとあつた。此何分宜しく頼(たの)むの頼(たの)むは本当の意味の頼(たの)むか、又は単に辞令上の頼(たの)むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあつたのは争ふべからざる事実である。代助は其時はつと思つた。
「好(い)いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似(まね)が出来(でき)る間(あひだ)はまだ気楽なんだよ。世の中(なか)へ出(で)ると、中々(なか/\)それ所(どころ)ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。其所(そこ)でこんな答をした。
「そりや不見識な青年が、流俗の諺(ことわざ)に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」
「無論食ふに困る様になれば、何時(いつ)でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗(な)めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
「僕の知つたものに、丸で音楽の解(わか)らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや飯(めし)が食(く)へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、下読(したよみ)をするのと、教場へ出(で)て器械的に口(くち)を動(うご)かしてゐるより外に全く暇(ひま)がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる。だから何所(どこ)に音楽会があらうと、どんな名人が外国から来(き)やうと聞(きゝ)に行く機会がない。つまり楽(がく)といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。麺麭(ぱん)に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭(ぱん)を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」
平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭(あたま)の中(なか)に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時(いつ)も取り合はなかつた。六(む)※[#小書き濁点付き平仮名つ、25-10]かしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪(わる)い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分(わか)つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖(こわ)いからの様に思はれた。其所(そこ)に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事(こと)も一度(いちど)や二度(にど)ではない。
けれども、時日(じじつ)を経過するに従つて、肝癪が何時(いつ)となく薄らいできて、次第に自分の頭(あたま)が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力(つと)めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来(き)た。時々(とき/″\)は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出(で)たての平岡でないから、先方(むかふ)に解(わか)らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。
支店長は平岡の未来(みらい)の事に就て、色々(いろ/\)心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中(あた)つてゐるから、其時(そのとき)は一所に来(き)給へ抔(など)と冗談半分に約束迄した。其頃(そのころ)は事務(じむ)にも慣(な)れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇(ひま)が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨(さまたげ)をする様に感ぜられて来(き)た。
支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の関(せき)といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。所(ところ)が此男がある芸妓と関係(かゝりあ)つて、何時(いつ)の間(ま)にか会計に穴を明(あ)けた。それが曝露(ばくろ)したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放(ほう)つて置くと、支店長に迄多少の煩(わづらひ)が及んで来(き)さうだつたから、其所(そこ)で自分が責を引いて辞職を申し出(で)た。
平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上(うへ)になればなる程旨(うま)い事が出来(でき)るものでね。実は関(せき)なんて、あれつ許(ばかり)の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は何(ど)んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には低(ひく)く明(あき)らかなうちに一種の丸味(まるみ)が出てゐる。
平岡(ひらをか)は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。二人(ふたり)は無言の儘しばらくの間(あひだ)並(なら)んで歩(ある)いて行つた。
代助は平岡(ひらをか)が語(かた)つたより外(ほか)に、まだ何(なに)かあるに違(ちがひ)ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を有(も)つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil(ニル) admirari(アドミラリ) の域に達して仕舞つた。彼の思想は、人間の暗黒面に出逢つて喫驚(びつくり)する程の山出(やまだし)ではなかつた。彼(かれ)の神経は斯様に陳腐な秘密を嗅(か)いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へば、困憊してゐた。
代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の中(なか)で、もう是程に進化――進化の裏面を見ると、何時(いつ)でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として旧態を改めざる三年前の初心(うぶ)と見てゐるらしい。かう云ふ御坊つちやんに、洗(あら)ひ浚(ざら)ひ自分の弱点を打(う)ち明(あ)けては、徒(いたづ)らに馬糞(まぐそ)を投(な)げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして愛想(あいそ)を尽(つ)かされるよりは黙(だま)つてゐる方が安全だ。――代助には平岡の腹が斯(か)う取(と)れた。それで平岡が自分に返事もせずに無言(むごん)で歩(ある)いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を小供視(こどもし)する程度に於て、あるひは其(そ)れ以上の程度に於て、代助は平岡を小供視(こどもし)し始(はじ)めたのである。けれども両人(ふたり)が十五六間過(す)ぎて、又話(はなし)を遣(や)り出した時は、どちらにも、そんな痕迹は更(さら)になかつた。最初に口(くち)を切つたのは代助であつた。
電車が二人(ふたり)の前で留(と)まつた。平岡は二三歩早足(はやあし)に行きかけたが、代助から注意されて已めた。彼(かれ)の乗るべき車はまだ着(つ)かなかつたのである。
代助(だいすけ)の父(ちゝ)は長井得(ながゐとく)といつて、御維新のとき、戦争に出(で)た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を已(や)めてから、実業界に這入つて、何(なに)か彼(かに)かしてゐるうちに、自然と金が貯(たま)つて、此十四五年来は大分(だいぶん)の財産家になつた。
誠吾(せいご)と云ふ兄(あに)がある。学校を卒業してすぐ、父(ちゝ)の関係してゐる会社へ出(で)たので、今では其所(そこ)で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、二人(ふたり)の子供(こども)が出来た。兄は誠太郎と云つて十五になる。妹は縫(ぬひ)といつて三つ違である。
誠吾(せいご)の外に姉がまだ一人(ひとり)あるが、是はある外交官に嫁いで、今は夫(おつと)と共に西洋にゐる。誠吾(せいご)と此姉の間にもう一人(ひとり)、それから此姉と代助の間にも、まだ一人(ひとり)兄弟があつたけれども、それは二人(ふたり)とも早く死んで仕舞つた。母も死んで仕舞つた。
代助の一家(いつけ)は是丈の人数(にんず)から出来上(できあが)つてゐる。そのうちで外(そと)へ出(で)てゐるものは、西洋に行つた姉と、近頃(ちかごろ)一戸を構へた代助ばかりだから、本家(ほんけ)には大小合せて四人(よつたり)残る訳になる。
代助は此嫂(あによめ)を好(す)いてゐる。此嫂(あによめ)は、天保調と明治の現代調を、容赦なく継(つ)ぎ合(あは)せた様な一種の人物である。わざ/\仏蘭西(ふらんす)にゐる義妹(いもうと)に注文して、六づかしい名のつく、頗る高価な織物(おりもの)を取寄せて、それを四五人で裁(た)つて、帯に仕立てゝ着(き)て見たり何(なに)かする。後(あと)で、それは日本から輸出したものだと云ふ事が分つて大笑ひになつた。三越陳列所へ行つて、それを調べて来たものは代助である。夫(それ)から西洋の音楽が好(す)きで、よく代助に誘ひ出されて聞(きゝ)に行く。さうかと思ふと易断(うらなひ)に非常な興味を有(も)つてゐる。石龍子(せきりうし)と尾島某(おじまなにがし)を大いに崇拝する。代助も二三度御相伴(しようばん)に、俥(くるま)で易者(えきしや)の許(もと)迄食付(くつつ)いて行つた事がある。
誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて時々(とき/″\)球(たま)を投(な)げてやる事がある。彼は妙な希望を持つた子供である。毎年(まいとし)夏(なつ)の初めに、多くの焼芋(やきいも)屋が俄然として氷水(こほりみづ)屋に変化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、氷菓(アイスクリーム)を食(く)ふものは誠太郎である。氷菓(アイスクリーム)がないときには、氷水(こほりみづ)で我慢する。さうして得意になつて帰つて来(く)る。近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番先(さき)へ這入つて見たいと云つてゐる。叔父(おぢ)さん誰(だれ)か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。
代助の尤(もつと)も応(こた)へるのは親爺(おやぢ)である。好(い)い年(とし)をして、若(わか)い妾(めかけ)を持(も)つてゐるが、それは構(かま)はない。代助から云(い)ふと寧ろ賛成な位なもので、彼(かれ)は妾(めかけ)を置く余裕のないものに限(かぎ)つて、蓄妾(ちくしよう)の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺(おやぢ)は又大分(だいぶ)の八釜(やかま)し屋(や)である。小供のうちは心魂(しんこん)に徹(てつ)して困却した事がある。しかし成人(せいじん)の今日(こんにち)では、それにも別段辟易する必要を認(みと)めない。たゞ応(こた)へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大(たい)した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に処(しよ)した時の心掛(こゝろが)けでもつて、代助も遣(や)らなくつては、嘘(うそ)だといふ論理になる。尤も代助の方では、何(なに)が嘘(うそ)ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分親爺(おやぢ)と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已(や)んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒(おこ)つた試(ため)しがない。親爺(おやぢ)はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇(ほこ)つてゐる。
実際を云ふと親爺(おやぢ)の所謂薫育は、此父子の間(あひだ)に纏綿する暖(あたゝ)かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺(おやぢ)の腹のなかでは、それが全く反対(あべこべ)に解釈されて仕舞つた。何(なに)をしやうと血肉(けつにく)の親子(おやこ)である。子が親(おや)に対する天賦の情合(あひ)が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈(はづ)がない。教育の為(た)め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺(おやぢ)は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺(おやぢ)は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子(むすこ)を作り上(あ)げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来(き)て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生(うま)れ落ちるや否や、此親爺(おやぢ)が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。
親爺(おやぢ)は戦争に出(で)たのを頗る自慢にする。稍(やゝ)もすると、御前(まへ)抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据(すわ)らなくつて不可(いか)んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間(にんげん)至上な能力であるかの如き言草(いひぐさ)である。代助はこれを聞(き)かせられるたんびに厭(いや)な心持がする。胆力は命(いのち)の遣(や)り取(と)りの劇(はげ)しい、親爺(おやぢ)の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類(たぐひ)と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父(おとう)さんから又胆力の講釈を聞いた。御父(おとう)さんの様に云ふと、世の中(なか)で石地蔵が一番偉(えら)いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂(あによめ)と笑つた事がある。
斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は心(しん)から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺(おやぢ)の使嗾で、夜中(よなか)にわざ/\青山(あをやま)の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして家(うち)へ帰つて来(き)た。其折は自分でも残念に思つた。あくる朝(あさ)親爺(おやぢ)に笑はれたときは、親爺(おやぢ)が憎(にく)らしかつた。親爺(おやぢ)の云ふ所によると、彼(かれ)と同時代の少年は、胆力修養の為(た)め、夜半(やはん)に結束(けつそく)して、たつた一人(ひとり)、御城(しろ)の北(きた)一里にある剣(つるぎ)が峰(みね)の天頂(てつぺん)迄登(のぼ)つて、其所(そこ)の辻堂で夜明(よあかし)をして、日の出(で)を拝(おが)んで帰(かへ)つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得方(かた)からして違ふと親爺が批評した。
斯んな事を真面目(まじめ)に口(くち)にした、又今でも口(くち)にしかねまじき親爺(おやぢ)は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌(きらひ)である。瞬間の動揺でも胸(むね)に波(なみ)が打(う)つ。あるときは書斎で凝(じつ)と坐(すは)つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来(く)るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷(し)いてゐる坐蒲団も、畳(たゝみ)も、乃至床(ゆか)板も明らかに震(ふる)へる様に思はれる。彼(かれ)はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺(おやぢ)の如きは、神経未熟(みじゆく)の野人か、然らずんば己(おの)れを偽(いつ)はる愚者としか代助には受け取れないのである。
「さう人間(にんげん)は自分丈を考へるべきではない。世の中(なか)もある。国家もある。少しは人(ひと)の為(ため)に何(なに)かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら/\してゐて心持の好(い)い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出(で)るものだからな」
「左様(さう)です」と代助は答へてゐる。親爺(おやぢ)から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、親爺(おやぢ)の考は、万事中途半端(ちうとはんぱ)に、或物(あるもの)を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、何時(いつ)の間(ま)にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる空談(くうだん)である。それを基礎から打ち崩して懸(か)かるのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めより成るべく触(さは)らない様にしてゐる。所が親爺(おやぢ)の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来(く)る。そこで代助も已を得ず親爺(おやぢ)といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。
代助は決してのらくらして居(ゐ)るとは思はない。たゞ職業の為(ため)に汚(けが)されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。親爺(おやぢ)が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。親爺(おやぢ)の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日(つきひ)を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出(だ)してゐるのが、全く映(うつ)らないのである。仕方がないから、真面目(まじめ)な顔をして、
「えゝ、困ります」と答へた。老人(ろうじん)は頭(あたま)から代助を小僧視してゐる上(うへ)に、其返事が何時(いつ)でも幼気(おさなげ)を失はない、簡単な、世帯離(しよたいばな)れをした文句だものだから、馬鹿(ばか)にするうちにも、どうも坊ちやんは成人しても仕様がない、困つたものだと云ふ気になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ付(つ)かず尋常極まつてゐるので、此奴(こいつ)は手の付け様がないといふ気にもなる。
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可(い)い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何処(どこ)かへ行つたぢやないか」
「若い人がよく失敗(しくじる)といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己(おれ)も多年の経験で、此年(このとし)になる迄遣(や)つて来(き)たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
親爺(おやぢ)の頭(あたま)の上(うへ)に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺(おやぢ)は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後(あと)へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀(かたな)を脱いで其前に頭(あたま)を下(さ)げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返(かへ)せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此額(がく)を藩主に書(か)いて貰(もら)つたんである。爾来長井は何時(いつ)でも、之を自分の居間(ゐま)に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍聞(き)かされたか知れない。
今から十五六年前に、旧藩主の家(いへ)で、月々(つき/″\)の支出が嵩(かさ)んできて、折角持ち直した経済が又崩(くづ)れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪(まき)を焚いて見(み)て、実際の消費高(だか)と帳面づらの消費高(だか)との差違から調(しら)べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計(くらし)をしてゐる。
斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何(なん)によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合(できあひ)の奴(やつ)を胸に蓄(たく)はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花(ひばな)の出(で)る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人(ににん)の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪(わる)くつては起(おこ)り様がない。
「延金(のべがね)の儘出(で)て来(く)るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。
「何を叱(しか)られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父(おとう)さんの国家社会の為(ため)に尽すには驚ろいた。何でも十八の年(とし)から今日迄(こんにちまで)のべつに尽(つく)してるんだつてね」
十六七の小間使(こまづかひ)が戸(と)を開(あ)けて顔(かほ)を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸(ちよつと)電話口(ぐち)迄と取り次(つ)いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間(きやくま)を出やうとすると、梅子は振り向いた。
代助には嫂(あによめ)のかう云ふ命令的の言葉が何時(いつ)でも面白く感ぜられる。御緩(ごゆつくり)と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出(だ)した。しばらくすると、其色が壁(かべ)の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球(めだま)の中(なか)から飛び出して、壁(かべ)の上(うへ)へ行つて、べた/\喰(く)つ付(つ)く様に見えて来(き)た。仕舞には眼球(めだま)から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方(こちら)の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手(へた)な個所々々を悉く塗り更(か)へて、とう/\自分の想像し得(う)る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐(すは)つてゐた。所へ梅子(うめこ)が帰つて来(き)たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何(い)づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好(い)い逃(にげ)口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂(づう)々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口(くち)と顎(あご)の角度が悪(わる)いとか、眼(め)の長さが顔の幅(はゞ)に比例しないとか、耳の位置が間違(まちが)つてるとか、必ず妙な非難を持つて来(く)る。それが悉く尋常な言草(いひぐさ)でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困(こま)らせるのだらう。当分打遣(うつちや)つて置いて、向ふから頼み出させるに若(し)くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口(くち)にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄暮(くら)して来(き)た。
其所(そこ)へ親爺(おやぢ)が甚だ因念の深(ふか)いある候補者を見付けて、旅行先(さき)から帰つた。梅子は代助の来(く)る二三日前に、其話を親爺(おやぢ)から聞かされたので、今日(けふ)の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日(このひ)何にも聞(き)かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意(わざ)と話題を避けたとも取れる。
此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有(も)つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故(なぜ)その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。
直記(なほき)と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、気質(きだて)も本当の兄弟であつた。両方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に食(く)つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ燈火(ともしび)を分つた位親(した)しかつた。
丁度直記(なほき)の十八の秋(あき)であつた。ある時二人(ふたり)は城下外(じやうかはづれ)の等覚寺といふ寺へ親(おや)の使に行つた。これは藩主の菩提寺で、そこにゐる楚水といふ坊さんが、二人(ふたり)の親(おや)とは昵近(じつこん)なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに留(と)められて、色々話してゐるうちに遅(おそ)くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、市中(しちう)は大分雑沓してゐた。二人(ふたり)は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする角(かど)で、川向ひの方限(ほうぎ)りの某(なにがし)といふものに突き当つた。此某(なにがし)と二人(ふたり)とは、かねてから仲(なか)が悪(わる)かつた。其時某(なにがし)は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言(ふたことみこと)いひ争ふうちに刀(かたな)を抜(ぬ)いて、いきなり斬り付(つ)けた。斬り付(つ)けられた方は兄(あに)であつた。已を得ず是も腰の物を抜(ぬ)いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。黙(だま)つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして二人(ふたり)で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。
其頃(ころ)の習慣として、侍(さむらひ)が侍(さむらひ)を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で家(うち)へ帰つて来(き)た。父(ちゝ)も二人(ふたり)を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が母(はゝ)が生憎祭(まつり)で知己(ちかづき)の家(うち)へ呼(よ)ばれて留守である。父は二人(ふたり)に切腹をさせる前、もう一遍母(はゝ)に逢(あ)はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母(はゝ)を迎にやつた。さうして母の来(く)る間(あひだ)、二人(ふたり)に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々してゐた。
母(はゝ)の客に行つてゐた所は、その遠縁(とほえん)にあたる高木(たかぎ)といふ勢力家であつたので、大変都合が好(よ)かつた。と云ふのは、其頃は世の中(なか)の動(うご)き掛けた当時で、侍(さむらひ)の掟(おきて)も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の家(いへ)へ来(き)て、何分の沙汰が公向(おもてむき)からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を諭(さと)した。
高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某(なにがし)の親(おや)は又、存外訳の解(わか)つた人で、平生から倅(せがれ)の行跡(ぎやうせき)の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、此方(こつち)から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく一間(ひとま)の内(うち)に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、二人(ふたり)とも人(ひと)知れず家(いへ)を捨(す)てた。
三年の後兄(あに)は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得(とく)といふ一字名(な)になつた。其時は自分の命(いのち)を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が二人(ふたり)あつて、男の方は京都へ出て同志社へ這入(はい)つた。其所(そこ)を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ嫁(よめ)に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。
彼(かれ)の父(ちゝ)は十七のとき、家中(かちう)の一人(ひとり)を斬り殺して、それが為(た)め切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に語(かた)つてゐる。父(ちゝ)の考では兄(あに)の介錯を自分がして、自分の介錯を祖父(ぢゞ)に頼む筈であつたさうだが、能くそんな真似が出来るものである。父(ちゝ)が過去を語(かた)る度(たび)に、代助は父(ちゝ)をえらいと思ふより、不愉快な人間(にんげん)だと思ふ。さうでなければ嘘吐(うそつき)だと思ふ。嘘吐(うそつき)の方がまだ余っ程父(ちゝ)らしい気がする。
もし死が可能であるならば、それは発作(ほつさ)の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して発作(ほつさ)性の男でない。手も顫(ふる)へる、足も顫(ふる)へる。声の顫(ふる)へる事や、心臓の飛び上(あ)がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死(し)に易くなるのは眼(め)に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見(み)たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で違(ちが)つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。
平岡は此前(このぜん)、代助を訪問した当時、既(すで)に落ち付(つ)いてゐられない身分であつた。彼(かれ)自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿(やど)を訪(たづ)ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居(お)つた。が、洋服を着(き)た儘、部屋(へや)の敷居(しきゐ)の上に立つて、何(なに)か急(せわ)しい調子で、細君を極(き)め付(つ)けてゐた。――案内なしに廊下を伝(つた)つて、平岡の部屋の横(よこ)へ出(で)た代助には、突然ながら、たしかに左様(さう)取れた。其時平岡は一寸(ちよつと)振り向(む)いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快(こゝろ)よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内(なか)から顔を出した細君は代助を見て、蒼白(あをじろ)い頬(ほゝ)をぽつと赤くした。代助は何となく席に就(つ)き悪(にく)くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何(ど)うしてゐるかと思つて一寸(ちよつと)来(き)て見た丈だ。出掛(でか)けるなら一所に出様(でやう)と、此方(こつち)から誘ふ様にして表(おもて)へ出(で)て仕舞つた。
其時平岡は、早く家(いへ)を探(さが)して落ち付きたいが、あんまり忙(いそが)しいんで、何(ど)うする事も出来ない、たまに宿(やど)のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退(の)かなかつたり、あるひは今壁(かべ)を塗(ぬ)つてる最中(さいちう)だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家(いへ)は、宅(うち)の書生に探(さが)させやう。なに不景気だから、大分空(あ)いてるのがある筈だ。と請合(うけあ)つて帰つた。
夫(それ)から約束通り門野(かどの)を探(さが)しに出(だ)した。出(だ)すや否や、門野はすぐ恰好(かつこう)なのを見付けて来(き)た。門野(かどの)に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵可(よ)からうと云ふ事で分(わか)れたさうだが、門野(かどの)は家主(いへぬし)の方へ責任もあるし、又其所(そこ)が気に入らなければ外(ほか)を探(さが)す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然(はつきり)した所を、もう一遍確かめさしたのである。
代助は椅子に腰(こし)を掛(か)けた儘、新(あた)らしく二度の世帯(しよたい)を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。彼(かれ)の経歴は処世の階子段(はしごだん)を一二段で踏(ふ)み外(はづ)したと同じ事である。まだ高い所へ上(のぼ)つてゐなかつた丈が、幸(さひはひ)と云へば云ふ様なものゝ、世間の眼(め)に映ずる程、身体(からだ)に打撲(だぼく)を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ左様(さう)思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を打算(ださん)して見て、或は此方(こつち)の心(こゝろ)が向(むかふ)に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其後(そのご)平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外(そと)へ出(で)た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に戻(もど)らなければならなくなつた。平岡は其時顔(かほ)の中心(ちうしん)に一種の神経を寄せてゐた。風(かぜ)が吹(ふ)いても、砂(すな)が飛(と)んでも、強い刺激を受けさうな眉(まゆ)と眉(まゆ)の継目(つぎめ)を、憚(はゞか)らず、ぴくつかせてゐた。さうして、口(くち)にする事(こと)が、内容の如何に関はらず、如何にも急(せわ)しなく、且つ切(せつ)なさうに、代助の耳(みゝ)に響(ひゞ)いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、重苦(おもくる)しい葛湯(くづゆ)の中(なか)を片息(かたいき)で泳(およ)いでゐる様に取れた。
「あんなに、焦(あせ)つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の姿(すがた)を見送つた代助は、口(くち)の内(うち)でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
「おや、御呼(および)になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段可笑(おか)しいとも思はなかつた。
平岡の細君は、色の白い割に髪(かみ)の黒い、細面(ほそおもて)に眉毛(まみへ)の判然(はつきり)映(うつ)る女である。一寸(ちよつと)見ると何所(どこ)となく淋(さみ)しい感じの起る所が、古版(こはん)の浮世絵に似てゐる。帰京後は色光沢(いろつや)がことに可(よ)くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は少(すこ)し驚ろいた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、左様(さう)ぢやない、始終斯(か)うなんだと云はれた時は、気の毒になつた。
三千代(みちよ)は東京を出(で)て一年目に産をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶら/\してゐたが、何(ど)うしても、はか/″\しく癒らないので、仕舞に医者に見て貰(もら)つたら、能(よ)くは分(わか)らないが、ことに依(よ)ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし左様(さう)だとすれば、心臓から動脈へ出(で)る血(ち)が、少しづゝ、後戻(あともど)りをする難症だから、根治は覚束ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来る丈養生に手を尽した所為(せゐ)か、一年許りするうちに、好(い)い案排(あんばい)に、元気が滅切(めつき)りよくなつた。色光沢(いろつや)も殆んど元(もと)の様に冴々(さえ/″\)して見える日が多いので、当人も喜(よろ)こんでゐると、帰る一ヶ月ばかり前から、又血色(けつしよく)が悪くなり出(だ)した。然し医者の話によると、今度のは心臓の為(ため)ではない。心臓は、夫程丈夫にもならないが、決して前よりは悪(わる)くなつてゐない。弁(べん)の作用に故障があるものとは、今は決して認められないといふ診断であつた。――是は三千代が直(ぢか)に代助に話(はな)した所である。代助は其時三千代の顔を見て、矢っ張り何か心配の為(ため)ぢやないかしらと思つた。
汽車で着いた明日(あくるひ)平岡と一所に来(く)る筈であつたけれども、つい気分が悪(わる)いので、来損(きそく)なつて仕舞つて、それからは一人(ひとり)でなくつては来(く)る機会がないので、つい出(で)ずにゐたが、今日(けふ)は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した様に、此間来(き)て呉れた時は、平岡が出掛際(でかけぎは)だつたものだから、大変失礼して済まなかつたといふ様な詫(わび)をして、
代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。例(いつも)なら調戯(からかひ)半分に、あなたは何か叱(しか)られて、顔(かほ)を赤くしてゐましたね、どんな悪(わる)い事をしたんですか位言ひかねない間柄(あひだがら)なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、後(あと)から其場(そのば)を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も一寸(ちよつと)出(で)なかつた。
「久し振(ぶ)りだから、何か御馳走しませうか」と聞(き)いた。さうして心(こゝろ)のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、
代助は相手の快(こゝろ)よささうな調子に釣り込まれて、此方(こつち)からも他愛(たあい)なく追窮した。
疳(かん)の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識(はんいしき)の下(した)で覚悟してゐたのである。
三千代の言葉(ことば)は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬(ほゝ)は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな気恥(きは)づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。
段々聞いて見ると、明日(あした)引越をする費用や、新らしく世帯を持つ為(た)めの金(かね)が入用なのではなかつた。支店の方を引き上(あ)げる時、向ふへ置き去(ざ)りにして来(き)た借金が三口(みくち)とかあるうちで、其一口(ひとくち)を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ着(つ)いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ堅(かた)い約束をして来(き)た上(うへ)に、少し訳があつて、他(ほか)の様に放(ほう)つて置(お)けない性質(たち)のものだから、平岡も着(つ)いた明日(あくるひ)から心配して、所々奔走してゐるけれども、まだ出来さうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに寄(よこ)したと云ふ事が分(わか)つた。
代助は成程そんな事があるのかと思つた。金高(かねだか)を聞くと五百円と少し許である。代助はなんだ其位と腹の中(なか)で考へたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が金(かね)に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男だと気が付いた。
三千代は夫(それ)以上を語(かた)らなかつた。代助も夫(それ)以上を聞く勇気がなかつた。たゞ蒼白(あをしろ)い三千代の顔を眺めて、その中(うち)に、漠然たる未来の不安を感じた。
翌日(よくじつ)朝(あさ)早(はや)く門野(かどの)は荷車(にぐるま)を三台雇(やと)つて、新橋の停車場(ていしやば)迄平岡の荷物(にもつ)を受取(うけと)りに行(い)つた。実は疾(と)うから着(つ)いて居たのであるけれども、宅(うち)がまだ極(きま)らないので、今日(けふ)迄其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、何(ど)うしても半日仕事である。早く行かなけりや、間(ま)に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。門野(かどの)は例の調子で、なに訳(わけ)はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の宅(うち)へ届(とゞ)けた上に、万事奇麗に片付く迄手伝をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行つた。
それから十一時過(すぎ)迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の家(いへ)の部屋(へや)を、青色(あをいろ)と赤色(あかいろ)に分(わか)つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に外(ほか)ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
代助は何故(なぜ)ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤(あか)の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好(い)い心持はしない。出来得るならば、自分の頭(あたま)丈でも可(い)いから、緑(みどり)のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画(か)いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好(い)い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
平岡の新宅へ来て見ると、門(もん)が開(あ)いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の着(つ)いた様子もなければ、平岡夫婦の来(き)てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が一人(ひとり)縁側に腰を懸(か)けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、先刻(さつき)一返御出(おいで)になりましたが、此案排ぢや、どうせ午過(ひるすぎ)だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
平岡は驚ろいた様に代助を見た。其眼(そのめ)が血ばしつてゐる。二三日能(よ)く眠(ねむ)らない所為(せゐ)だと云ふ。三千代は仰山なものゝ云ひ方(かた)だと云つて笑つた。代助は気の毒にも思つたが、又安心もした。留(と)めるのを外(そと)へ出(で)て、飯(めし)を食つて、髪(かみ)を刈つて、九段の上(うへ)へ一寸(ちょつと)寄つて、又帰りに新宅(たく)へ行つて見た。三千代は手拭を姉(ねえ)さん被(かぶ)りにして、友禅の長繻絆をさらりと出して、襷(たすき)がけで荷物の世話を焼(や)いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も来(き)てゐる。平岡は縁側で行李の紐(ひも)を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し手伝(てつだ)はないかと云つた。門野(かどの)は袴を脱(ぬ)いで、尻(しり)を端折つて、重(かさ)ね箪笥を車夫と一所に坐敷へ抱(かゝ)へ込みながら、先生どうです、此服装(なり)は、笑(わら)つちや不可(いけ)ませんよと云つた。
代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本書(か)いた。一本は朝鮮の統監府に居る友人宛(あて)で、先達(せんだつ)て送つて呉れた高麗焼の礼状である。一本は仏蘭西に居る姉婿(あねむこ)宛で、タナグラの安いのを見付(みつ)けて呉れといふ依頼である。
代助は、何事によらず一度(いちど)気にかゝり出(だ)すと、何処(どこ)迄も気にかゝる男である。しかも自分で其馬鹿気(げ)さ加減の程度を明らかに見積(みつも)る丈の脳力があるので、自分の気にかゝり方(かた)が猶眼(め)に付いてならない。三四年前、平生の自分が如何(いか)にして夢(ゆめ)に入るかと云ふ問題を解決しやうと試みた事がある。夜(よる)、蒲団へ這入つて、好(い)い案排にうと/\し掛けると、あゝ此所(こゝ)だ、斯(か)うして眠(ねむ)るんだなと思つてはつとする。すると、其瞬間に眼(め)が冴(さ)えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら此所(こゝ)だと思ふ。代助は殆んど毎晩の様に此好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も繰(く)り返した。仕舞には自分ながら辟易した。どうかして、此苦痛を逃れ様と思つた。のみならず、つく/″\自分は愚物であると考へた。自分の不明瞭な意識を、自分の明瞭な意識に訴へて、同時に回顧しやうとするのは、ジエームスの云つた通り、暗闇(くらやみ)を検査する為(ため)に蝋燭を点(とも)したり、独楽(こま)の運動を吟味する為(ため)に独楽(こま)を抑(おさ)へる様なもので、生涯寐(ね)られつこない訳になる。と解(わか)つてゐるが晩(ばん)になると又はつと思ふ。
此困難は約一年許りで何時(いつ)の間(ま)にか漸く遠退(とほの)いた。代助は昨夕(ゆふべ)の夢(ゆめ)と此困難とを比較して見て、妙に感じた。正気の自己(じこ)の一部分を切り放(はな)して、其儘の姿(すがた)として、知らぬ間(ま)に夢の中(なか)へ譲(ゆづ)り渡す方が趣(おもむき)があると思つたからである。同時に、此作用は気狂(きちがひ)になる時の状態と似て居はせぬかと考へ付いた。代助は今迄、自分は激昂しないから気狂(きちがひ)にはなれないと信じてゐたのである。
それから二三日は、代助も門野(かどの)も平岡の消息を聞(き)かずに過(す)ごした。四日目(よつかめ)の午過(ひるすぎ)に代助は麻布(あざぶ)のある家(いへ)へ園遊会に呼ばれて行(い)つた。御客は男女を合せて、大分(だいぶ)来(き)たが、正賓と云ふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた。これは中(なか)々の美人で、日本抔へ来(く)るには勿体ない位な容色だが、何処(どこ)で買つたものか、岐阜(ぎふ)出来(でき)の絵日傘(ゑひがさ)を得意に差(さ)してゐた。
代助も二言三言(ふたことみこと)此細君から話(はな)しかけられた。が三分(さんぷん)と経(た)たないうちに、遣(や)り切れなくなつて、すぐ退却した。あとは、日本服を着(き)て、わざと島田に結(い)つた令嬢と、長らく紐育(ニユーヨーク)で商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた。此某は英語を喋舌(しやべ)る天才を以て自ら任ずる男で、欠(か)かさず英語会へ出席して、日本人と英語の会話を遣(や)つて、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの楽(たのし)みにしてゐる。何か云つては、あとでさも可笑(おか)しさうに、げら/\笑(わら)ふ癖(くせ)がある。英国人が時によると怪訝(けげん)な顔(かほ)をしてゐる。代助はあれ丈は已めたら可(よ)からうと思つた。令嬢も中々旨(うま)い。是は米国婦人を家庭教師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘である。代助は、顔より言葉の方が達者だと考へながら、つく/″\感心して聞いてゐた。
「兄(あに)の様になると、宅(うち)にゐても、客に来(き)ても同じ心持ちなんだらう。斯(か)う世の中(なか)に慣れ切つて仕舞つても、楽しみがなくつて、詰(つま)らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の様子を見てゐた。
代助は、誠吾の始終忙(いそが)しがつてゐる様子を知つてゐる。又その忙(いそが)しさの過半は、斯(か)う云ふ会合から出来上(できあ)がつてゐるといふ事実も心得てゐる。さうして、別に厭(いや)な顔(かほ)もせず、一口(ひとくち)の不平も零(こぼ)さず、不規則に酒を飲んだり、物(もの)を食(く)つたり、女を相手にしたり、してゐながら、何時(いつ)見ても疲(つか)れた態(たい)もなく、噪(さわ)ぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆に敬服してゐる。
誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ上(あが)つたり、晩餐に出(で)たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部に行つたり、新橋に人を送つたり、横浜に人を迎へたり、大磯へ御機嫌伺ひに行つたり、朝から晩迄多勢の集まる所へ顔を出(だ)して、得意にも見えなければ、失意にも思はれない様子は、斯(か)う云ふ生活に慣(な)れ抜(ぬ)いて、海月(くらげ)が海(うみ)に漂(たゞよ)ひながら、塩水(しほみづ)を辛(から)く感じ得ない様なものだらうと代助は考へてゐる。
だが面白くはない。話し相手としては、兄(あに)よりも嫂(あによめ)の方が、代助に取つて遥かに興味がある。兄(あに)に逢ふと屹度何(ど)うだいと云ふ。以太利に地震があつたぢやないかと云ふ。土耳古の天子が廃されたぢやないかと云ふ。其外、向ふ島の花はもう駄目になつた、横浜にある外国船の船底(ふなぞこ)に大蛇(だいぢや)が飼(か)つてあつた、誰(だれ)が鉄道で轢(ひ)かれた、ぢやないかと云ふ。みんな新聞に出た事許(ばかり)である。其代り、当らず障らずの材料はいくらでも持つて居る。いつ迄経(た)つても種(たね)が尽きる様子が見えない。
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。今(いま)日本(にほん)の小説家では誰(だれ)が一番偉(えら)いのかねと聞く事もある。要するに文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識であるが、尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞くんだから、代助も返事がし易(やす)い。
「晩(ばん)は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日(あした)の晩(ばん)帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過(す)ぎて、其尻を兄(あに)になすり付けた覚はある。其時兄(あに)は叱るかと思ひの外(ほか)、さうか、困り者だな、親爺(おやぢ)には内々で置けと云つて嫂(あによめ)を通(とほ)して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口(ひとくち)の小言(こごと)も云はなかつた。代助は其時から、兄(あにき)に恐縮して仕舞つた。其後(そののち)小遣(こづかひ)に困(こま)る事はよくあるが、困るたんびに嫂(あによめ)を痛(いた)めて事を済ましてゐた。従つて斯(か)う云ふ事件に関して兄(あに)との交渉は、まあ初対面の様なものである。
誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない許(ばかり)ではない、返(かへ)す返(かへ)さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には放(ほう)つて置けば自(おのづ)から何(ど)うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住(す)んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子(むすこ)を頼(たの)まれて宅(うち)へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、前(まへ)以て国から送つてある学資も旅費も藤野が使(つか)ひ込(こ)んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼(たの)みに来(き)た事がある。無論誠吾が直(ぢか)に逢つたのではないが、妻(さい)に云ひ付(つ)けて断(ことわ)らした。夫でも其子(そのこ)は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を済(す)ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家(かしや)の敷金(しききん)を、つい使(つか)つて仕舞つて、借家人(しやくやにん)が明日(あす)引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて来(き)た事がある。然し是も断(ことわ)らした。夫でも別(べつ)に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ斯(こ)んな種類の例ばかりであつた。
其日誠吾は中々(なか/\)金(かね)を貸して遣(や)らうと云はなかつた。代助も三千代(みちよ)が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言(なきごと)は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない兄(あに)を、其所(そこ)迄連(つ)れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口(くち)にすれば、兄(あに)には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方(あつち)へ行(い)つたり此方(こつち)へ来(き)たりして、飲んでゐた。飲みながらも、親爺(おやぢ)の所謂熱誠が足りないとは、此所(こゝ)の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が気障(きざ)だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど気障(きざ)なものはないと自覚してゐる。兄(あに)には其辺の消息がよく解(わか)つてゐる。だから此手で遣(や)り損(そこ)なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を落(おと)す事になる。と気が付(つ)いてゐる。
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\飯(めし)を掻き込んでゐた。
斯(か)う考へた様なものゝ、別に兄(あに)を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今茲(こゝ)で平岡の為(ため)に判(はん)を押(お)して、連借でもしたら、何(ど)うするだらう。矢っ張り彼(あ)の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。兄(あに)は其所(そこ)迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。
代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の為(ため)に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、兄(あに)が其所(そこ)を見抜いて金(かね)を貸さないとすると、一寸(ちよつと)意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。――其所(そこ)迄来(き)て、代助は自分ながら、あんまり性質(たち)が能くないなと心(こころ)のうちで苦笑した。
けれども、唯一(ひと)つ慥(たしか)な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。
代助は近頃流行語の様に人が使ふ、現代的とか不安とか云ふ言葉を、あまり口(くち)にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云はずと知れてゐると考へたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分丈で信じて居たからである。
代助は露西亜文学に出(で)て来(く)る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈してゐる。仏蘭西文学に出てくる不安を、有夫姦の多いためと見てゐる。ダヌンチオによつて代表される以太利文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断してゐる。だから日本の文学者が、好んで不安と云ふ側(がは)からのみ社会を描(ゑが)き出すのを、舶来の唐物(とうぶつ)の様に見傚してゐる。
理智的に物を疑ふ方の不安は、学校時代に、有(あ)つたにはあつたが、ある所迄進行して、ぴたりと留(とま)つて、夫から逆戻りをして仕舞つた。丁度天へ向つて石を抛(な)げた様なものである。代助は今では、なまじい石抔を抛げなければ可(よ)かつたと思つてゐる。禅坊さんの所謂大疑現前(だいぎげんぜん)抔と云ふ境界は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知国である。代助は、斯(か)う真卒性急に万事を疑ふには、あまりに利口(りこう)に生れ過(す)ぎた男である。
代助は門野(かどの)の賞(ほ)めた「煤烟」を読んでゐる。今日(けふ)は紅茶々碗の傍(そば)に新聞を置いたなり、開(あ)けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金(かね)に不自由のない男だから、贅沢(ぜいたく)の結果(けつくわ)あゝ云ふ悪戯(いたづら)をしても無理とは思へないが、「煤烟」の主人公に至つては、そんな余地のない程に貧(まづ)しい人である。それを彼所迄(あすこまで)押(お)して行くには、全く情愛(じやうあい)の力でなくつちや出来る筈のものでない。所が、要吉といふ人物にも、朋子(ともこ)といふ女にも、誠(まこと)の愛で、已むなく社会の外(そと)に押し流されて行く様子が見えない。彼等を動(うご)かす内面の力は何であらうと考へると、代助は不審である。あゝいふ境遇に居て、あゝ云ふ事を断行し得る主人公は、恐らく不安ぢやあるまい。これを断行するに躇する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があつて然るべき筈だ。代助は独りで考へるたびに、自分は特殊人(オリヂナル)だと思ふ。けれども要吉の特殊人(オリヂナル)たるに至つては、自分より遥かに上手(うはて)であると承認した。それで此間(このあひだ)迄は好奇心に駆(か)られて「煤烟」を読んでゐたが、昨今になつて、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思はれ出したので、眼(め)を通さない事がよくある。
代助は椅子の上(うへ)で、時々(とき/″\)身を動(うご)かした。さうして、自分では飽く迄落ち付いて居ると思つてゐた。やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、例(いつも)の通り読書(どくしよ)に取りかゝつた。約二時間ばかりは故障なく進行したが、ある頁(ページ)の中頃まで来(き)て急に休(や)めて頬杖を突(つ)いた。さうして、傍(そば)にあつた新聞を取つて、「煤烟」を読んだ。呼吸の合はない事は同じ事である。それから外(ほか)の雑報を読んだ。大隈伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつゝある生徒側の味方をしてゐる。それが中々強い言葉で出(で)てゐる。代助は斯う云ふ記事を読(よ)むと、是は大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる為(ため)の方便だと解釈する。代助は新聞を放り出(だ)した。
誠太郎の注文を能(よ)く聞(き)いて見ると、相撲が始まつたら、回向院へ連(つ)れて行つて、正面の最上等の所で見物させろといふのであつた。代助は快(こゝろ)よく引き受けた。すると誠太郎は嬉(うれ)しさうな顔(かほ)をして、突然(とつぜん)、
「叔父(おぢ)さんはのらくらして居るけれども実際偉(えら)いんですつてね」と云つた。代助も是には一寸(ちよつと)呆(あき)れた。仕方なしに、
誠太郎の云ふ所によると、昨夕(ゆふべ)兄(あに)が宅(うち)へ帰つてから、父(ちゝ)と嫂(あによめ)と三人して、代助の合評をしたらしい。小供のいふ事だから、能く分(わか)らないが、比較的頭(あたま)が可(い)いので、能く断片的に其時の言葉を覚えてゐる。父(ちゝ)は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。兄(あに)は之に対して、あゝ遣(や)つてゐても、あれで中々解(わか)つた所がある。当分放(ほう)つて置(お)くが可(い)い。放(ほう)つて置(お)いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か遣(や)るだらうと弁護したのださうだ。すると嫂(あによめ)がそれに賛成して、一週間許り前占者(うらなひしや)に見てもらつたら、此人(このひと)は屹度人の上(かみ)に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのださうだ。
今日(こんにち)の東京市、ことに場末(ばすえ)の東京市には、至る所に此種(このしゆ)の家(いへ)が散点してゐる、のみならず、梅雨(つゆ)に入(い)つた蚤(のみ)の如く、日毎に、格外の増加律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の発展(はつてん)と名(な)づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好の象徴(シンボル)とした。
代助は平岡が何故(なぜ)こんな態度で自分に応接するか能く心得てゐた。決して自分に中(あた)るのぢやない、つまり世間(せけん)に中(あた)るんである、否己(おの)れに中(あた)つてゐるんだと思つて、却つて気の毒になつた。けれども代助の様な神経には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ腹(はら)が立たない丈である。
「うん、まあ、悪(わる)くつても仕方(しかた)がない。気に入つた家(うち)へ這入らうと思へば、株(かぶ)でも遣(や)るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な家(うち)はみんな株屋が拵(こしら)へるんだつて云ふぢやないか」
云ふ事は落ち付(つ)いてゐるが、代助が聞(き)くと却つて焦(あせ)つて探(さが)してゐる様にしか取れない。代助は、昨日(きのふ)兄(あに)と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構(かま)へてゐる向ふの体面を、わざと此方(こつち)から毀損する様な気がしたからである。其上(そのうへ)金(かね)の事に付(つ)いては平岡からはまだ一言(いちげん)の相談も受けた事もない。だから表向(おもてむき)挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯(か)うして黙(だま)つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴(やつ)だと悪(わる)く思はれるに極(きま)つてゐる。けれども今(いま)の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間(にんげん)ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回(まは)してゐた。渡金(めつき)を金(きん)に通用させ様とする切(せつ)ない工面より、真鍮を真鍮で通(とほ)して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽(らく)である。と今は考へてゐる。
代助が真鍮を以て甘(あま)んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来(き)たしたといふ様な、小説じみた歴史を有(も)つてゐる為(ため)ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金(めつき)を自分で剥がして来(き)たに過(す)ぎない。代助は此渡金(めつき)の大半をもつて、親爺(おやぢ)が捺摺(なす)り付けたものと信じてゐる。其時分(じぶん)は親爺(おやぢ)が金(きん)に見えた。多くの先輩が金(きん)に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金(きん)に見えた。だから自分の渡金(めつき)が辛(つら)かつた。早く金(きん)になりたいと焦(あせ)つて見た。所が、他(ほか)のものゝ地金(ぢがね)へ、自分の眼光がぢかに打(ぶ)つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出(だ)した。
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄(あに)と喧嘩をしても、父(ちゝ)と口論をしても、平岡の為(ため)に計つたらう、又其計(はか)つた通りを平岡の所へ来(き)て事々(こと/″\)しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
それで肝心の話は一二言で已(や)めて、あとは色々な雑談に時を過(す)ごすうちに酒が出(で)た。三千代が徳利の尻(しり)を持つて御酌をした。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働(はた)らいてゐる。又是からも働(はた)らく積(つもり)だ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、其君(そのきみ)は何も為(し)ないぢやないか。君は世の中(なか)を、有(あり)の儘(まゝ)で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘(うそ)だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに違(ちがひ)ない。僕は僕の意志を現実社会に働(はたら)き掛(か)けて、其現実社会が、僕の意志の為(ため)に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値(かち)を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭(あたま)の中(なか)の世界と、頭(あたま)の外(そと)の世界を別々(べつ/\)に建立(こんりう)して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故(なぜ)と云つて見給へ。僕のは其不調和を外(そと)へ出(だ)した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面(ぐわいめん)に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度(ど)は少(すく)ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可(いけ)ないんだらう」
「何故(なぜ)働(はたら)かないつて、そりや僕が悪(わる)いんぢやない。つまり世(よ)の中(なか)が悪(わる)いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働(はたら)かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震(ぶる)ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時(いつ)になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許(ばか)りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行(おくゆき)を削(けづ)つて、一等国丈の間口(まぐち)を張(は)つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨(ひさん)なものだ。牛(うし)と競争をする蛙(かへる)と同じ事で、もう君、腹(はら)が裂(さ)けるよ。其影響はみんな我々個人の上(うへ)に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭(あたま)に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日(こんにち)の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊(こんぱい)と、身体の衰弱とは不幸にして伴(とも)なつてゐる。のみならず、道徳の敗退(はいたい)も一所に来(き)てゐる。日本国中何所(どこ)を見渡したつて、輝(かゞや)いてる断面(だんめん)は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間(あひだ)に立つて僕一人(ひとり)が、何と云つたつて、何を為(し)たつて、仕様がないさ。僕は元来怠(なま)けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠(なま)けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣(や)る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝(か)つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来(く)るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有(あり)の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中(うち)僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外(ほか)の人を、此方(こつち)の考へ通りにするなんて、到底出来(でき)た話ぢやありやしないもの――」
代助は盃(さかづき)へ唇(くちびる)を付(つ)けながら、是から先(さき)はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ直(なほ)させる為(ため)の弁論でもなし、又平岡から意見されに来(き)た訪問でもない。二人(ふたり)はいつ迄立(た)つても、二人(ふたり)として離(はな)れてゐなければならない運命を有(も)つてゐるんだと、始めから心付(こゝろづい)てゐるから、議論は能い加減に引き上(あ)げて、三千代(みちよ)の仲間(なかま)入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来(き)やうと試みた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当(あた)つて、現実と悪闘(あくとう)してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱(ひんじやく)だつて、弱虫(よはむし)だつて、働(はた)らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の中(なか)が堕落(だらく)したつて、世の中(なか)の堕落に気が付(つ)かないで、其中(うち)に活動するんだからね。君の様な暇人(ひまじん)から見れば日本の貧乏(びんぼう)や、僕等の堕落(だらく)が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて口(くち)にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙(いそ)がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
「そんな論理学の命題(めいだい)見た様なものは分(わか)らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「夫れ見給へ。食(く)ふ方が目的で働(はた)らく方が方便なら、食(く)ひ易(やす)い様に、働(はた)らき方(かた)を合(あは)せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働(はた)らいたつて、又どう働(はた)らいたつて、構はない、只麺麭(パン)が得られゝば好(い)いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「では極(ごく)上品な例で説明してやらう。古臭(ふるくさ)い話(はなし)だが、ある本で斯(こ)んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵(こしら)へたものを食(く)つて見ると頗(すこぶ)る不味(まづ)かつたんで、大変小言(こごと)を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食(く)はして、叱(しか)られたものだから、其次(そのつぎ)からは二流もしくは三流の料理を主人(しゆじん)にあてがつて、始終褒(ほ)められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為(ため)に働らく事は抜目(ぬけめ)のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働(はた)らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働(はた)らきでなくつちや、真面目(まじめ)な仕事は出来(でき)るものぢやないんだよ」
まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の心臓(しんぞう)の鼓動を、増したり、減(へら)したり、随意に変化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試験する癖(くせ)のある代助は、ためしに遣(や)つて見たくなつて、一日(いちじつ)に二三回位怖々(こわ/″\)ながら試(ため)してゐるうちに、何(ど)うやら、ウエーバーと同じ様になりさうなので、急に驚ろいて已めにした。
休息しながら、斯(か)う頭(あたま)が妙な方面に鋭どく働(はたら)き出(だ)しちや、身体(からだ)の毒だから、些(ち)と旅行でもしやうかと思つて見た。一(ひと)つは近来持ち上(あが)つた結婚問題を避(さ)けるに都合が好(い)いとも考へた。すると又平岡の事が妙に気に掛(かゝ)つて、転地する計画をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢っ張り三千代(みちよ)の事が気にかかるのである。代助は其所(そこ)迄押して来(き)ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。
代助が三千代(みちよ)と知(し)り合(あひ)になつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃(ころ)であつた。代助は長井家(け)の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて出(で)た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。色合(いろあひ)から云ふと、もつと地味(ぢみ)で、気持(きもち)から云ふと、もう少し沈(しづ)んでゐた。其頃、代助の学友に菅沼(すがぬま)と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく附合(つきあ)つてゐた。三千代(みちよ)は其妹(そのいもと)である。
代助は其所(そこ)へ能(よ)く遊びに行(い)つた。始めて三千代(みちよ)に逢(あ)つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて来(き)た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持(も)つて出(で)る丈であつた。其癖(くせ)狭い家(うち)だから、隣(となり)の室(へや)にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話(はな)しながら、隣(となり)の室(へや)に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に行(ゆ)かなかつた。
三千代(みちよ)と口(くち)を利(き)き出(だ)したのは、どんな機会(はづみ)であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて居(ゐ)ない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に厭(あ)いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦口(くち)を利(き)き出(だ)してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、二人(ふたり)はすぐ心安(こゝろやす)くなつて仕舞つた。
其年(そのとし)の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其間(あひだ)に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連(つら)なつて貰つたのだが、身体(からだ)を動(うご)かして、三千代(みちよ)の方を纏(まと)めたものは代助であつた。
結婚して間(ま)もなく二人(ふたり)は東京を去つた。国に居(ゐ)た父(ちゝ)は思はざるある事情の為(ため)に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代(みちよ)は何方(どつち)かと云へば、今(いま)心細い境遇に居る。どうかして、此東京に落付(おちつ)いてゐられる様にして遣(や)りたい気がする。代助はもう一返嫂(あによめ)に相談して、此間(このあひだ)の金(かね)を調達する工面をして見やうかと思つた。又三千代(みちよ)に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委(くわ)しく聞いて見やうかと思つた。
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗(あら)ひ浚(ざら)い※舌(しやべ)[#「口+堯」、112-13]り散(ち)らす女ではなし、よしんば何(ど)うして、そんな金(かね)が要(い)る様になつたかの事情を、詳しく聞(き)き得たにした所で、夫婦(ふうふ)の腹(はら)の中(なか)なんぞは容易に探(さぐ)られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼(かれ)の本当に知りたい点は、却つて此所(こゝ)に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故(なにゆへ)に金(かね)が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞(き)かなくつても、三千代に金(かね)を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金(かね)を拵(こしら)へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有(も)つてゐなかつたのである。
其上(そのうへ)平岡の留守へ行き中(あ)てゝ、今日(こんにち)迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家(うち)にゐる以上は、詳しい話(はなし)の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄真(ま)に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄(みえ)を張つてゐる。見栄(みえ)の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
代助は、兎も角もまづ嫂(あによめ)に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄嫂(あによめ)にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯(か)う短兵急に痛(いた)め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持(も)つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫(それ)で駄目なら、又高利でも借(か)りるのだが、代助はまだ其所(そこ)迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層(いつそ)此方(こつち)から進んで、直接に三千代(みちよ)を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭(あたま)の中(なか)に潜(ひそ)んでゐた。
代助は無論怒(おこ)つてはゐなかつた。たゞ姉弟(けうだい)から斯(か)ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更返(かへ)す気(き)だの、貰(もら)う積りだのと布衍(ふえん)すればする程馬鹿になる許(ばかり)だから、甘(あま)んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、後(あと)が大変云ひ易(やす)かつた。――
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも構(かま)やしません。いくら私(わたし)が威張つたつて、貴方(あなた)に敵(かな)ひつこないのは無論ですもの。私(わたし)と貴方(あなた)とは今迄通(どほ)りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや夫(それ)で好(い)いとして、貴方(あなた)は御父(おとう)さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左(さ)も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「そんな言訳(いひわけ)はどうでも好(い)いんですよ。貴方(あなた)から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
代助は今迄嫂(あによめ)が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は金(かね)の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の裡(うち)に感じてゐたのである。
梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此尤(もつとも)を通り越して、気が付(つ)かずにゐた。振り返つて見ると、後(うしろ)の方に姉(あね)と兄(あに)と父(ちゝ)がかたまつてゐた。自分も後戻(あともど)りをして、世間並(せけんなみ)にならなければならないと感じた。家(うち)を出(で)る時、嫂(あによめ)から無心を断わられるだらうとは気遣(きづか)つた。けれども夫(それ)が為(た)めに、大いに働(はた)らいて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。
梅子は、此機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しやうと力めた。所が代助には梅子の腹(はら)がよく解(わか)つてゐた。解(わか)れば解(わか)る程激する気にならなかつた。そのうち話題は金(かね)を離れて、再び結婚に戻(もど)つて来(き)た。代助は最近の候補者に就て、此間(このあひだ)から親爺(おやぢ)に二度程悩(なや)まされてゐる。親爺(おやぢ)の論理は何時(いつ)聞(き)いても昔し風に甚だ義理堅(かた)いものであつたが、其代り今度は左程権柄づくでもなかつた。自分の命(いのち)の親(おや)に当(あた)る人(ひと)の血統を受けたものと縁組をするのは結構な事であるから、貰(もら)つて呉れと云ふんである。さうすれば幾分か恩が返(かへ)せると云ふんである。要するに代助から見ると、何が結構なのか、何が恩返しに当るのか、丸で筋の立(た)たない主張であつた。尤も候補者自身に就ては、代助も格別の苦情は持つてゐなかつた事丈は慥かである。だから父(ちゝ)の云ふ事の当否は論弁の限(かぎり)にあらずとして、貰(もら)へば貰(もら)つても構(かま)はないのである。代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、結婚(けつこん)に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない。佐川の娘といふのは只写真で知つてゐる許であるが、夫丈でも沢山な様な気がする。――尤も写真は大分美くしかつた。――従つて、貰ふとなれば、左様(さう)面倒な条件を持ち出す考も何もない。たゞ、貰ひませうと云ふ確答が出(で)なかつた丈である。
その不明晰な態度を、父(ちゝ)に評させると、丸で要領を得てゐない鈍物同様の挨拶振になる。結婚を生死の間(あひだ)に横(よこた)はる一大要件と見傚して、あらゆる他の出来事を、これに従属させる考の嫂(あによめ)から云はせると、不可思議になる。
生涯一人(ひとり)でゐるか、或は妾(めかけ)を置いて暮(くら)すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画は丸でなかつた。只(たゞ)、今(いま)の彼は結婚といふものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を持(も)てなかつた事は慥(たしか)である。是は、彼の性情が、一図に物に向つて集注し得ないのと、彼の頭(あたま)が普通以上に鋭(する)どくつて、しかも其鋭(するど)さが、日本現代の社会状況のために、幻像(イリユージヨン)打破の方面に向(むか)つて、今日迄多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知つてゐるのとに帰着するのである。が代助は其所(そこ)迄解剖して考へる必要は認めてゐない。たゞ結婚に興味がないと云ふ、自己に明(あきら)かな事実を握(にぎ)つて、それに応じて未来を自然に延(の)ばして行く気でゐる。だから、結婚を必要事件と、初手から断定して、何時(いつ)か之を成立させ様と喘(あせ)る努力を、不自然であり、不合理であり、且つあまりに俗臭を帯びたものと解釈した。
家(うち)へ着(つ)いたら、婆さんも門野(かどの)も大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人(ふたり)とも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置し様(やう)かと思案して見た。然し分別を凝(こ)らす迄には至らなかつた。父(ちゝ)と兄(あに)の近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡を極(き)めた。さうして眠(ねむり)に入つた。
其明日(そのあくるひ)の新聞に始めて日糖事件なるものがあらはれた。砂糖を製造する会社の重役が、会社の金(かね)を使用して代議士の何名かを買収したと云ふ報知である。門野は例の如く重役や代議士の拘引されるのを痛快だ々々々と評してゐたが、代助にはそれ程痛快にも思へなかつた。が、二三日するうちに取り調べを受けるものゝ数(かず)が大分多くなつて来(き)て、世間ではこれを大疑獄の様に囃し立(た)てる様になつた。ある新聞ではこれを英国に対する検挙と称した。其説明には、英国大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし出(だ)したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を下(くだ)したのだとあつた。
日糖事件の起る少し前、東洋汽船といふ会社は、壱割二分の配当をした後(あと)の半期に、八十万円の欠損を報告した事があつた。それを代助は記憶して居た。其時の新聞が此報告を評して信を置くに足らんと云つた事も記憶してゐた。
代助は自分の父(ちゝ)と兄(あに)の関係してゐる会社に就ては何事(なにごと)も知らなかつた。けれども、いつ何(ど)んな事が起るまいものでもないとは常から考へてゐた。さうして、父(ちゝ)も兄(あに)もあらゆる点に於て神聖であるとは信じてゐなかつた。もし八釜敷(し)い吟味をされたなら、両方共拘引に価(あたひ)する資格が出来はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、父(ちゝ)と兄(あに)の財産が、彼等の脳力と手腕丈で、誰(だれ)が見ても尤(もつとも)と認める様に、作(つく)り上(あ)げられたとは肯(うけが)はなかつた。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与へた事がある。其時たゞ貰(もら)つた地面の御蔭で、今は非常な金満家になつたものがある。けれども是は寧ろ天の与へた偶然である。父(ちゝ)と兄(あに)の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人為的に且政略的に、暖室(むろ)を造つて、拵(こしら)え上(あ)げたんだらうと代助は鑑定してゐた。
代助は斯(か)う云ふ考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかつた。父(ちゝ)と兄(あに)の会社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事丈が多少気に掛つた。けれども、徒手(てぶら)で行くのが面白くないんで、其うちの事と腹(はら)の中(なか)で料簡を定(さだ)めて、日々(にち/\)読書に耽つて四五日過(すご)した。不思議な事に其後(そのご)例の金(かね)の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて来(こ)なかつた。代助は心(こゝろ)のうちに、あるひは三千代が又一人(ひとり)で返事を聞(き)きに来(く)る事もあるだらうと、実(じつ)は心待(こゝろまち)に待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。
仕舞にアンニユイを感じ出(だ)した。何処(どこ)か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜(さが)して、芝居でも見やうと云ふ気を起した。神楽坂から外濠(そとぼり)線へ乗つて、御茶の水(みづ)迄来(く)るうちに気が変(かは)つて、森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は学校を出ると、教師は厭(いや)だから文学を職業とすると云ひ出して、他(ほか)のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未だに名声も上(あが)らず、窮々(きう/\)云つて原稿生活を持続してゐる。自分の関係のある雑誌に、何(なん)でも好(い)いから書けと逼(せま)るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に曝(さら)されたぎり、永久人間世界から何処(どこ)かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、己(おれ)を見ろと云ふのが口癖(くちくせ)であつた。けれども外(ほか)の人(ひと)に聞(き)くと、寺尾ももう陥落(かんらく)するだらうと云ふ評判であつた。大変露西亜ものが好(すき)で、ことに人が名前を知らない作家が好(すき)で、なけなしの銭(ぜに)を工面しては新刊物(もの)を買ふのが道楽であつた。あまり気焔が高かつた時、代助が、文学者も恐露病に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと冷評(ひやかし)返した事がある。すると寺尾は真面目(まじめ)な顔(かほ)をして、戦争は何時(いつ)でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや詰(つま)らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。
玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は真中(まんなか)へ一貫張(ばり)の机を据ゑて、頭痛がすると云つて鉢巻(はちまき)をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を書(か)いてゐた。邪魔ならまた来(く)ると云ふと、帰らんでもいゝ、もう今朝(けさ)から五五(ごご)、二円五十銭丈稼(かせ)いだからと云ふ挨拶であつた。やがて鉢巻(はちまき)を外(はづ)して、話(はなし)を始(はじ)めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を誰(だれ)も賞(ほ)めないので、其対抗運動として、自分の方では他(ひと)を貶(けな)すんだらうと思つた。ちと、左様(さう)云ふ意見を発表したら好(い)いぢやないかと勧めると、左様(さう)は行(い)かないよと笑つてゐる。何故(なぜ)と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に暮(くら)せる身分なら随分云つて見せるが――何(なに)しろ食(く)ふんだからね。どうせ真面目(まじめ)な商買ぢやないさ。と云つた。代助は、夫(それ)で結構だ、確(しつ)かり遣(や)り玉へと奨励した。すると寺尾は、いや些(ちつ)とも結構ぢやない。どうかして、真面目(まじめ)になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと金(かね)を借(か)して僕を真面目(まじめ)にする了見はないかと聞(き)いた。いや、君が今の様な事をして、夫(それ)で真面目(まじめ)だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと調戯(からか)つて、代助は表へ出(で)た。
代助はすぐ返事を書いた。さうして出来る丈暖(あたゝ)かい言葉を使つて感謝の意を表した。代助が斯(か)う云ふ気分になる事は兄(あに)に対してもない。父(ちゝ)に対してもない。世間一般に対しては固よりない。近来は梅子に対してもあまり起(おこ)らなかつたのである。
代助はすぐ三千代の所へ出掛け様かと考へた。実(じつ)を云ふと、二百円は代助に取つて中途半端(ちうとはんぱ)な額(たか)であつた。是丈(これだけ)呉れるなら、一層(いつそ)思ひ切つて、此方(こつち)の強請(ねだ)つた通りにして、満足を買へばいゝにと云ふ気も出(で)た。が、それは代助の頭(あたま)が梅子を離れて三千代の方へ向(む)いた時の事であつた。その上(うへ)、女は如何(いか)に思ひ切つた女でも、感情上中途半端(ちうとはんぱ)なものであると信じてゐる代助には、それが別段不平にも思へなかつた。否(いな)女の斯う云ふ態度の方が、却つて男性の断然たる所置よりも、同情の弾力性を示してゐる点に於て、快(こゝろ)よいものと考へてゐた。だから、もし二百円を自分に贈つたものが、梅子でなくつて、父(ちゝ)であつたとすれば、代助は、それを経済的中途半端(ちうとはんぱ)と解釈して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである
代助は懐(ふところ)から例の小切手(ぎつて)を出(だ)した。二つに折(を)れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛(か)けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
代助は金(かね)を借りて来(き)た由来を、極ざつと説明して、自分は斯(か)ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出(だ)さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは悪(わる)く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた。
「それは、私(わたくし)も承知してゐますわ。けれども、困(こま)つて、何(ど)うする事も出来(でき)ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに詫(わび)を述べた。代助はそこで念を押した。
代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質(たち)の悪(わる)い金(かね)を借(か)り始めたのが転々(てん/\)して祟つてゐるんだと云ふ事を聞(き)いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通(とほ)つてゐたのだが、三千代が産後(さんご)心臓が悪(わる)くなつて、ぶら/\し出(だ)すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、夫程(それほど)烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際(つきあひ)上已(やむ)を得ないんだらうと諦(あきら)めてゐたが、仕舞にはそれが段々高(かう)じて、程度(ほうづ)が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば身体(からだ)が悪(わる)くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。私(わたくし)が悪(わる)いんですと三千代はわざ/\断わつた。けれども又淋しい顔(かほ)をして、責(せ)めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸(さぞ)可(よ)かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した。
代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方(こつち)から問(と)ふのを控えた。帰りがけに、
「僕も実は御礼に来(き)た様(やう)なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出(で)るだらうから」と丸で三千代と自分を別物(べつもの)にした言分(いひぶん)であつた。代助はたゞ、
「僕はことによると、もう実業は已(や)めるかも知れない。実際内幕(うちまく)を知れば知る程厭(いや)になる。其上此方(こつち)へ来(き)て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底(しんそこ)かららしい告白をした。代助は、一口(ひとくち)、
来(き)た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口(くち)があるから出様と云ふし、少し要領を欠(か)いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪(けんを)の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が萌(きざ)してゐると判じた。昔しの代助も、時々(とき/″\)わが胸のうちに、斯う云ふ影(かげ)を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に悲(かな)しかつた。今(いま)は其悲(かな)しみも殆んど薄(うす)く剥(は)がれて仕舞つた。だから自分で黒い影(かげ)を凝(じつ)と見詰めて見る。さうして、これが真(まこと)だと思ふ。已(やむ)を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
斯(か)う云ふ意味の孤独の底(そこ)に陥(おちい)つて煩悶するには、代助の頭(あたま)はあまりに判然(はつきり)し過(すぎ)てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の踏(ふ)むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、今(いま)の自分の眼(まなこ)に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に過(すぎ)ないと見傚した。けれども、同時に、両人(ふたり)の間(あひだ)に横(よこ)たはる一種の特別な事情の為(ため)、此隔離が世間並(せけんなみ)よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは三千代(みちよ)の結婚であつた。三千代(みちよ)を平岡に周旋したものは元来が自分であつた。それを当時に悔(くゆ)る様な薄弱な頭脳(づのう)ではなかつた。今日(こんにち)に至つて振り返つて見ても、自分の所作(しよさ)は、過去を照(て)らす鮮(あざや)かな名誉であつた。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人(ににん)の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てゝ、其前に頭(あたま)を下(さ)げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり/\と何故(なぜ)三千代を貰(もら)つたかと思ふ様になつた。代助は何処(どこ)かしらで、何故(なぜ)三千代を周旋したかと云ふ声を聞いた。
代助は人類の一人(いちにん)として、互(たがひ)を腹(はら)の中(なか)で侮辱する事なしには、互(たがひ)に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)と心得てゐた。
この二(ふた)つの因数(フアクトー)は、何処(どこ)かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較(なら)べる日の来(く)る迄は、此平衡は日本に於て得(え)られないものと代助は信じてゐた。さうして、斯(か)ゝる日(ひ)は、到底日本の上を照(て)らさないものと諦(あきら)めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ頭(あたま)の中(なか)に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の一人(いちにん)として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。
代助の父(ちゝ)の場合は、一般に比(くら)べると、稍(やゝ)特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近(てぢか)な真(まこと)を、眼中(がんちう)に置かない無理なものであつた。にも拘(かゝ)はらず、父(ちゝ)は習慣に囚へられて、未(いま)だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為(ため)に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父(ちゝ)は自認してゐなかつた。昔(むかし)の自分が、昔通(むかしどほ)りの心得で、今の事業を是迄に成し遂(と)げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭(せば)める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充(み)たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之(これ)を敢てする個人は、矛盾の為(ため)に大苦痛を受(う)けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明(あき)らかで、何の為(ため)の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍(にぶ)い劣等な人種である。代助は父に対する毎(ごと)に、父(ちゝ)は自己を隠蔽(いんぺい)する偽君子(ぎくんし)か、もしくは分別の足らない愚物(ぐぶつ)か、何方(どつち)かでなくてはならない様な気がした。さうして、左(さ)う云ふ気がするのが厭(いや)でならなかつた。
代助は凡ての道徳の出立点(しつたつてん)は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭(あたま)の中に硬張(こわば)つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過(す)ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時(とき)、昔(むかし)の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父(ちゝ)から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭(あたま)の中(なか)に起した。代助はそれを恨(うら)めしく思つてゐる位であつた。
代助は此前(このまへ)梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から一寸(ちよつと)奥(おく)へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御父(とう)さんはゐるんですかと空(そら)とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、今日(けふ)はちと急(いそ)ぐから廃(よ)さうと帰つて来(き)た。
「兄(にい)さん、此間中(このあひだぢう)は何だか大変忙(いそが)しかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
兄(あに)の答は何時(いつ)でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも楽(らく)に其返事の中(なか)に這入(はいつ)てゐた。
「貰(もら)つて置(お)くがいゝ。さう老人(としより)に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと判然(はつきり)した語勢で、
「まさか此間中(このあひだぢう)の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。兄(あに)は寐転んだ儘、
代助はそれから後(あと)は、一言(ひとこと)も口(くち)を利(き)かなくなつた。只謹んで親爺(おやぢ)の云ふことを聴(き)いてゐた。父(ちゝ)も代助から斯(か)う云ふ態度に出られると、長い間(あひだ)自分一人(ひとり)で、講義でもする様に、述(の)べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞(き)いてゐた。
父(ちゝ)の長(なが)談義のうちに、代助は二三の新(あたら)しい点も認(みと)めた。その一つは、御前は一体是からさき何(ど)うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄父(ちゝ)からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外(はづ)す事に慣(な)れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口(くち)から出任(でまか)せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父(ちゝ)を怒(おこ)らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間父(ちゝ)の頭(あたま)を教育した上(うへ)でなくつては、通じない理窟になる。何故(なぜ)と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破(いひやぶ)る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、父(ちゝ)が、其通りを聞(き)いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯通(つう)じつこないかも知れない。父(ちゝ)の気に入る様にするのは、何でも、国家の為(ため)とか、天下の為(ため)とか、景気の好(い)い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述(の)べて置けば済(す)むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは馬鹿気(ばかげ)てゐて、口(くち)へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序立(だ)てゝ来(き)て、御相談をする積であると答へた。答へた後(あと)で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
代助は次(つぎ)に、独立の出来る丈の財産が欲(ほ)しくはないかと聞かれた。代助は無論欲(ほ)しいと答へた。すると、父(ちゝ)が、では佐川の娘(むすめ)を貰(もら)つたら好(よ)からうと云ふ条件を付(つ)けた。其財産は佐川の娘(むすめ)が持つて来(く)るのか、又は父(ちゝ)が呉(く)れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少(すこ)し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已(や)めた。
次(つぎ)に、一層(いつそ)洋行する気はないかと云はれた。代助は好(い)いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出(で)て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父(ちゝ)の顔(かほ)が赤(あか)くなつた。
代助は父(ちゝ)を怒(おこ)らせる気は少しもなかつたのである。彼(かれ)の近頃の主義として、人(ひと)と喧嘩をするのは、人間(にんげん)の堕落の一範鋳(はんちう)になつてゐた。喧嘩(けんくわ)の一部分として、人(ひと)を怒(おこ)らせるのは、怒(おこ)らせる事自身よりは、怒(おこ)つた人(ひと)の顔色(かほいろ)が、如何に不愉快にわが眼(め)に映(えい)ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷(きづつ)ける打撃に外(ほか)ならぬと心得てゐた。彼(かれ)は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有(も)つてゐた。けれども、それが為(ため)に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰(ばつ)を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬(き)つたものゝ受くる罰(ばつ)は、斬(き)られた人(ひと)の肉(にく)から出(で)る血潮であると固(かた)く信(しん)じてゐた。迸(ほとば)しる血の色を見て、清(きよ)い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔(かほ)の色(いろ)を赤くした父(ちゝ)を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、父(ちゝ)の云ふ通りにしやうと云ふ気は些(ちつ)とも起らなかつた。彼(かれ)は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。
其時父(ちゝ)は頗(すこぶ)る熱した語気で、先(ま)づ自分の年(とし)を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁(よめ)を持(も)たせるのは親(おや)の義務であると云ふ事、嫁(よめ)の資格其他に就ては、本人よりも親(おや)の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、他(ひと)の親切は、其当時にこそ余計な御世話に見えるが、後(あと)になると、もう一遍うるさく干(かん)渉して貰ひたい時機が来(く)るものであるといふ事を、非常に叮嚀に説(と)いた。代助は慎重な態度で、聴(き)いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾(だく)の意を表さなかつた。すると父(ちゝ)はわざと抑(おさ)えた調子で、
「別(べつ)にそんな貰ひたいのもありません」と明(あき)らかな返事をした。すると父(ちゝ)は急に肝の発した様な声で、
「ぢや、少(すこ)しは此方(こつち)の事も考へて呉れたら好(よ)からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然父(ちゝ)が代助を離れて、彼(かれ)自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の変化の上(うへ)に注(そゝ)がれた丈であつた。
父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、何(ど)うしても論理を離れる事の出来ない場合がある。夫(それ)が為(た)め、よく人(ひと)から、相手を遣(や)り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云ふと、彼(かれ)程人を遣(や)り込める事の嫌な男はないのである。
代助はたゞ茫然として父(ちゝ)の顔(かほ)を見てゐた。父(ちゝ)は何(ど)の点に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分(わか)らなかつたからである。しばらくして、
其上(そのうへ)彼(かれ)は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ出(だ)した。其不安は人と人との間(あひだ)に信仰がない源因から起(おこ)る野蛮程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神(かみ)に信仰を置く事を喜(よろこ)ばぬ人であつた。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質(たち)であつた。けれども、相互(さうご)に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを解脱(げだつ)する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた。だから、神(かみ)のある国では、人が嘘(うそ)を吐(つ)くものと極(き)めた。然し今の日本は、神(かみ)にも人(ひと)にも信仰のない国柄(くにがら)であるといふ事を発見した。さうして、彼(かれ)は之を一(いつ)に日本の経済事情に帰着せしめた。
四五日前、彼は掏摸(すり)と結託して悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ。それが一人(ひとり)や二人(ふたり)ではなかつた。他の新聞の記(しる)す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥(おちい)るかも知れないさうである。代助は其記事を読んだとき、たゞ苦笑した丈であつた。さうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際尤もだと思つた。
代助が父に逢(あ)つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同様の気がした。が、これはたゞ父(ちゝ)に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌はしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかつた。それが事実となつて眼前にあらはれても、矢張り父(ちゝ)を尤もだと肯(うけが)ふ積りだつたからである。
代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を好(す)く気になれない丈であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に対しても矢張り信仰は有(も)ち得なかつた。嫂(あによめ)は実意のある女であつた。然し嫂(あによめ)は、直接生活の難関に当(あた)らない丈、それ丈兄(あに)よりも近付き易(やす)いのだと考へてゐた。
「なに帰(かへ)つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。一寸(ちよつと)神楽坂(かぐらざか)に買物(かひもの)があるから、それを済(す)まして又来(く)るからつて、云はれるもんですからな」
代助は此前(このまへ)平岡の訪問を受けてから、心待(こゝろまち)に、後(あと)から三千代の来(く)るのを待(ま)つてゐた。けれども、平岡(ひらをか)の言葉(ことば)は遂(つい)に事実として現(あらは)れて来(こ)なかつた。特別の事情があつて、三千代(みちよ)がわざと来(こ)ないのか、又は平岡が始(はじ)めから御世辞を使(つか)つたのか、疑問であるが、それがため、代助は心(こゝろ)の何処(どこ)かに空虚(くうきよ)を感じてゐた。然し彼(かれ)は此(この)空虚(くうきよ)な感じを、一つの経験として日常生活中に見出(みいだ)した迄で、其原因をどうするの、斯(か)うするのと云ふ気はあまりなかつた。此経験自身の奥(おく)を覗(のぞ)き込むと、それ以上に暗(くら)い影(かげ)がちらついてゐる様に思つたからである。
彼(かれ)は平岡の安否(あんぴ)を気(き)にかけてゐた。まだ坐食(ゐぐひ)の不安な境遇に居(お)るに違(ちがひ)ないとは思ふけれども、或は何(ど)の方面かへ、生活の行路(こうろ)を切り開く手掛りが出来(でき)たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを確(たしか)める為(ため)に、平岡(ひらをか)の後(あと)を追ふ気にはなれなかつた。彼は平岡に面(めん)するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた。と云つて、たゞ三千代の為(ため)にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を悪(にく)んでもゐなかつた。平岡の為(ため)にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。
代助はぼんやり壁(かべ)を見詰めてゐた。門野(かどの)をもう一返呼(よ)んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか何(ど)うか尋ねやうと思つたが、あまり愚だから憚(はゞ)かつた。それ許(ばかり)ではない、人(ひと)の細君が訪(たづ)ねて来(く)るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へた。又それ程待ち受ける位なら、此方(こちら)から何時(いつ)でも行(い)つて話(はなし)をすべきであると考へた。此矛盾の両面を双対(そうたい)に見た時、代助は急に自己の没論理に恥ぢざるを得なかつた。彼の腰は半ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横はる色々(いろ/\)の因数(フアクター)を自分で善(よ)く承知してゐた。さうして、今(いま)の自分に取(と)つては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから仕方(しかた)ないと思つた。且、此事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題(めいだい)を繋(つな)ぎ合(あ)はして出来上(あが)つた、自己の本体を蔑視する、形式に過ぎないと思つた。さう思つて又椅子へ腰(こし)を卸した。
代助は黙(だま)つて椅子へ腰(こし)を卸した。果して詩(し)の為(ため)に鉢(はち)の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促(うな)がされて飲んだのか、追窮する勇気も出(で)なかつた。よし前者(ぜんしや)とした所で、詩を衒(てら)つて、小説の真似なぞをした受売(うけうり)の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、
「貴方(あなた)だつて、鼻(はな)を着(つ)けて嗅(か)いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。
代助は少しでも気不味(きまづ)い様子を見せて、此上にも、女の優(やさ)しい血潮を動(うご)かすに堪えなかつた。同時に、わざと向(むか)ふの意を迎へる様な言葉を掛(か)けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云ふ所を聴いた。
此頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがつてゐるが、それは、全く此間(このあひだ)浅草の奥山(おくやま)へ一所に連(つ)れて行(い)つた結果である。あの一図な所はよく、嫂(あによめ)の気性を受け継(つ)いでゐる。然し兄(あに)の子丈あつて、一図なうちに、何処(どこ)か逼(せま)らない鷹揚(おほよう)な気象がある。誠太郎の相手をしてゐると、向ふの魂(たましひ)が遠慮なく此方(こつち)へ流(なが)れ込(こ)んで来(く)るから愉快である。実際代助は、昼夜(ちうや)の区別なく、武装を解(と)いた事(こと)のない精神に、包囲されるのが苦痛であつた。
彼は人(ひと)の羨(うら)やむ程光沢(つや)の好(い)い皮膚(ひふ)と、労働者に見出しがたい様に柔かな筋肉を有(も)つた男であつた。彼は生れて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかつた位、健康に於て幸福を享(う)けてゐた。彼はこれでこそ、生甲斐(いきがひ)があると信じてゐたのだから、彼の健康は、彼に取つて、他人(たにん)の倍以上に価値を有(も)つてゐた。彼の頭(あたま)は、彼の肉体と同じく確(たしか)であつた。たゞ始終論理に苦しめられてゐたのは事実である。それから時々(とき/″\)、頭(あたま)の中心(ちうしん)が、大弓(だいきう)の的(まと)の様に、二重(にぢう)もしくは三重(さんぢう)にかさなる様に感ずる事があつた。ことに、今日(けふ)は朝(あさ)から左様(そん)な心持がした。
代助が黙然(もくねん)として、自己(じこ)は何の為(ため)に此世(このよ)の中(なか)に生(うま)れて来(き)たかを考へるのは斯(か)う云ふ時であつた。彼は今迄何遍も此大問題を捕(とら)へて、彼(かれ)の眼前(がんぜん)に据ゑ付けて見た。其動機(どうき)は、単(たん)に哲学上の好奇心から来(き)た事(こと)もあるし、又世間(せけん)の現象が、余(あま)りに複雑(ふくざつ)な色彩(しきさい)を以て、彼(かれ)の頭(あたま)を染め付(つ)けやうと焦(あせ)るから来(く)る事もあるし、又最後には今日(こんにち)の如くアンニユイの結果として来(く)る事もあるが、其都度(つど)彼は同じ結論に到着した。然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定と異ならなかつた。彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかつた。之(これ)と反対に、生(うま)れた人間(にんげん)に、始めてある目的が出来(でき)て来(く)るのであつた。最初から客観的にある目的を拵(こし)らえて、それを人間(にんげん)に附着するのは、其人間(にんげん)の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから人間(にんげん)の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。けれども、如何な本人でも、之を随意に作る事は出来ない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向つて発表したと同様だからである。
此根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。歩(ある)きたいから歩(ある)く。すると歩(ある)くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩(ある)いたり、考(かんが)へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自(みづか)ら自己存在の目的を破壊したも同然である。
だから、代助は今日迄、自分の脳裏に願望(ぐわんもう)、嗜欲(きよく)が起るたび毎(ごと)に、是等の願望(ぐわんもう)嗜欲(きよく)を遂行するのを自己の目的として存在してゐた。二個の相容れざる願望(ぐわんもう)嗜欲(きよく)が胸に闘ふ場合も同じ事であつた。たゞ矛盾から出(で)る一目的の消耗と解釈してゐた。これを煎(せん)じ詰(つ)めると、彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである。さうして、他を偽(いつは)らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得てゐた。
此主義を出来る丈遂行する彼(かれ)は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の為(ため)に、こんな事をしてゐるのかと考へ出(だ)す事がある。彼が番町を散歩しながら、何故(なぜ)散歩しつゝあるかと疑つたのは正に是(これ)である。
其時彼(かれ)は自分ながら、自分の活力の充実してゐない事に気がつく。餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自(みづか)ら其行動の意義を中途で疑ふ様になる。彼はこれをアンニユイと名(なづ)けてゐた。アンニユイに罹(かゝ)ると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じてゐた。彼の行為の中途に於て、何(なに)の為(ため)と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに外(ほか)ならなかつたからである。
彼は高尚な生活欲の満足を冀ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の満足を買はうとする男であつた。さうして、ある点へ来(く)ると、此二つのものが火花(ひばな)を散(ち)らして切り結(むす)ぶ関門(くわんもん)があると予想してゐた。それで生活欲を低い程度に留(と)めて我慢してゐた。彼の室(へや)は普通の日本間(にほんま)であつた。是(これ)と云ふ程の大した装飾もなかつた。彼に云はせると、額(がく)さへ気の利(き)いたものは掛けてなかつた。色彩(しきさい)として眼(め)を惹(ひ)く程に美(うつく)しいのは、本棚に並べてある洋書に集められたと云ふ位であつた。彼(かれ)は今此書物の中(なか)に、茫然として坐(すは)つた。良(やゝ)あつて、これほど寐入(ねい)つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物を何(ど)うかしなければならぬと、思ひながら、室(へや)の中(なか)をぐる/\見廻(みまは)した。それから、又ぽかんとして壁(かべ)を眺(なが)めた。が、最後(さいご)に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして口(くち)の内(うち)で云つた。
「何(なん)だつて、今時分(いまじぶん)来(き)たんだ」と代助は愛想(あいそ)もなく云ひ放つた。彼と寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際してゐたのである。
「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は黙(だま)つて、寺尾の顔(かほ)を見てゐた。それは、空(むな)しい壁(かべ)を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に与へなかつた。
「なんぼ、僕(ぼく)だつて、さう無責任な翻訳は出来(でき)ないだらうぢやないか。誤訳でも指摘されると後(あと)から面倒だあね」
「ぢや成るべく少(すこ)しに仕様ぢやないか」と断(ことわ)つて置いて、符号(マーク)の附(つ)けてある所丈を見た。代助は其書物の梗概さへ聞く勇気がなかつた。相談を受けた部分にも曖昧(あいまい)な所は沢山あつた。寺尾は、やがて、
相談が済(す)むと、寺尾は例によつて、文学談を持ち出(だ)した。不思議な事に、さうなると、自己の翻訳とは違(ちが)つて、いつもの通り非常に熱心になつた。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだらうと考へて、寺尾の矛盾を可笑(おか)しく思つた。けれども面倒だから、口(くち)へは出(だ)さなかつた。
「矢っ張り、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでせう」と云ひ終つて、自(みづ)から、えへゝゝと、洒落(しやれ)の結末をつけて、書生部屋へ帰つて行つた。代助もつゞいて玄関迄出(で)た。門野は振返(ふりかへつ)た。
実を云ふと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取つた時であつた。それには、第一に着京以来御世話になつて難有いと云ふ礼が述べてあつた。それから、――其後(そのご)色々朋友や先輩の尽力を辱うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。自分も遣(や)つて見たい様な気がする。然し着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断では宜(よろ)しくあるまいと思つて、一応御相談をすると云ふ意味が後(あと)に書いてあつた。代助は、其当時(そのとうじ)平岡から、兄(あに)の会社に周旋してくれと依頼されたのを、其儘にして、断わりもせず今日(こんにち)迄放(ほう)つて置いた。ので、其返事を促(うな)がされたのだと受取つた。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過(すぎ)ると云ふ考もあつたので、翌日(よくじつ)出(で)向いて行(い)つて、色々兄(あに)の方の事情を話して当分、此方(こつち)は断念して呉れる様に頼んだ。平岡は其時(そのとき)、僕も大方(おほかた)左様(さう)だらうと思つてゐたと云つて、妙な眼(め)をして三千代の方を見(み)た。
夫(それ)から以後は可成小石川の方面へ立ち回(まは)らない事にして今夜(こんや)に至たのである。代助は竹早町へ上(あが)つて、それを向ふへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云ふ軒燈のすぐ前へ来(き)た。格子の外(そと)から声を掛(かけ)ると、洋燈(ランプ)を持つて下女が出(で)た。が平岡は夫婦とも留守であつた。代助は出先(でさき)も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗つて、本郷迄来(き)て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、麦酒(ビール)をぐい/\飲んだ。
昨夕(ゆふべ)飲んだ麦酒(ビール)は是(これ)に比(くら)べると愚(おろか)なものだと、代助は頭(あたま)を敲(たゝ)きながら考へた。幸(さいはひ)に、代助はいくら頭(あたま)が二重(にぢう)になつても、脳の活動に狂(くるひ)を受けた事がなかつた。時としては、たゞ頭(あたま)を使(つか)ふのが臆劫になつた。けれども努力さへすれば、充分複雑な仕事に堪えるといふ自信があつた。だから、斯(こ)んな異状を感じても、脳の組織の変化から、精神に悪(わる)い影響を与へるものとしては、悲観する余地がなかつた。始めて、こんな感覚があつた時は驚ろいた。二遍目は寧ろ新奇な経験として喜(よろこ)んだ。この頃(ごろ)は、此経験が、多くの場合に、精神気力の低落(ていらく)に伴(ともな)ふ様になつた。内容の充実しない行為を敢てして、生活する時の徴候になつた。代助にはそこが不愉快だつた。
梅子と縫子は長い時間を御化(け)粧に費やした。代助は懇よく御化粧の監督者になつて、両人(ふたり)の傍(そば)に附(つ)いてゐた。さうして時々は、面白半分(はんぶん)の冷(ひや)かしも云つた。縫子からは叔父(おぢ)さん随分だわを二三度繰り返(かへ)された。
父(ちゝ)は今朝(けさ)早くから出(で)て、家(うち)にゐなかつた。何処(どこ)へ行つたのだか、嫂(あによめ)は知らないと云つた。代助は別に知りたい気もなかつた。たゞ父のゐないのが難有かつた。此間(このあひだ)の会見以後、代助は父とはたつた二度程しか顔(かほ)を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に過(す)ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしてゐた。父(ちゝ)は座敷の方へ出(で)て来(き)て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば逃(に)げ支度をすると云つて怒(おこ)つた。と嫂(あによめ)は鏡(かゞみ)の前で夏帯(なつおび)の尻を撫でながら代助に話した。
幕(まく)の合間(あひま)に縫子が代助の方を向(む)いて時々(とき/″\)妙な事を聞(き)いた。何故(なぜ)あの人は盥(たらひ)で酒を飲むんだとか、何故(なぜ)坊さんが急に大将になれるんだとか、大抵説明の出来ない質問のみであつた。梅子はそれを聞くたんびに笑つてゐた。代助は不図二三日前新聞で見た、ある文学者の劇評を思ひ出(だ)した。それには、日本の脚本が、あまりに突飛な筋(すぢ)に富(と)んでゐるので、楽(らく)に見物が出来ないと書(か)いてあつた。代助は其時(そのとき)、役者の立場(たちば)から考へて、何(なに)もそんな人(ひと)に見て貰ふ必要はあるまいと思つた。作者に云ふべき小言(こごと)を、役者の方へ持つてくるのは、近松の作を知るために、越路の浄瑠理が聴きたいと云ふ愚物と同じ事だと云つて門野(かどの)に話した。門野は依然として、左様(そん)なもんでせうかなと云つてゐた。
小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であつた。さうして舞台に於ける芸術の意味を、役者の手腕(しゆわん)に就てのみ用ひべきものと狭義に解釈してゐた。だから梅子とは大いに話(はなし)が合(あ)つた。時々(とき/″\)顔(かほ)を見合(みあは)して、黒人(くらうと)の様な批評を加へて、互に感心してゐた。けれども、大体に於て、舞台にはもう厭(あき)が来(き)てゐた。幕(まく)の途中(とちう)でも、双眼鏡で、彼方(あつち)を見たり、此方(こつち)を見たりしてゐた。双眼鏡の向(むか)ふ所には芸者が沢山ゐた。そのあるものは、先方(むかふ)でも眼鏡(めがね)の先(さき)を此方(こつち)へ向けてゐた。
彼(かれ)は此(この)取り留めのない花やかな色調(しきちやう)の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして其所(そこ)にわが安住の地を見出(みいだ)した様な気がした。けれども其安住の地は、明(あき)らかには、彼(かれ)の眼(め)に映じて出(で)なかつた。たゞ、かれの心(こゝろ)の調子全体で、それを認(みと)めた丈であつた。従つて彼(かれ)は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係(くわんけい)や、病気や、身分(みぶん)を一纏(ひとまとめ)にしたものを、わが情調にしつくり合ふ対象として、発見したに過ぎなかつた。
翌日(よくじつ)代助は但馬にゐる友人から長い手紙を受取つた。此友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰(かへ)つたぎり、今日迄(こんにちまで)ついぞ東京へ出(で)た事のない男であつた。当人は無論山(やま)の中(なか)で暮(くら)す気はなかつたんだが、親(おや)の命令で已(やむ)を得ず、故郷に封じ込められて仕舞つたのである。夫(それ)でも一年許(いちねんばかり)の間(あひだ)は、もう一返親父(おやぢ)を説(と)き付(つ)けて、東京へ出(で)る出(で)ると云つて、うるさい程手紙を寄(よ)こしたが、此頃は漸く断念したと見(み)えて、大した不平がましい訴もしない様になつた。家(いへ)は所(ところ)の旧家(きうか)で、先祖から持(も)ち伝へた山林を年々伐(き)り出すのが、重(おも)な用事になつてゐるよしであつた。今度(こんど)の手紙には、彼(かれ)の日常生活の模様が委しく書(か)いてあつた。それから、一ヶ月前町長に挙(あ)げられて、年俸を三百円頂戴する身分になつた事を、面白半分(おもしろはんぶん)、殊更に真面目(まじめ)な句調で吹聴して来(き)た。卒業してすぐ中学の教師になつても、此三倍は貰(もら)へると、自分と他の友人との比較がしてあつた。
此友人は国へ帰つてから、約一年許りして、京都在(ざい)のある財産家から嫁(よめ)を貰(もら)つた。それは無論親(おや)の云ひ付(つけ)であつた。すると、少時(しばらく)して、直(すぐ)子供が生れた。女房の事は貰(もら)つた時より外(ほか)に何も云つて来(こ)ないが、子供の生長(おいたち)には興味があると見えて、時々(とき/″\)代助の可笑(おかし)くなる様な報知をした。代助はそれを読むたびに、此子供に対して、満足しつゝある友人の生活を想像した。さうして、此子供の為(ため)に、彼の細君に対する感想が、貰(もら)つた当時に比べて、どの位変化したかを疑つた。
友人は時々(とき/″\)鮎(あゆ)の乾(ほ)したのや、柿の乾(ほ)したのを送つてくれた。代助は其返礼に大概は新らしい西洋の文学書を遣(や)つた。すると其返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評が屹度あつた。けれども、それが長くは続(つゞ)かなかつた。仕舞には受取(うけと)つたと云ふ礼状さへ寄(よ)こさなかつた。此方(こつち)からわざ/\問ひ合せると、書物は難有く頂戴した。読んでから礼を云はうと思つて、つい遅(おそ)くなつた。実はまだ読(よ)まない。白状すると、読(よ)む閑(ひま)がないと云ふより、読む気がしないのである。もう一層露骨に云へば、読んでも解(わか)らなくなつたのである。といふ返事が来(き)た。代助は夫(それ)から書物を廃(や)めて、其代りに新らしい玩具(おもちや)を買(か)つて送(おく)る事にした。
代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を有(も)つてゐた此旧友が、当時とは丸で反対の思想と行動とに支配されて、生活の音色(ねいろ)を出(だ)してゐると云ふ事実を、切(せつ)に感じた。さうして、命(いのち)の絃(いと)の震動(しんどう)から出(で)る二人(ふたり)の響(ひゞき)を審(つまびら)かに比較した。
彼は肉体と精神に於て美(び)の類別を認める男であつた。さうして、あらゆる美(び)の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考へた。あらゆる美(び)の種類に接触して、其たび毎(ごと)に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動(うご)かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家(か)であると断定した。彼(かれ)は是(これ)を自家の経験に徴(ちよう)して争ふべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の引力(アツトラクシヨン)に於て、悉く随縁臨機(ずいえんりんき)に、測りがたき変化を受(う)けつゝあるとの結論に到着した。それを引き延(の)ばすと、既婚(きこん)の一対(いつつい)は、双方ともに、流俗に所謂(いはゆる)不義(インフイデリチ)の念に冒(おか)されて、過去から生じた不幸を、始終嘗(な)めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を撰んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替(か)えるか分(わか)らないではないか。普通の都会人は、より少(すく)なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は渝(かは)らざる愛を、今(いま)の世に口(くち)にするものを偽善家(ぎぜんか)の第一位に置(お)いた。
晩食(ばんめし)を食(く)つて行(い)けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた。帰る前に、
代助は平岡の経済の事が気に掛(かゝ)つた。正面から、此頃(このごろ)は生活費には不自由はあるまいと尋ねて見た。三千代は左様(さう)ですねと云つて、又前の様な笑(わら)ひ方(かた)をした。代助がすぐ返事をしなかつたものだから、
「指環を受取(うけと)るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の指環(ゆびわ)だと思つて御貰ひなさい」
「六時に立てる位な早起(はやおき)の男なら、今時分(じぶん)わざわざ青山(あをやま)から遣(や)つて来(き)やしない」と云つた。改めて用事を聞いて見ると、矢張り予想の通(とほ)り肉薄(にくはく)の遂行に過ぎなかつた。即ち今日(けふ)高木と佐川の娘を呼んで午餐を振舞(ふるま)ふ筈だから、代助にも列席しろと云ふ父(ちゝ)の命令であつた。兄(あに)の語(かた)る所によると、昨夕(ゆふべ)誠太郎の返事を聞いて、父(ちゝ)は大いに機嫌を悪くした。梅子は気を揉(も)んで、代助の立(た)たない前に逢(あ)つて、旅行を延(の)ばさせると云ひ出(だ)した。兄(あに)はそれを留(と)めたさうである。
代助は座敷へ戻(もど)つて、しばらく、兄(あに)の警句を咀嚼してゐた。自分も結婚に対しては、実際兄と同意見であるとしか考へられない。だから、結婚を勧(すゝ)める方(ほう)でも、怒(おこ)らないで放つて置くべきものだと、兄とは反対に、自分に都合の好(い)い結論を得た。
兄(あに)の云ふ所(ところ)によると、佐川の娘は、今度久(ひさ)し振(ぶり)に叔父(おぢ)に連(つ)れられて、見物旁(かた/″\)上京したので、叔父の商用が済み次第又連(つ)れられて国(くに)へ帰るのださうである。父(ちゝ)が其機会を利用して、相互の関係に、永遠の利害を結(むす)び付(つ)けやうと企だてたのか、又は先達(せんだつ)ての旅行先(さき)で、此機会をも自発的に拵(こしら)えて帰つて来(き)たのか、どつちにしても代助はあまり研究の余地を認めなかつた。自分はたゞ是等の人(ひと)と同じ食卓(しよくたく)で、旨(うま)さうに午餐(ごさん)を味(あぢ)はつて見せれば、社交上の義務は其所(そこ)に終るものと考へた。もしそれより以上に、何等の発展が必要になつた場合には、其時に至つて、始めて処置を付(つ)けるより外(ほか)に道(みち)はないと思案した。
「では何(ど)うぞ」と父(ちゝ)は立ち上(あ)がつた。高木も会釈して立ち上(あ)がつた。佐川の令嬢も叔父(おぢ)に継(つ)いで立ち上(あ)がつた。代助は其時、女の腰から下(した)の、比較的に細く長(なが)い事を発見した。食卓では、父(ちゝ)と高木が、真中(まんなか)に向き合つた。高木の右に梅子が坐つて、父(ちゝ)の左に令嬢が席を占(し)めた。女同志が向き合つた如く、誠吾と代助も向き合つた。代助は五味台(クルエツト、スタンド)を中(なか)に、少し斜(なゝめ)に反(そ)れた位地から令嬢の顔(かほ)を眺める事になつた。代助は其頬(ほゝ)の肉と色が、著(いちぢ)るしく後(うしろ)の窓から射(さ)す光線の影響を受けて、鼻の境(さかひ)に暗過(くらす)ぎる影(かげ)を作つた様に思つた。其代り耳に接した方は、明(あき)らかに薄紅(うすくれなゐ)であつた。殊に小さい耳が、日(ひ)の光を透(とほ)してゐるかの如くデリケートに見えた。皮膚(ひふ)とは反対に、令嬢は黒い鳶色の大きな眼(め)を有したゐた。此二つの対照から華(はな)やかな特長を生ずる令嬢の顔の形は、寧ろ丸い方であつた。
父(ちゝ)は乾(かは)いた会話(くわいわ)に色彩(しきさい)を添(そ)へるため、やがて好(す)きな方面の問題に触(ふ)れて見た。所が一二言(いちにげん)で、高木はさう云ふ事(こと)に丸(まる)で無頓着な男であるといふ事が分(わか)つた。父(ちゝ)は老巧の人(ひと)だから、すぐ退却した。けれども双方に安全な領分に帰ると、双方共に談話の意味を感じなかつた。父(ちゝ)は已(やむ)を得ず、高木に何(ど)んな娯楽があるかを確(たしか)めた。高木は特別に娯楽を持(も)たない由(よし)を答へた。父(ちゝ)は万事休すといふ体裁で、高木を誠吾と代助に托して、しばらく談話の圏外に出(で)た。誠吾は、何の苦もなく、神戸の宿屋(やどや)やら、楠公神社やら、手当り次第に話題を開拓して行つた。さうして、其中(そのうち)に自然令嬢の演ずべき役割を拵(こしら)えた。令嬢はたゞ簡単に、必要な言葉丈を点じては逃げた。代助と高木とは、始め同志社を問題にした。それから亜米利加の大学の状況に移つた。最後にエマーソンやホーソーンの名が出(で)た。代助は、高木に斯(か)う云ふ種類の知識があるといふ事を確めたけれども、たゞ確めた丈で、それより以上に深入(ふかいり)もしなかつた。従つて文学談は単に二三の人名と書名に終つて、少しも発展しなかつた。
梅子は固より初(はじめ)から断(た)えず口(くち)を動(うご)かしてゐた。其努力の重(おも)なるものは、無論自分の前にゐる令嬢の遠慮と沈黙を打ち崩すにあつた。令嬢は礼義上から云つても、梅子の間断(かんだん)なき質問に応じない訳に行かなかつた。けれども積極的に自分から梅子の心(こゝろ)を動(うご)かさうと力(つと)めた形迹は殆んどなかつた。たゞ物(もの)を云ふときに、少し首(くび)を横(よこ)に曲(ま)げる癖(くせ)があつた。それすらも代助には媚(こび)を売(う)るとは解釈出来(でき)なかつた。
「芝居は御嫌ひでも、小説は御読みになるでせう」と聞(き)いて芝居の話を已めさした。令嬢は其時始めて、一寸(ちよつと)代助の方を見た。けれども答は案外に判然(はつきり)してゐた。
令嬢の答を待ち受けてゐた、主客はみんな声を出(だ)して笑つた。高木は令嬢の為(ため)に説明の労を取つた。その云ふ所によると、令嬢の教育を受けたミス何(なん)とか云ふ婦人の影響で、令嬢はある点では殆んど清教徒(ピユリタン)の様に仕込まれてゐるのださうであつた。だから余程時代後(おく)れだと、高木は説明のあとから批評さへ付(つ)け加へた。其時は無論誰(だれ)も笑はなかつた。耶蘇教に対して、あまり好意を有(も)つてゐない父(ちゝ)は、
「本当にね」と趣味に適(かな)はない不得要領の言葉を使(つか)つた。誠吾は梅子の言葉が、あまり重い印象を先方に与へない様に、すぐ問題を易えた。
「ぢや、代さん、皮切(かはきり)に何か御遣(や)り」と今度は代助に云つた。代助は人(ひと)に聞かせる程の上手でないのを自覚してゐた。けれども、そんな弁解をすると、問答が理窟臭(くさ)く、しつこくなる許(ばかり)だから、
そこでは、梅子が如才(じよさい)なく、代助の過去に父(ちゝ)の小言(こごと)が飛(と)ばない様な手加減(てかげん)をした。さうして談話の潮流を、成るべく今帰つた来客の品評の方へ持(も)つて行(い)つた。梅子は佐川の令嬢を大変大人(おとな)しさうな可(い)い子(こ)だと賞(ほ)めた。是には父(ちゝ)も兄(あに)も代助も同意を表した。けれども、兄(あに)は、もし亜米利加のミスの教育を受けたと云ふのが本当なら、もう少しは西洋流にはき/\しさうなものだと云ふ疑(うたがひ)を立(た)てた。代助は其疑(うたがひ)にも賛成した。父(ちゝ)と嫂(あによめ)は黙(だま)つてゐた。そこで代助は、あの大人(おとな)しさは、羞恥(はにか)む性質(せいしつ)の大人(おとなし)さだから、ミスの教育とは独立に、日本の男女の社交的関係から来たものだらうと説明した。父(ちゝ)はそれも左(さ)うだと云つた。梅子は令嬢の教育地が京都だから、あゝなんぢやないかと推察した。兄(あに)は東京だつて、御前(おまへ)見(み)た様なの許(ばかり)はゐないと云つた。此時父(ちゝ)は厳正(げんせい)な顔(かほ)をして灰吹(はいふき)を叩(たゝ)いた。次(つぎ)に、容色(きりよう)だつて十人並(なみ)より可(い)いぢやありませんかと梅子が云つた。是には父(ちゝ)も兄(あに)も異議はなかつた。代助も賛成の旨(むね)を告白した。四人は夫(それ)から高木の品評に移つた。温健の好人物と云ふ事で、其方(そのほう)はすぐ方付(かたづ)いて仕舞つた。不幸にして誰(だれ)も令嬢の父母を知らなかつた。けれども、物堅(ものがた)い地味な人(ひと)だと云ふ丈は、父(ちゝ)が三人(さんにん)の前で保証した。父(ちゝ)はそれを同県下の多額納税議員の某から確(たしか)めたのださうである。最後に、佐川家の財産に就ても話(はなし)が出(で)た。其(その)時父は、あゝ云ふのは、普通の実業家より基礎が確(しつか)りしてゐて安全だと云つた。
「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、何(ど)うするかね位の程度ではなかつた。代助は、
「近(ちか)い内(うち)に又是非入らつしやい」と云つた。令嬢は窓(まど)のなかで、叮嚀に会釈したが、窓の外(そと)へは別段の言葉も聞(きこ)えなかつた。汽車を見送つて、又改札場を出た四人(よつた)りは、それぎり離れ/″\になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は頭(あたま)を抑えて応じなかつた。
彼は父と違(ちが)つて、当初からある計画を拵らえて、自然を其計画通りに強ひる古風な人(ひと)ではなかつた。彼は自然を以て人間の拵(こしら)えた凡ての計画よりも偉大なものと信じてゐたからである。だから父(ちゝ)が、自分の自然に逆(さか)らつて、父(ちゝ)の計画通りを強ひるならば、それは、去られた妻(つま)が、離縁状を楯(たて)に夫婦の関係を証拠立(だ)てやうとすると一般であると考へた。けれども、そんな理窟を、父(ちゝ)に向つて述(の)べる気は、丸でなかつた。父(ちゝ)を理攻(りぜめ)にする事は困難中の困難であつた。其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もなかつた。其結果は父(ちゝ)の不興を招く丈で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと撰む所はなかつた。
彼(かれ)は父(ちゝ)と兄(あに)と嫂(あによめ)の三人(さんにん)の中(うち)で、父(ちゝ)の人格に尤も疑(うたがひ)を置(お)いた。今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも父(ちゝ)の唯一(いつ)の目的ではあるまいと迄推察した。けれども父(ちゝ)の本意が何処(どこ)にあるかは、固(もと)より明(あき)らかに知る機会を与へられてゐなかつた。彼は子として、父(ちゝ)の心意を斯様(かやう)に揣摩する事を、不徳義とは考へなかつた。従つて自分丈が、多くの親子(おやこ)のうちで、尤も不幸なものであると云ふ様な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、今日(こんにち)迄の程度より以上に、父(ちゝ)と自分の間(あひだ)が隔(へだた)つて来(き)さうなのを不快に感じた。
彼は隔離の極端として、父子(ふし)絶縁の状態を想像して見た。さうして其所(そこ)に一種の苦痛を認(みと)めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。寧(むし)ろそれから生ずる財源の杜絶(とぜつ)の方が恐ろしかつた。
もし馬鈴薯(ポテトー)が金剛石(ダイヤモンド)より大切になつたら、人間(にんげん)はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。向後父(ちゝ)の怒(いかり)に触れて、万一金銭(きんせん)上の関係が絶えるとすれば、彼(かれ)は厭(いや)でも金剛石(ダイヤモンド)を放り出して、馬鈴薯(ポテトー)に噛(かぢ)り付かなければならない。さうして其償(つぐなひ)には自然の愛が残る丈である。其愛の対象は他人の細君であつた。
彼は寐ながら、何時(いつ)迄も考へた。けれども、彼の頭(あたま)は何時(いつ)迄も何処(どこ)へも到着(ちやく)する事が出来なかつた。彼は自分の寿命を極(き)める権利を持たぬ如く、自分の未来をも極め得なかつた。同時に、自分の寿命に、大抵の見当を付(つ)け得る如く、自分の未来にも多少の影(かげ)を認めた。さうして、徒らに其影を捕捉しやうと企てた。
かねて読(よ)み掛(か)けてある洋書を、栞(しをり)の挟(はさ)んである所で開(あ)けて見ると、前後の関係を丸で忘れてゐた。代助の記憶に取(と)つて斯(か)う云ふ現象は寧ろ珍(めづ)らしかつた。彼(かれ)は学校生活の時代から一種の読書家であつた。卒業の後(のち)も、衣食の煩(わづらひ)なしに、講読の利益を適意に収め得る身分(みぶん)を誇(ほこ)りにしてゐた。一頁(ページ)も眼(め)を通(とほ)さないで、日(ひ)を送ることがあると、習慣上何(なに)となく荒癈の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に親(したし)んだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。
彼は書物を伏(ふ)せた。さうして、こんな時に書物を読(よ)むのは無理だと考へた。同時にもう安息する事も出来なくなつたと考へた。彼(かれ)の苦痛は何時(いつ)ものアンニユイではなかつた。何(なに)も為(す)るのが慵(ものう)いと云ふのとは違(ちが)つて、何(なに)か為(し)なくてはゐられない頭(あたま)の状態であつた。
代助は又忙(いそ)がしい所を、邪魔に来(き)て済まないといふ様な尋常な云訳(いひわけ)を述べながら、此無趣味な庭(には)を眺めた。其時三千代をこんな家(うち)へ入れて置(お)くのは実際気の毒だといふ気が起(おこ)つた。三千代は水(みづ)いぢりで爪先(つまさき)の少(すこ)しふやけた手(て)を膝(ひざ)の上(うへ)に重(かさ)ねて、あまり退屈(たいくつ)だから張物(はりもの)をしてゐた所だと云つた。三千代の退屈といふ意味は、夫(おつと)が始終外(そと)へ出(で)てゐて、単調な留守居の時間を無聊に苦しむと云ふ事であつた。代助はわざと、
其時三千代の説明には、話さうと思つたけれども、此頃平岡はついぞ落ち付(つ)いて宅(うち)にゐた事がないので、つい話(はな)しそびれて未(ま)だ知らせずにゐると云ふ事であつた。代助は固より三千代の説明を嘘(うそ)とは思はなかつた。けれども、五分(ごふん)の閑(ひま)さへあれば夫(おつと)に話(はな)される事を、今日(けふ)迄それなりに為(し)てあるのは、三千代の腹(はら)の中(なか)に、何だか話(はな)し悪(にく)い或(ある)蟠(わだか)まりがあるからだと思はずにはゐられなかつた。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人(ひと)にして仕舞つたと代助は考へた。けれども夫(それ)は左程に代助の良心を螫(さ)すには至らなかつた。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡も此結果に対して明かに責(せめ)を分(わか)たなければならないと思つたからである。
代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねて見た。三千代は例によつて多くを語る事を好(この)まなかつた。然し平岡の妻に対する仕打(しうち)が結婚当時と変つてゐるのは明(あきら)かであつた。代助は夫婦が東京へ帰つた当時既(すで)にそれを見抜いた。夫(それ)から以後改(あらた)まつて両人(ふたり)の腹(はら)の中(なか)を聞いた事(こと)はないが、それが日毎に好(よ)くない方に、速度を加へて進行しつゝあるのは殆んど争ふべからざる事実と見えた。夫婦の間(あひだ)に、代助と云ふ第三者が点ぜられたがために、此疎隔(そかく)が起つたとすれば、代助は此方面に向つて、もつと注意深く働らいたかも知れなかつた。けれども代助は自己の悟性に訴へて、さうは信ずる事が出来なかつた。彼は此結果の一部分を三千代の病気に帰した。さうして、肉体上の関係が、夫(おつと)の精神に反響を与へたものと断定した。又其一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩に帰した。又他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡の放埒から生じた経済事状に帰した。凡てを概括した上(うへ)で、平岡は貰(もら)ふべからざる人(ひと)を貰(もら)ひ、三千代は嫁(とつ)ぐ可(べ)からざる人(ひと)に嫁(とつ)いだのだと解決した。代助は心の中(うち)で痛(いた)く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼の為(ため)に周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を動(うご)かすが為(ため)に、平岡が妻(さい)から離れたとは、何(ど)うしても思ひ得なかつた。
同時に代助の三千代に対する愛情は、此夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつゝある事もまた一方では否(いな)み切れなかつた。三千代が平岡に嫁(とつ)ぐ前(まへ)、代助と三千代の間柄(あひだがら)は、どの位の程度迄進んでゐたかは、しばらく措(お)くとしても、彼(かれ)は現在の三千代には決して無頓着でゐる訳には行かなかつた。彼は病気に冒された三千代をたゞの昔(むかし)の三千代よりは気の毒に思つた。彼は小供を亡(な)くなした三千代をたゞの昔(むかし)の三千代よりは気の毒に思つた。彼は夫(おつと)の愛を失ひつゝある三千代をたゞの昔(むかし)の三千代よりは気の毒に思つた。彼(かれ)は生活難に苦しみつゝある三千代をたゞの昔(むかし)の三千代よりは気の毒に思つた。但し、代助は此夫婦の間(あひだ)を、正面から永久に引き放(はな)さうと試みる程大胆ではなかつた。彼の愛はさう逆上してはゐなかつた。
三千代の眼(ま)のあたり、苦しんでゐるのは経済問題であつた。平岡が自力で給し得る丈の生活費を勝手の方へ回(まは)さない事は、三千代の口吻で慥(たしか)であつた。代助は此点丈でもまづ何(ど)うかしなければなるまいと考へた。それで、
「一(ひと)つ私(わたし)が平岡君に逢(あ)つて、能く話して見やう」と云つた。三千代は淋しい顔(かほ)をして代助を見た。旨(うま)く行けば結構だが、遣(や)り損(そく)なへば益三千代の迷惑になる許(ばかり)だとは代助も承知してゐたので、強ひて左様(さう)しやうとも主張しかねた。三千代は又立つて次(つぎ)の間(ま)から一封(いつぷう)の書状を持(も)つて来(き)た。書状は薄青(うすあを)い状袋へ這入つてゐた。北海道にゐる父(ちゝ)から三千代へ宛(あて)たものであつた。三千代は状袋の中(なか)から長い手紙を出(だ)して、代助に見せた。
手紙には向(むか)ふの思はしくない事や、物価の高くて活計(くらし)にくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ出(で)たいが都合はつくまいかと云ふ事や、――凡て憐れな事ばかり書(か)いてあつた。代助は叮嚀に手紙を巻(ま)き返して、三千代に渡(わた)した。其時三千代は眼(め)の中(なか)に涙(なみだ)を溜(た)めてゐた。
三千代の父はかつて多少の財産と称(とな)へらるべき田畠の所有者であつた。日露戦争の当時、人の勧(すゝめ)に応じて、株に手を出して全く遣(や)り損(そく)なつてから、潔よく祖先の地を売り払つて、北海道へ渡つたのである。其後(そのご)の消息は、代助も今(いま)此手紙を見せられる迄一向知らなかつた。親類はあれども無(な)きが如しだとは三千代の兄(あに)が生きてゐる時分よく代助に語つた言葉であつた。果(はた)して三千代は、父(ちゝ)と平岡ばかりを便(たより)に生きてゐた。
「貴方(あなた)は羨(うらや)ましいのね」と瞬(またゝ)きながら云つた。代助はそれを否定する勇気に乏しかつた。しばらくしてから又、
しばらく黙然(もくねん)として三千代の顔を見てゐるうちに、女の頬(ほゝ)から血(ち)の色(いろ)が次第に退(しり)ぞいて行(い)つて、普通よりは眼(め)に付く程蒼白(あをしろ)くなつた。其時(そのとき)代助は三千代と差向(さしむかひ)で、より長く坐(すは)つてゐる事の危険に、始めて気が付(つ)いた。自然の情合(あひ)から流(なが)れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、準(じゆん)縄の埒(らつ)を踏(ふ)み超えさせるのは、今(いま)二三分(ぷん)の裡(うち)にあつた。代助は固より夫(それ)より先(さき)へ進(すゝ)んでも、猶素知(そし)らぬ顔(かほ)で引返(ひきかへ)し得(う)る、会話の方を心得(こゝろえ)てゐた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出(で)て来(く)る男女の情話が、あまりに露骨(ろこつ)で、あまりに放肆で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪(あやし)んでゐた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考へてゐた。従つて彼は自分と三千代との関係を発展させる為(ため)に、舶来の台詞(せりふ)を用ひる意志は毫もなかつた。少(すく)なくとも二人(ふたり)の間(あひだ)では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所(そこ)に、甲の位地から、知らぬ間(ま)に乙の位置に滑(すべ)り込む危険が潜(ひそ)んでゐた。代助は辛(から)うじて、今一歩(いまいつぽ)と云ふ際(きは)どい所で、踏み留(とゞ)まつた。帰る時、三千代(みちよ)は玄関迄送つて来(き)て、
代助はあてもなく、其所(そこ)いらを逍遥(ぶらつ)いた。さうして、愈平岡と逢つたら、どんな風に話(はなし)を切(き)り出(だ)さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい為(ため)に外(ほか)ならなかつた。けれども、夫(それ)が為(ため)に、却つて平岡の感情を害(がい)する事があるかも知れないと思つた。代助は其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した。然し、其時は何(ど)んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成案(あん)はなかつた。代助は三千代と相対(あひたい)づくで、自分等(じぶんら)二人(ふたり)の間(あひだ)をあれ以上に何(ど)うかする勇気を有(も)たなかつたと同時に、三千代のために、何(なに)かしなくては居られなくなつたのである。だから、今日(けふ)の会見は、理知の作用から出(で)た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の旋風(つむじ)に捲(ま)き込(こ)まれた冒険の働(はたら)きであつた。其所(そこ)に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は夫(それ)に気が付いてゐなかつた。一時間の後(のち)彼(かれ)は又編輯室の入口(いりぐち)に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。
会話は新聞社内の有様(ありさま)から始まつた。平岡は忙(いそが)しい様で却つて楽(らく)な商買で好(い)いと云つた。其語気には別に負惜(まけおし)みの様子も見えなかつた。代助は、それは無責任だからだらうと調戯(からか)つた。平岡は真面目になつて、弁解をした。さうして、今日(こんにち)の新聞事業程競争の烈しくて、機敏な頭(あたま)を要するものはないと云ふ理由(わけ)を説明した。
「成程たゞ筆(ふで)が達者な丈ぢや仕様があるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかつた。すると、平岡は斯(か)う云つた。
「いえ、僕(ぼく)の兄(あに)の会社ばかりでなく、一列一体(いちれついつたい)に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」
「日糖事件丈ぢや物足(ものた)りないからね」と奥歯に物の挟(はさ)まつた様に云つた。代助は黙(だま)つて酒を飲んだ。話(はなし)は此調子で段々はずみを失(うしな)ふ様に見えた。すると平岡は、実業界の内状に関聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起(おこ)つた逸話を代助に吹聴した。その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になつてゐた。それを毎日(まいにち)何(なん)頭かづつ、納めて置いては、夜(よる)になると、そつと行つて偸(ぬす)み出(だ)して来(き)た。さうして、知らぬ顔をして、翌日(あくるひ)同じ牛(うし)を又納めた。役人は毎日々々同じ牛を何遍も買(か)つてゐた。が仕舞に気が付いて、一遍受取つた牛には焼印を押した。所がそれを知らずに、又偸(ぬす)み出(だ)した。のみならず、それを平気に翌日(あくるひ)連れて行(い)つたので、とう/\露見(ろけん)して仕舞つたのださうである。
「矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は先刻(さつき)の批評を繰(く)り返(かへ)しながら、代助を挑(いど)んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日(けふ)は平生(いつも)の様に普通の世間話(ばなし)をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。先刻(さつき)平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が為(ため)であつた。
「まあ帰つたり、帰(かへ)らなかつたりだ。職業が斯(か)う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた。
平岡は眼(め)を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が逼(せま)つた。けれども、罪あるものが雷火(らいくわ)に打たれた様な気は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは眼(め)の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑(うたが)はなかつた。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便(たより)に、自分を三千代から永く振り放(はな)さうとする最後の試(こゝろ)みを、半ば無意識的に遣(や)つた丈であつた。自分と三千代の関係を、平岡から隠(かく)す為(ため)の、糊塗策(ことさく)とは毫も考へてゐなかつた。代助は平岡に対して、左程に不信な言動(げんどう)を敢てするには、余(あま)りに高尚であると、優に自己を評価してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に帰(かへ)つた。
代助は実際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に罹(かゝ)つた人間(にんげん)の如く行為(アクシヨン)に渇(かは)いてゐた。彼は行為(アクシヨン)の結果として、富を冀つてゐたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀つてゐたか。夫(それ)でなければ、活動としての行為(アクシヨン)其物を求めてゐたか。それは代助にも分(わか)らなかつた。
「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、あゝ云ふ消極な意見も出すが。――元来意見があつて、人(ひと)がそれに則(のつと)るのぢやない。人(ひと)があつて、其人(そのひと)に適(てき)した様な意見が出(で)て来(く)るのだから、僕(ぼく)の説は僕(ぼく)丈に通用する丈だ。決して君の身の上を、あの説で、何(ど)うしやうの斯(か)うしやうのと云ふ訳ぢやない。僕はあの時の君の意気に敬服してゐる。君(きみ)はあの時自分で云つた如く、全く活動の人だ。是非共活動して貰(もら)ひたい」
「大いに要領を得てゐる。僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」
話(はなし)は此所(こゝ)迄来ても、たゞ抽象的に進んだ丈であつた。代助は言葉の上(うへ)でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事は些(ちつ)とも出来(でき)なかつた。代助は何となく責任のある政府委員か弁護士を相手にしてゐる様な気がした。代助は此時思ひ切つた政略的な御世辞を云つた。それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加はつて斃れたため、当時の人(ひと)から偶像(アイドル)視されて、とう/\軍神と迄崇められた。けれども、四五年後の今日(こんにち)に至つて見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口(くち)にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。英雄(ヒーロー)の流行(はやり)廃(すたり)はこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於て、英雄(ヒーロー)とは其時代に極めて大切な人(ひと)といふ事で、名前丈は偉(えら)さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だらうが、平和克(こく)復の暁(あかつき)には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人(りんじん)に対して現金(げんきん)である如く、英雄(ヒーロー)に対しても現金である。だから、斯(か)う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行はれてゐる。さう云ふ訳で、代助は英雄(ヒーロー)なぞに担(かつ)がれたい了見は更にない。が、もし茲に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣(けん)の力よりも、永久的の筆の力で、英雄(ヒーロー)になつた方が長持(ながもち)がする。新聞は其方面の代表的事業である。
代助は此所(こゝ)迄述(の)べて見たが、元来が御世辞の上(うへ)に、云ふ事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、気が乗らなかつた。平岡は其返事に、
「いや難有う」と云つた丈であつた。別段腹を立てた様子も見えなかつたが、些(ちつ)とも感激してゐないのは、此返事でも明かであつた。
其夜(そのよ)代助は平岡と遂に愚図々々で分(わか)れた。会見の結果から云ふと、何の為(ため)に平岡を新聞社に訪(たづ)ねたのだか、自分にも分(わか)らなかつた。平岡の方から見れば、猶更左様(さう)であつた。代助は必竟何(なに)しに新聞社迄出掛て来(き)たのか、帰る迄ついに問ひ詰(つ)めづに済んで仕舞つた。
代助は翌日(よくじつ)になつて独(ひと)り書斎で、昨夕(ゆふべ)の有様(ありさま)を何遍(なんべん)となく頭(あたま)の中(なか)で繰(く)り返した。二時間(かん)も一所に話(はな)してゐるうちに、自分が平岡に対して、比較的真面目(まじめ)であつたのは、三千代を弁護した時丈であつた。けれども其真面目(まじめ)は、単に動機(どうき)の真面目(まじめ)で、口(くち)にした言葉は矢張好加減(いゝかげん)な出任(でまか)せに過ぎなかつた。厳酷に云へば、嘘許(うそばかり)と云つても可(よ)かつた。自分で真面目(まじめ)だと信じてゐた動機でさへ、必竟は自分の未来を救ふ手段である。平岡から見れば、固(もと)より真摯なものとは云へなかつた。まして、其他の談話に至ると、始めから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ落(おと)し込まうと、たくらんで掛(かゝ)つた、打算(ださん)的のものであつた。従つて平岡を何(ど)うする事も出来なかつた。
もし思ひ切つて、三千代を引合(ひきあひ)に出(だ)して、自分の考へ通りを、遠慮なく正面から述(の)べ立てたら、もつと強い事が云へた。もつと平岡を動揺(ゆすぶ)る事が出来た。もつと彼(かれ)の肺腑に入る事が出来た。に違(ちがひ)ない。其代り遣(や)り損(そこな)へば、三千代に迷惑がかゝつて来(く)る。平岡と喧嘩になる。かも知れない。
代助は知らず/\の間(あひだ)に、安全にして無能力な方針を取つて、平岡に接してゐた事を腑甲斐なく思つた。もし斯(か)う云ふ態度で平岡に当(あた)りながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡に委(ゆだ)ねて置けない程の不安があるならば、それは論理の許(ゆる)さぬ矛盾を、厚顔(こうがん)に犯してゐたと云はなければならない。
代助は昔(むかし)の人(ひと)が、頭脳(づのう)の不明瞭な所から、実は利己本位の立場に居りながら、自(みづか)らは固(かた)く人(ひと)の為(ため)と信じて、泣(な)いたり、感じたり、激したり、して、其結果遂に相手を、自分の思ふ通りに動(うご)かし得たのを羨(うらや)ましく思つた。自分の頭(あたま)が、その位のぼんやりさ加減であつたら、昨夕(ゆふべ)の会談にも、もう少し感激して、都合のいゝ効果を収める事が出来たかも知れない。彼は人(ひと)から、ことに自分の父(ちゝ)から、熱誠の足りない男だと云はれてゐた。彼(かれ)の解剖によると、事実は斯(か)うであつた。人間(にんげん)は熱誠を以て当(あた)つて然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。夫よりも、ずつと下等なものである。其下等な動機や行為を、熱誠に取り扱ふのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠を衒(てら)つて、己れを高くする山師(やまし)に過ぎない。だから彼(かれ)の冷淡は、人間としての進歩とは云へまいが、よりよく人間を解剖した結果には外(ほか)ならなかつた。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、其(その)あまりに、狡黠(ずる)くつて、不真面目(ふまじめ)で、大抵は虚偽(きよぎ)を含んでゐるのを知つてゐるから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかつたのである。と、彼は断然信じてゐた。
此所(こゝ)で彼は一(いつ)のヂレンマに達した。彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずる通り発展させるか、又は全然其反対に出て、何も知らぬ昔(むかし)に返るか。何方(どつち)かにしなければ生活の意義を失つたものと等(ひと)しいと考へた。其他のあらゆる中途半端(ちうとはんぱ)の方法は、偽(いつはり)に始(はじま)つて、偽(いつはり)に終(おは)るより外(ほか)に道はない。悉く社会的に安全であつて、悉く自己に対して無能無力である。と考へた。
彼(かれ)は三千代と自分の関係を、天意によつて、――彼はそれを天意としか考へ得られなかつた。――醗酵させる事の社会的危険を承知してゐた。天意には叶ふが、人の掟(おきて)に背く恋(こひ)は、其恋(こひ)の主(ぬし)の死によつて、始めて社会から認(みと)められるのが常であつた。彼(かれ)は万一の悲劇を二人(ふたり)の間に描(ゑが)いて、覚えず慄然とした。
彼(かれ)は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像して見た。其時は天意に従ふ代りに、自己の意志に殉する人(ひと)にならなければ済(す)まなかつた。彼(かれ)は其手段として、父(ちゝ)や嫂(あによめ)から勧められてゐた結婚に思ひ至つた。さうして、此結婚を肯(うけが)ふ事が、凡ての関係を新(あらた)にするものと考へた。
自然の児にならうか、又意志の人(ひと)にならうかと代助は迷(まよ)つた。彼(かれ)は彼(かれ)の主義として、弾力性のない硬張(こわば)つた方針の下(もと)に、寒暑にさへすぐ反応を呈する自己を、器械の様に束縛(そくばく)するの愚を忌んだ。同時に彼(かれ)は、彼(かれ)の生活が、一大断案を受くべき危機に達(たつ)して居る事を切に自覚した。
彼(かれ)は結婚問題に就(つい)て、まあ能(よ)く考へて見ろと云はれて帰つたぎり、未(いま)だに、それを本気に考へる閑(ひま)を作(つく)らなかつた。帰つた時、まあ今日(けふ)も虎口(ここう)を逃(のが)れて難有(ありがた)かつたと感謝したぎり、放り出(だ)して仕舞つた。父(ちゝ)からはまだ何(なん)とも催促されないが、此二三日は又青山へ呼び出(だ)されさうな気がしてならなかつた。代助は固より呼(よ)び出(だ)される迄何(なに)も考へずにゐる気であつた。呼(よ)び出されたら、父(ちゝ)の顔色(かほいろ)と相談の上、又何とか即席に返事を拵らえる心組(ぐみ)であつた。代助はあながち父(ちゝ)を馬鹿にする了見ではなかつた。あらゆる返事は、斯(か)う云ふ具合に、相手と自分を商量して、臨機に湧いて来(く)るのが本当だと思つてゐた。
飯(めし)は依然として、普通の如く食(く)つた。けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、脳の屈托とで、排泄機能に変化を起した。然し代助はそれを何とも思はなかつた。生理状態は殆んど苦にする暇(いとま)のない位、一つ事をぐる/\回(まは)つて考へた。それが習慣になると、終局なく、ぐる/\回(まは)つてゐる方が、埒(らつ)の外(そと)へ飛び出(だ)す努力よりも却つて楽になつた。
代助は最後に不決断の自己嫌悪(けんお)に陥つた。已を得ないから、三千代と自分の関係を発展させる手段として、佐川の縁談を断らうかと迄考へて、覚えず驚ろいた。然し三千代と自分の関係を絶つ手段として、結婚を許諾して見様かといふ気は、ぐる/\回転してゐるうちに一度も出(で)て来(こ)なかつた。
縁談を断(ことわ)る方は単独にも何遍となく決定が出来た。たゞ断つた後(あと)、其反動として、自分をまともに三千代の上(うへ)に浴(あび)せかけねば已(や)まぬ必然の勢力が来るに違ないと考へると、其所(そこ)に至つて、又恐ろしくなつた。
代助は父(ちゝ)からの催促を心待に待つてゐた。しかし父(ちゝ)からは何の便(たより)もなかつた。三千代にもう一遍逢はうかと思つた。けれども、それ程の勇気も出(で)なかつた。
一番仕舞に、結婚は道徳の形式に於て、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容に於て、何等の影響を二人(ふたり)の上(うへ)に及ぼしさうもないと云ふ考が、段々代助の脳裏に勢力を得て来(き)た。既に平岡に嫁(とつ)いだ三千代に対して、こんな関係が起り得るならば、此上(このうへ)自分に既婚者の資格を与へたからと云つて、同様の関係が続(つゞ)かない訳には行かない。それを続(つゞ)かないと見るのはたゞ表向の沙汰で、心を束縛(そくばく)する事の出来(でき)ない形式は、いくら重(かさ)ねても苦痛を増す許である。と云ふのが代助の論法であつた。代助は縁談を断るより外に道(みち)はなくなつた。
「今更(いまさら)改(あらた)まつて、そんな事(こと)を聞(き)いたつて仕方(しかた)がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ出(だ)した。調戯(からか)ふんだと思つたのか、あんまり小供染みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ気色(けしき)はなかつた。代助も平生の自分を振(ふ)り返つて見て、真面目(まじめ)に斯(こ)んな質問を掛(か)けた今の自分を、寧ろ奇体に思つた。今日(こんにち)迄兄(あに)と嫂(あによめ)の関係を長い間(あひだ)目撃してゐながら、ついぞ其所(そこ)には気が付(つ)かなかつた。嫂(あによめ)も亦代助の気が付(つ)く程物足りない素振(そぶり)は見せた事がなかつた。
「だから、貴方(あなた)が奥さんを御貰(おもら)ひなすつたら、始終宅(うち)に許(ばかり)ゐて、たんと可愛(かあい)がつて御上(おあ)げなさいな」と云つた。代助は始めて相手が梅子であつて、自分が平生の代助でなかつた事を自覚した。それで成るべく不断(ふだん)の調子を出(だ)さうと力(つと)めた。
代助の巻烟草(まきたばこ)を持(も)つた手が少(すこ)し顫(ふる)へた。梅子は寧ろ表情を失(うしな)つた顔付(かほつき)をして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子に頓着なく進行した。
梅子は代助の様子が真面目なので、何時(いつ)もの如く無駄口(くち)も入れずに聞いてゐたが、聞き終つた時、始めて自分の意見を述べた。それが極(きわ)めて簡単(かんたん)な且つ極(きわ)めて実際的な短かい句であつた。
「そりや代(だい)さんだつて、小供ぢやないから、一人前(いちにんまへ)の考の御有(おあり)な事は勿論ですわ。私(わたし)なんぞの要(い)らない差出口(さしでぐち)は御迷惑でせうから、もう何にも申しますまい。然し御父(とう)さんの身になつて御覧なさい。月々(つき/″\)の生活費は貴方(あなた)の要(い)ると云ふ丈今でも出(だ)して入(い)らつしやるんだから、つまり貴方(あなた)は書生時代よりも余計御父(おとう)さんの厄介になつてる訳(わけ)でせう。さうして置いて、世話になる事は、元(もと)より世話になるが、年を取つて一人前(いちにんまへ)になつたから、云ふ事は元(もと)の通りには聞(き)かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか」
代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた。梅子も始めはそれを本気に受けた。そつと手を廻(まは)して真相を探つて見た抔といふ滑稽もあつた。事実が分つて以後は、代助の所謂好(す)いた女は、梅子に対して一向利目(きゝめ)がなくなつた。代助がそれを云ひ出(だ)しても、丸で取り合はなかつた。でなければ、茶化してゐた。代助の方でも夫(それ)で平気であつた。然し此場合丈は彼(かれ)に取つて、全く特別であつた。顔付(かほつき)と云ひ、眼付(めつき)と云ひ、声の低(ひく)い底(そこ)に籠(こも)る力(ちから)と云ひ、此所(こゝ)迄押し逼(せま)つて来(き)た前後の関係と云ひ、凡ての点から云つて、梅子をはつと思はせない訳に行かなかつた。嫂(あによめ)は此短(みじか)い句(く)を、閃(ひら)めく懐剣の如くに感じた。
「僕は又来(き)ます。出直(でなほ)して来(き)て御父(おとう)さんに御目に掛(かゝ)る方が好(い)いでせう」と立ちにかかつた。梅子は其間(あひだ)に回復した。梅子は飽く迄人の世話を焼く実意のある丈に、物を中途で投(な)げる事の出来ない女であつた。抑(おさ)える様に代助を引(ひ)き留(と)めて、女の名を聞いた。代助は固より答へなかつた。梅子は是非にと逼つた。代助は夫(それ)でも応じなかつた。すると梅子は何故(なぜ)其女を貰(もら)はないのかと聞き出(だ)した。代助は単純に貰(もら)へないから、貰(もら)はないのだと答へた。梅子は仕舞に涙を流した。他(ひと)の尽力を出(だ)し抜(ぬ)いたと云つて恨んだ。何故(なぜ)始(はじめ)から打ち明けて話さないかと云つて責めた。かと思ふと、気の毒だと云つて同情して呉れた。けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語(かた)らなかつた。梅子はとう/\我(が)を折つた。代助の愈(いよ/\)帰ると云ふ間際(まぎは)になつて、
歩(ある)きながら、自分(じぶん)は今日(けふ)、自(みづか)ら進んで、自分の運命の半分(はんぶん)を破壊したのも同じ事だと、心のうちに囁(つぶや)いだ。今迄は父(ちゝ)や嫂(あによめ)を相手に、好い加減な間隔(かんかく)を取つて、柔らかに自我を通(とほ)して来(き)た。今度は愈本性を露(あら)はさなければ、それを通し切れなくなつた。同時に、此方面に向つて、在来の満足を求(もと)め得る希望は少なくなつた。けれども、まだ逆戻りをする余地はあつた。たゞ、夫(それ)には又父(ちゝ)を胡魔化す必要が出て来るに違なかつた。代助は腹の中で今迄の我(われ)を冷笑した。彼は何(ど)うしても、今日(けふ)の告白を以て、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかつた。さうして、それから受ける打撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、掩(お)つ被(かぶ)さる様に烈しく働(はたら)き掛けたかつた。
彼は此次(このつぎ)父(ちゝ)に逢ふときは、もう一歩(いつぽ)も後(あと)へ引けない様に、自分の方を拵(こしら)えて置きたかつた。それで三千代と会見する前に、又父(ちゝ)から呼び出される事を深く恐れた。彼は今日(けふ)嫂(あによめ)に、自分の意思を父(ちゝ)に話(はな)す話(はな)さないの自由を与へたのを悔いた。今夜(こんや)にも話(はな)されれば、明日(あした)の朝(あさ)呼(よ)ばれるかも知れない。すると今夜中に三千代に逢つて己れを語つて置く必要が出来る。然し夜(よる)だから都合がよくないと思つた。
「はあ左様(さう)ですか」と云ひ放(はな)して出て行つた。代助は、父(ちゝ)があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるといふ事を知つてゐるので、ことによると、帰つた後(あと)から直(すぐ)使(つかひ)でも寄(よ)こしはしまいかと恐れて聞(き)き糺(たゞ)したのであつた。門野が書生部屋へ引き取つたあとで、明日(あした)は是非共三千代に逢はなければならないと決心した。
其夜代助は寐(ね)ながら、何(ど)う云ふ手段で三千代に逢はうかと云ふ問題を考へた。手紙を車夫に持たせて宅(うち)へ呼びに遣(や)れば、来(く)る事は来(く)るだらうが、既(すで)に今日(けふ)嫂(あによめ)との会談が済んだ以上は、明日(あした)にも、兄(あに)か嫂(あによめ)の為(ため)に、向ふから襲はれないとも限(かぎ)らない。又平岡のうちへ行つて逢ふ事は代助に取つて一種の苦痛があつた。代助は已を得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢ふより外(ほか)に道はないと思つた。
「今日(けふ)始(はじ)めて自然(しぜん)の昔(むかし)に帰るんだ」と胸(むね)の中(なか)で云つた。斯(か)う云ひ得た時、彼は年頃(としごろ)にない安慰を総身(そうしん)に覚えた。何故(なぜ)もつと早く帰(かへ)る事が出来なかつたのかと思つた。始(はじめ)から何故(なぜ)自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨(あめ)の中(なか)に、百合(ゆり)の中(なか)に、再現(さいげん)の昔(むかし)のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸(ブリス)であつた。だから凡てが美(うつく)しかつた。
「えゝ」と云つた。双方共何時(いつ)もの様に軽くは話し得なかつた。代助は酒の力を借りて、己れを語らなければならない様な自分を恥ぢた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと兼(かね)て覚悟をして居(ゐ)た。けれども、改たまつて、三千代に対して見ると、始(はじ)めて、一滴(いつてき)の酒精が恋(こひ)しくなつた。ひそかに次(つぎ)の間(ま)へ立(た)つて、例(いつも)のヰスキーを洋盃(コツプ)で傾(かたむ)け様かと思つたが、遂に其決心に堪えなかつた。彼は青天白日の下(もと)に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠(まこと)でないと信じたからである。酔(よひ)と云ふ牆壁を築いて、其掩護に乗じて、自己を大胆にするのは、卑怯で、残酷で、相手に汚辱を与へる様な気がしてならなかつたからである。彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなつた、其代り三千代に対しては一点も不徳義な動機を蓄(たくわ)へぬ積であつた。否、彼(かれ)をして卑吝(ひりん)に陥らしむる余地が丸でない程に、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを傾(かたむ)ける事が出来なかつた。二度聞(き)かれた時に猶躇した。三度目には、已(やむ)を得ず、
三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口(くち)を聞く様になつてからの事だが、始めて国(くに)から出て来(き)た当時の髪(かみ)の風を代助から賞(ほ)められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後(あと)でも、決して銀杏返しには結はなかつた。二人(ふたり)は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共口(くち)へ出(だ)しては何も語らなかつた。
三千代の兄(あに)と云ふのは寧(むし)ろ豁達な気性で、懸隔(かけへだ)てのない交際振(つきあひぶり)から、友達(ともだち)には甚(ひど)く愛されてゐた。ことに代助は其親友であつた。此兄(あに)は自分が豁達である丈に、妹の大人(おとな)しいのを可愛(かあい)がつてゐた。国から連れて来(き)て、一所に家(うち)を持(も)つたのも、妹を教育しなければならないと云ふ義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情合(あひ)と、現在自分の傍(そば)に引き着(つ)けて置きたい欲望とからであつた。彼(かれ)は三千代を呼ぶ前、既に代助に向つて其旨を打(う)ち明(あ)けた事があつた。其時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以て此計画を迎へた。
三千代が来(き)てから後、兄(あに)と代助とは益親(した)しくなつた。何方(どつち)が友情の歩を進めたかは、代助自身にも分(わか)らなかつた。兄(あに)が死んだ後(あと)で、当時を振り返つて見る毎に、代助は此(この)親密の裡(うち)に一種の意味を認めない訳に行かなかつた。兄(あに)は死ぬ時迄それを明言しなかつた。代助も敢て何事をも語らなかつた。斯(か)くして、相互の思(おも)はくは、相互の間の秘密として葬られて仕舞つた。兄(あに)は在生中に此意味を私(ひそか)に三千代に洩(も)らした事があるかどうか、其所(そこ)は代助も知らなかつた。代助はたゞ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得た丈であつた。
兄(あに)は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した如くに見えた。代助を待つて啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来る丈与へる様に力めた。代助も辞退はしなかつた。後(あと)から顧みると、自(みづか)ら進んで其任に当つたと思はれる痕迹もあつた。三千代は固より喜(よろこ)んで彼(かれ)の指導を受けた。三人は斯くして、巴(ともえ)の如くに回転しつゝ、月から月へと進んで行つた。有意識か無意識か、巴(ともえ)の輪(わ)は回(めぐ)るに従つて次第に狭(せば)まつて来(き)た。遂(つい)に三巴(みつどもえ)が一所(いつしよ)に寄(よ)つて、丸い円にならうとする少し前の所で、忽然其一つが欠(か)けたため、残る二つは平衡を失なつた。
代助と三千代は五年の昔(むかし)を心置なく語り始めた。語るに従つて、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返つて来(き)た。二人(ふたり)の距離は又元(もと)の様に近くなつた。
代助の方は通例よりも熱心に判然(はつきり)した声(こえ)で自己を弁護する如くに云つた。三千代の声は益低(ひく)かつた。
代助の言葉には、普通の愛人(あいじん)の用ひる様な甘(あま)い文彩(あや)を含(ふく)んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼(せま)つてゐた。但(たゞ)、夫丈(それだけ)の事を語(かた)る為(ため)に、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、玩具(おもちや)の詩歌(しか)に類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上世間(せけん)の小説に出(で)て来(く)る青春(せいしゆん)時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華(はな)やかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心(こゝろ)に達した。三千代は顫(ふる)へる睫毛(まつげ)の間(あひだ)から、涙を頬(ほゝ)の上(うへ)に流した。
「余(あんま)りだわ」と云ふ声が手帛(ハンケチ)の中(なか)で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅(おそ)過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁(とつ)ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙(なみだ)と涙(なみだ)の間(あひだ)をぼつ/\綴(つゞ)る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「いや僕は貴方(あなた)に何所(どこ)迄も復讐して貰(もら)ひたいのです。それが本望なのです。今日(けふ)斯(こ)うやつて、貴方(あなた)を呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方(あなた)から復讐(ふくしう)されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて来(き)た人間(にんげん)なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方(あなた)の前に懺悔(ざんげ)する事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」
「僕は今更こんな事を貴方(あなた)に云ふのは、残酷だと承知してゐます。それが貴方(あなた)に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方(あなた)に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた。つまり我儘(わがまゝ)です。だから詫(あやま)るんです」
三千代の調子は、此時急に判然(はつきり)した。沈(しづ)んではゐたが、前に比べると非常に落ち着(つ)いた。然ししばらくしてから、又
「左様(さう)ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「私(わたくし)だつて、貴方(あなた)が左様(さう)云つて下(くだ)さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」
三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼(め)も口(くち)も固(かた)くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、余程心の平和に接近し易くなつた。然し是は彼の予期する通りに行(い)つた迄で、別に意外の結果と云ふ程のものではなかつた。
会見の翌日彼は永らく手に持つてゐた賽(さい)を思ひ切つて投(な)げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、昨日(きのふ)から一種の責任を帯びねば済まぬ身(み)になつたと自覚した。しかも夫(それ)は自(みづか)ら進んで求めた責任に違(ちが)いなかつた。従つて、それを自分の脊(せ)に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その重(おも)みに押されるがため、却つて自然と足(あし)が前に出る様な気がした。彼は自(みづか)ら切り開いた此運命の断片を頭(あたま)に乗(の)せて、父(ちゝ)と決戦すべき準備を整へた。父(ちゝ)の後(あと)には兄(あに)がゐた、嫂(あによめ)がゐた。是等と戦つた後(あと)には平岡がゐた。是等を切り抜(ぬ)けても大きな社会があつた。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉(く)れない器械の様な社会があつた。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした。
彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。彼は今日迄、熱烈を厭ふ、危きに近寄り得ぬ、勝負事(ぶごと)を好まぬ、用心深い、太平の好紳士と自分を見傚してゐた。徳義上重大な意味の卑怯はまだ犯した事がないけれども、臆病と云ふ自覚はどうしても彼(かれ)の心から取り去る事が出来なかつた。
代助は今道徳界に於て、是等の登攀者と同一な地位に立つてゐると云ふ事を知つた。けれども自(みづか)ら其場に臨んで見ると、怯(ひる)む気は少しもなかつた。怯(ひる)んで猶予する方が彼に取つては幾倍の苦痛であつた。
彼は一日(いちじつ)も早く父(ちゝ)に逢つて話(はなし)をしたかつた。万一の差支を恐れて、三千代が来(き)た翌日、又電話を掛けて都合を聞き合せた。父(ちゝ)は留守だと云ふ返事を得た。次(つぎ)の日又問ひ合せたら、今度は差支があると云つて断(ことわ)られた。其次には此方(こちら)から知らせる迄は来(く)るに及ばんといふ挨拶であつた。代助は命令通り控(ひか)えてゐた。其間嫂(あによめ)からも兄(あに)からも便(たより)は一向なかつた。代助は始めは家(うち)のものが、自分に出来る丈長い、反省再考の時間を与へる為(ため)の策略ではあるまいかと推察して、平気に構へてゐた。三度の食事も旨(うま)く食(く)つた。夜(よる)も比較的安(やす)らかな夢を見た。雨(あめ)の晴間(はれま)には門野(かどの)を連れて散歩を一二度した。然し宅(うち)からは使(つかひ)も手紙(てがみ)も来(こ)なかつた。代助は絶壁(ぜつぺき)の途中で休息する時間の長過ぎるのに安(やす)からずなつた。仕舞に思ひ切つて、自分の方から青山へ出掛(でか)けて行つた。兄(あに)は例の如く留守であつた。嫂(あによめ)は代助を見(み)て気の毒さうな顔をした。が、例の事件に就ては何にも語(かた)らなかつた。代助の来意を聞(き)いて、では私(わたし)が一寸(ちよつと)奥(おく)へ行(い)つて御父(おとう)さんの御都合を伺(うかゞ)つて来(き)ませうと云つて立つた。梅子の態度は、父(ちゝ)の怒りから代助を庇(かば)う様にも見えた。又彼を疎外する様にも取(と)れた。代助は両方の何(いづ)れだらうかと煩(わづら)つて待つてゐた。待ちながらも、何(ど)うせ覚悟の前だと何遍も口(くち)のうちで繰り返した。
奥から梅子が出て来る迄には、大分暇(ひま)が掛(かゝ)つた。代助を見て、又気の毒さうに、今日(けふ)は御都合が悪(わる)いさうですよと云つた。代助は仕方なしに、何時(いつ)来(き)たら宜(よ)からうかと尋ねた。固より例(れい)の様(やう)な元気はなく悄然とした問ひ振りであつた。梅子は代助の様子に同情の念を起した調子で、二三日中に屹度自分が責任を以て都合の好(い)い時日を知らせるから今日(けふ)は帰れと云つた。代助が内玄関を出(で)る時、梅子はわざと送つて来(き)て、
帰る途中(とちう)も不愉快で堪(たま)らなかつた。此間(このあひだ)三千代に逢(あ)つて以後、味はう事を知つた心の平和を、父(ちゝ)や嫂(あによめ)の態度で幾分か破壊されたと云ふ心持が路々(みち/\)募つた。自分は自分の思ふ通りを父(ちゝ)に告(つ)げる、父(ちゝ)は父(ちゝ)の考へを遠慮なく自分に洩らす、それで衝突する、衝突の結果はどうあらうとも潔よく自分で受ける。是が代助の予期であつた。父(ちゝ)の仕打(しうち)は彼(かれ)の予期以外に面白くないものであつた。其仕打は父(ちゝ)の人格を反射する丈夫丈多く代助を不愉快にした。
代助は途(みち)すがら、何(なに)を苦(くるし)んで、父(ちゝ)との会見を左迄に急いだものかと思ひ出(だ)した。元来が父(ちゝ)の要求に対する自分の返事に過ぎないのだから、便宜は寧ろ、是を待ち受ける父(ちゝ)の方にあるべき筈であつた。其父(ちゝ)がわざとらしく自分を避ける様にして、面会を延(の)ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遅くなると云ふ不結果を生ずる外に何(なに)も起り様がない。代助は自分の未来に関する主要な部分は、もう既に片付(かたづ)けて仕舞つた積(つもり)でゐた。彼は父(ちゝ)から時日を指定して呼び出(だ)される迄は、宅(うち)の方の所置を其儘にして放つて置く事に極めた。
彼は家(いへ)に帰つた。父(ちゝ)に対しては只薄暗(うすぐら)い不愉快の影(かげ)が頭(あたま)に残つてゐた。けれども此影は近き未来に於て必ず其暗(くら)さを増してくるべき性質のものであつた。其他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分が是から流れて行くべき方向を示してゐた。一つは平岡と自分を是非共一所に捲(ま)き込むべき凄(すさま)じいものであつた。代助は此間(このあひだ)三千代に逢(あ)つたなりで、片片(かたかた)の方は捨てゝある。よし是(これ)から三千代の顔(かほ)を見るにした所で、――また長い間(あひだ)見ずにゐる気はなかつたが、――二人(ふたり)の向後取るべき方針に就て云へば、当分は一歩も現在状態より踏み出す了見は持たなかつた。此点に関して、代助は我ながら明瞭な計画を拵(こしら)えてゐなかつた。平岡と自分とを運び去るべき将来に就ても、彼はたゞ何時(いつ)、何事(なにごと)にでも用意ありと云ふ丈であつた。無論彼は機(き)を見て、積極的に働らき掛ける心組はあつた。けれども具体的な案は一つも準備しなかつた。あらゆる場合に於て、彼の決して仕損(しそん)じまいと誓つたのは、凡てを平岡に打ち明けると云ふ事であつた。従つて平岡と自分とで構成すべき運命の流は黒(くろ)く恐ろしいものであつた。一つの心配は此恐ろしい暴風(あらし)の中(なか)から、如何にして三千代を救(すく)ひ得べきかの問題であつた。
最後に彼の周囲を人間のあらん限(かぎ)り包(つゝ)む社会に対しては、彼は何の考も纏めなかつた。事実として、社会は制裁の権を有してゐた。けれども動機行為の権は全く自己の天分から湧いて出(で)るより外に道はないと信じた。かれは此点に於て、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であつた。
翌日も書斎の中(なか)で前日同様、自分の世界の中心に立つて、左右前後を一応隈(くま)なく見渡した後(あと)、
「何故(なぜ)夫(それ)から入らつしやらなかつたの」と聞(き)いた。代助は寧ろ其落ち付き払(はら)つた態度に驚ろかされた。三千代はわざと平岡の机の前に据ゑてあつた蒲団を代助の前へ押し遣(や)つて、
「又来(き)ます。大丈夫だから安心して入(い)らつしやい」と三千代を慰める様に云つた。三千代はたゞ微笑した丈であつた。
其夕方(ゆふがた)始めて父(ちゝ)からの報知(しらせ)に接した。其時代助は婆さんの給仕で飯(めし)を食(く)つてゐた。茶碗を膳の上(うへ)へ置いて、門野(かどの)から手紙を受取つて読むと、明朝何時迄に御出(いで)の事といふ文句があつた。代助は、
「青山(あをやま)の御宅(おたく)からですか」と叮嚀に眺めてゐたが、別に云ふ事がないものだから、表(おもて)を引つ繰り返して、
「断(ことわ)りますか」と聞いた。代助は此間から珍らしくある会(くわい)を一二回欠席した。来客も逢(あ)はないで済(す)むと思ふ分は両度程謝絶した。
代助は思ひ切つて寺尾に逢つた。寺尾は何時(いつ)もの様に、血眼(ちまなこ)になつて、何か探(さが)してゐた。代助は其様子を見て、例の如く皮肉で持ち切る気にもなれなかつた。翻訳だらうが焼き直しだらうが、生きてゐるうちは何処(どこ)迄も遣(や)る覚悟だから、寺尾の方がまだ自分より社会の児(じ)らしく見えた。自分がもし失脚して、彼と同様の地位に置かれたら、果して何(ど)の位の仕事に堪えるだらうと思ふと、代助は自分に対して気の毒になつた。さうして、自分が遠からず、彼(かれ)よりも甚(ひど)く失脚するのは、殆んど未発の事実の如く確(たしか)だと諦めてゐたから、彼は侮蔑の眼(め)を以て寺尾を迎へる訳には行かなかつた。
寺尾は、此間の翻訳を漸くの事で月末迄に片付けたら、本屋の方で、都合が悪いから秋迄出版を見合せると云ひ出したので、すぐ労力を金(かね)に換算する事が出来ずに、困つた結果遣(や)つて来(き)たのであつた。では書肆と契約なしに手を着(つ)けたのかと聞(き)くと、全く左様(さう)でもないらしい。と云つて、本屋の方が丸で約束を無視(し)した様にも云はない。要するに曖昧であつた。たゞ困つてゐる事丈は事実らしかつた。けれども斯(か)う云ふ手違(てちがひ)に慣れ抜(ぬ)いた寺尾は、別に徳義問題として誰にも不満を抱(いだ)いてゐる様には見えなかつた。失敬だとか怪(け)しからんと云ふのは、たゞ口(くち)の先許(さきばかり)で、腹(はら)の中(なか)の屈托は、全然飯(めし)と肉(にく)に集注してゐるらしかつた。
代助は気の毒になつて、当座の経済に幾分の補助を与へた。寺尾は感謝の意を表して帰つた。帰る前に、実は本屋からも少しは前借はしたんだが、それは疾(とく)の昔(むかし)に使(つか)つて仕舞つたんだと自白した。寺尾の帰つたあとで、代助はあゝ云ふのも一種の人格だと思つた。たゞ斯(か)う楽に活計(くらし)てゐたつて決して為(な)れる訳のものぢやない。今の所謂文壇が、あゝ云ふ人格を必要と認めて、自然に産み出した程、今の文壇は悲しむべき状況の下(もと)に呻吟してゐるんではなからうかと考へて茫乎(ぼんやり)した。
代助は其晩(そのばん)自分の前途をひどく気に掛けた。もし父(ちゝ)から物質的に供給の道を鎖(とざ)された時、彼は果して第二の寺尾になり得る決心があるだらうかを疑(うたぐ)つた。もし筆を執つて寺尾の真似さへ出来なかつたなら、彼は当然餓死すべきである。もし筆を執(と)らなかつたら、彼は何をする能力があるだらう。
「鬱陶しい御天気ぢやありませんか」と愛想よく自分で茶を汲んで呉れた。然し代助は飲む気にもならなかつた。
「代さん、成(な)らう事なら、年寄(としより)に心配を掛けない様になさいよ。御父(おとう)さんだつて、もう長(なが)い事はありませんから」と云つた。代助は梅子の口(くち)から、こんな陰気な言葉を聞(き)くのは始めてであつた。不意に穴倉(あなぐら)へ落(お)ちた様な心持がした。
父(ちゝ)は年(とし)の所為(せゐ)で健康の衰へたのを理由として、近々実業界を退く意志のある事を代助に洩(も)らした。けれども今は日露戦争後の商工業膨脹の反動を受けて、自分の経営にかゝる事業が不景気の極端に達してゐる最中(さいちう)だから、此難関を漕(こ)ぎ抜けた上(うへ)でなくては、無責任の非難を免かれる事が出来ないので、当分已を得ずに辛抱してゐるより外に仕方がないのだと云ふ事情を委しく話した。代助は父(ちゝ)の言葉を至極尤もだと思つた。
父(ちゝ)は普通の実業なるものゝ困難と危険と繁劇と、それ等から生ずる当事者の心(こゝろ)の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大地主(ぢぬし)の、一見地味(ぢみ)であつて、其実自分等よりはずつと鞏固の基礎を有してゐる事を述べた。さうして、此比較を論拠として、新たに今度の結婚を成立させやうと力めた。
「さう云ふ親類が一軒位あるのは、大変な便利で、且つ此際(このさい)甚だ必要ぢやないか」と云つた。代助は、父(ちゝ)としては寧ろ露骨過ぎる此政略的結婚の申し出(いで)に対して、今更驚ろく程、始めから父(ちゝ)を買ひ被つてはゐなかつた。最後の会見に、父(ちゝ)が従来の仮面(かめん)を脱(ぬ)いで掛(か)かつたのを、寧ろ快(こゝろ)よく感じた。彼自身(かれじしん)も、斯(こ)んな意味の結婚を敢てし得る程度の人間(にんげん)だと自(みづか)ら見積(みつもつ)てゐた。
其上(そのうへ)父(ちゝ)に対して何時(いつ)にない同情があつた。其顔(かほ)、其声(こえ)、其代助を動かさうとする努力、凡てに老後の憐れを認める事が出来た。代助はこれをも、父の策略とは受取り得なかつた。私(わたくし)は何(ど)うでも宜(よ)う御座いますから、貴方(あなた)の御都合の好(い)い様に御極(き)めなさいと云ひたかつた。
けれども三千代と最後の会見(くわいけん)を遂(と)げた今更(いまさら)、父(ちゝ)の意に叶(かな)ふ様な当座の孝行は代助には出来かねた。彼は元来が何方付(どつちつ)かずの男であつた。誰(だれ)の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰(だれ)の意見にも露(むき)に抵抗した試がなかつた。解釈のしやうでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ付(つき)とも思はれる遣口(やりくち)であつた。彼(かれ)自身さへ、此二つの非難の何(いづ)れを聞(き)いた時に、左様(さう)かも知れないと、腹(はら)の中(なか)で首(くび)を捩(ひね)らぬ訳(わけ)には行(い)かなかつた。然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼(かれ)に融通の利(き)く両(ふた)つの眼(め)が付(つ)いてゐて、双方を一時に見(み)る便宜を有してゐたからであつた。かれは此能力の為に、今日迄一図に物(もの)に向つて突進する勇気を挫(くぢ)かれた。即かず離れず現状に立ち竦(すく)んでゐる事が屡(しば/\)あつた。此現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判断に本いて起ると云ふ事実は、彼(かれ)が犯すべからざる敢為の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて解(わか)つたのである。三千代の場合は、即ち其適例(てきれい)であつた。
彼は三千代の前に告白した己(おの)れを、父(ちゝ)の前で白紙にしやうとは想(おも)ひ到(いた)らなかつた。同時に父(ちゝ)に対しては、心(しん)から気の毒であつた。平生の代助が此際に執るべき方針は云はずして明(あき)らかであつた。三千代との関係を撤回する不便なしに、父に満足を与へる為(ため)の結婚を承諾するに外(ほか)ならなかつた。代助は斯(か)くして双方を調和する事が出来(でき)た。何方付(どつちつ)かずに真中(まんなか)へ立(た)つて、煮え切らずに前進する事は容易であつた。けれども、今(いま)の彼(かれ)は、不断(ふだん)の彼とは趣(おもむき)を異にしてゐた。再び半身を埒外(らつぐわい)に挺(ぬきん)でて、余人と握手するのは既に遅(おそ)かつた。彼は三千代に対する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半(なか)ば頭(あたま)の判断から来(き)た。半ば心(こゝろ)の憧憬から来(き)た。二つのものが大きな濤(なみ)の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ変つた様に父(ちゝ)の前に立(た)つた。
彼(かれ)は平生の代助の如く、成る可く口数(くちかず)を利(き)かずに控(ひか)えてゐた。父(ちゝ)から見れば何時(いつ)もの代助と異なる所はなかつた。代助の方では却つて父(ちゝ)の変(かは)つてゐるのに驚ろいた。実は此間から幾度(いくたび)も会見を謝絶されたのも、自分が父(ちゝ)の意志に背く恐(おそれ)があるから父(ちゝ)の方でわざと、延(の)ばしたものと推してゐた。今日(けふ)逢(あ)つたら、定めて苦(にが)い顔をされる事と覚悟を極(き)めてゐた。ことによれば、頭(あたま)から叱(しか)り飛(と)ばされるかも知れないと思つた。代助には寧ろ其方(そのほう)が都合が好(よ)かつた。三分(ぶ)の一(いち)は、父(ちゝ)の暴怒(ぼうど)に対する自己の反動を、心理的に利用して、判然(きつぱり)断(ことわ)らうと云ふ下心(したごゝろ)さへあつた。代助は父(ちゝ)の様子、父(ちゝ)の言葉遣(つかひ)、父の主意、凡てが予期に反して、自分の決心を鈍(にぶ)らせる傾向に出(で)たのを心苦しく思つた。けれども彼は此心苦(こゝろぐる)しさにさへ打ち勝つべき決心を蓄(たくは)へた。
「当人が気に入らないのかい」と父が又聞(き)いた。代助は猶返事をしなかつた。彼は今迄父(ちゝ)に対して己(おの)れの四半分も打ち明(あ)けてはゐなかつた。その御蔭(かげ)で父(ちゝ)と平和の関係を漸く持続して来(き)た。けれども三千代の事丈は始めから決して隠(かく)す気はなかつた。自分の頭(あたま)の上(うへ)に当然落ちかゝるべき結果を、策で避(さ)ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。従つて三千代の名は丸で口(くち)へは出(だ)さなかつた。父(ちゝ)は最後に、
翌日(あくるひ)眼(め)が覚(さ)めても代助の耳の底(そこ)には父(ちゝ)の最後の言葉が鳴(な)つてゐた。彼(かれ)は前後の事情から、平生以上の重(おも)みを其内容に附着しなければならなかつた。少(すく)なくとも、自分丈では、父(ちゝ)から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があつた。代助の尤も恐るゝ時期は近づいた。父(ちゝ)の機嫌を取り戻(もど)すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかつた。あらゆる結婚に反対しても、父(ちゝ)を首肯(うなづ)かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち何(いづ)れも不可能であつた。人生に対する自家の哲学(フヒロソフヒー)の根本に触れる問題に就いて、父(ちゝ)を欺くのは猶更不可能であつた。代助は昨日(きのふ)の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の重(おも)みを脊中(せなか)に負(しよ)つて、高い絶壁の端(はじ)迄押し出された様な心持であつた。
彼(かれ)は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思つた。けれども彼(かれ)の頭(あたま)の中(なか)には職業と云ふ文字がある丈で、職業其物は体を具えて現(あら)はれて来(こ)なかつた。彼は今日迄如何なる職業にも興味を有つてゐなかつた結果として、如何なる職業を想ひ浮(うか)べて見ても、只(たゞ)其上(そのうへ)を上滑(うはすべ)りに滑(すべ)つて行く丈で、中(なか)に踏(ふ)み込んで内部から考へる事は到底出来なかつた。彼には世間が平(ひら)たい複雑な色分(いろわけ)の如くに見えた。さうして彼(かれ)自身は何等の色(いろ)を帯びてゐないとしか考へられなかつた。
此落魄のうちに、彼は三千代を引張り廻(まは)さなければならなかつた。三千代は精神的に云つて、既に平岡の所有ではなかつた。代助は死に至る迄彼女(かのをんな)に対して責任を負ふ積であつた。けれども相当の地位を有(も)つてゐる人の不実(ふじつ)と、零落(れいらく)の極に達した人の親切とは、結果に於て大(たい)した差違はないと今更ながら思はれた。死ぬ迄三千代に対して責任を負ふと云ふのは、負(お)ふ目的があるといふ迄で、負(お)つた事実には決してなれなかつた。代助は惘然(もうぜん)として黒内障(そこひ)に罹(かゝ)つた人の如くに自失した。
彼(かれ)は又三千代を訪(たづ)ねた。三千代は前日(ぜんじつ)の如く静(しづか)に落(お)ち着(つ)いてゐた。微笑(ほゝえみ)と光輝(かゞやき)とに満(み)ちてゐた。春風(はるかぜ)はゆたかに彼女(かのをんな)の眉(まゆ)を吹いた。代助は三千代が己(おのれ)を挙げて自分に信頼してゐる事を知つた。其証拠を又眼(ま)のあたりに見た時、彼(かれ)は愛憐(あいれん)の情と気の毒の念に堪えなかつた。さうして自己を悪漢の如くに呵責(かしやく)した。思ふ事は全く云ひそびれて仕舞つた。帰るとき、
代助は此間(このあひだ)から三千代を訪問する毎(ごと)に、不愉快ながら平岡の居(ゐ)ない時を択(えら)まなければならなかつた。始めはそれを左程にも思はなかつたが、近頃では不愉快と云ふよりも寧ろ、行き悪(にく)い度が日毎に強くなつて来(き)た。其上(そのうへ)留守の訪問が重(かさ)なれば、下女に不審を起させる恐れがあつた。気の所為(せゐ)か、茶を運(はこ)ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付(めつき)をして、見られる様でならなかつた。然し三千代は全く知らぬ顔をしてゐた。少(すく)なくとも上部(うはべ)丈は平気であつた。
平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかつた。会(たま)に一言二言(ひとことふたこと)夫(それ)となく問を掛けて見ても、三千代は寧ろ応じなかつた。たゞ代助の顔を見(み)れば、見てゐる其間(そのあひだ)丈の嬉(うれ)しさに溺(おぼ)れ尽(つく)すのが自然の傾向であるかの如くに思はれた。前後を取り囲(かこ)む黒い雲が、今にも逼(せま)つて来はしまいかと云ふ心配は、陰(かげ)ではいざ知らず、代助の前(まへ)には影(かげ)さへ見せなかつた。三千代は元来神経質の女であつた。昨今の態度は、何(ど)うしても此女の手際ではないと思ふと、三千代の周囲の事情が、まだ夫程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなつたのだと解釈せざるを得なかつた。
「すこし又話したい事があるから来(き)て下(くだ)さい」と前よりは稍真面目に云つて代助は三千代と別れた。
青山(あをやま)の宅(うち)からは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼は力(つと)めて門野を相手にして他愛ない雑談に耽(ふけ)つた。門野は此暑さに自分の身体(からだ)を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り口(くち)を動(うご)かした。それでも話し草臥(くたび)れると、
代助は幾度(たび)か己れを語る事を躇した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉(まゆ)一筋(ひとすぢ)にしろ心配の為(ため)に動(うご)かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭(する)どく働らいてゐなかつたなら、彼は夫(それ)から以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達ての告白を再び同じ室(へや)のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の下(もと)に、一切(いつさい)を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。
「僕は白状するが、実を云ふと、平岡君より頼(たより)にならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな話(はな)して仕舞ふが」と前置(まへおき)をして、夫(それ)から自分と父(ちゝ)との今日迄の関係を詳しく述(の)べた上(うへ)、
代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、たゞ貧苦が愛人の満足に価(あたひ)しないと云ふ事丈を知つてゐた。だから富(とみ)が三千代に対する責任の一つと考へたのみで、夫(それ)より外(ほか)に明らかな観念は丸で持つてゐなかつた。
「欲(ほ)しくないと云(い)つたつて、是非必要になるんです。是から先(さき)僕が貴方(あなた)と何(ど)んな新(あた)らしい関係に移つて行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」
「気が付(つ)いてゐるかも知れません。けれども私(わたくし)もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時(いつ)殺(ころ)されたつて好(い)いんですもの」
「さうしませう。二人(ふたり)が平岡君を欺(あざむ)いて事をするのは可(よ)くない様だ。無論事実を能く納得出来(でき)る様に話(はな)す丈です。さうして、僕の悪(わる)い所はちやんと詫(あや)まる覚悟です。其結果は僕の思ふ様に行(い)かないかも知れない。けれども何(ど)う間違(まちが)つたつて、そんな無暗な事は起らない様にする積(つもり)です。斯(か)う中途半端(ちうとはんぱ)にしてゐては、御互も苦痛だし、平岡君に対しても悪(わる)い。たゞ僕が思ひ切つて左様(さう)すると、あなたが、嘸(さぞ)平岡君に面目なからうと思つてね。其所(そこ)が御気の毒なんだが、然し面目ないと云へば、僕だつて面目ないんだから。自分の所為に対しては、如何に面目なくつても、徳義上の責任を負ふのが当然だとすれば、外(ほか)に何等の利益がないとしても、御互の間に有(あつ)た事丈は平岡君に話さなければならないでせう。其上今の場合では是からの所置を付(つ)ける大事の自白なんだから、猶更必要になると思ひます」
代助は日(ひ)の傾くのを待(ま)つて三千代を帰(かへ)した。然し此前の時の様に送(おく)つては行(い)かなかつた。一時間程書斎の中で蝉の声を聞(き)いて暮(くら)した。三千代に逢つて自分の未来を打ち明けてから、気分が薩張りした。平岡へ手紙を書(か)いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持つて見たが、急に責任の重いのが苦になつて、拝啓以後を書き続(つゞ)ける勇気が出なかつた。卒然、襯衣(しやつ)一枚になつて素足で庭へ飛(と)び出(だ)した。三千代が帰る時は正体なく午睡(ひるね)をしてゐた門野(かどの)が、
「まだ早いぢやありませんか。日が当つてゐますぜ」と云ひながら、坊主頭(あたま)を両手で抑えて椽端にあらはれた。代助は返事もせずに、庭の隅へ潜(もぐ)り込んで竹の落葉(おちば)を前の方へ掃き出(だ)した。門野(かどの)も已を得ず着物(きもの)を脱(ぬ)いで下(お)りて来(き)た。
翌日の朝(あさ)彼は思ひ切つて平岡へ手紙を出(だ)した。たゞ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせて貰(もら)ひたい。此方(こつち)は何時(いつ)でも差支ない。と書いた丈だが、彼(かれ)はわざとそれを封書にした。状袋の糊(のり)を湿(し)めして、赤い切手をとんと張(は)つた時には、愈クライシスに証券を与へた様な気がした。彼は門野(かどの)に云ひ付けて、此運命の使(つかひ)を郵便函(ばこ)に投(な)げ込ました。手渡(わた)しにする時、少し手先が顫(ふる)へたが、渡したあとでは却つて茫然として自失した。三年前三千代と平岡の間(あひだ)に立(た)つて斡旋(あつせん)の労を取つた事を追想すると丸で夢の様であつた。
五日(いつか)目に暑(あつさ)を冒(おか)して、電車へ乗(の)つて、平岡の社迄出掛(でか)けて行つて見て、平岡は二三日出社しないと云ふ事が分(わか)つた。代助は表へ出て薄汚(うすぎた)ない編輯局の窓を見上(みあ)げながら、足(あし)を運ぶ前に、一応電話で聞き合(あは)すべき筈だつたと思つた。先達ての手紙は、果して平岡の手に渡つたかどうか、夫(それ)さへ疑(うたが)はしくなつた。代助はわざと新聞社宛でそれを出(だ)したからである。帰りに神田へ廻(まは)つて、買ひつけの古本(ふるほん)屋に、売払ひたい不用の書物があるから、見(み)に来(き)てくれろと頼(たの)んだ。
「君、平岡の所へ行つてね、先達(せんだつ)ての手紙は御覧になりましたか。御覧になつたら、御返事を願ひますつて、返事を聞いて来(き)て呉れ玉へ」と頼(たの)んだ。猶要領を得ぬ恐(おそれ)がありさうなので、先達てこれ/\の手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云ふ事迄説明して聞(き)かした。
「実(じつ)はもつと早く出(で)るんだつたが、うちに病人が出来たんで遅(おそ)くなつたから、宜(よろ)しく云つてくれろと云はれました」
「まだ暗闇(くらやみ)ですな。洋燈(ランプ)を点(つ)けますか」と聞いた。代助は洋燈(ランプ)を断(ことわ)つて、もう一度(いちど)、三千代の病気を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の為(ため)だか、何(ど)うだか、と云ふ点に至る迄、考へられる丈問ひ尽した。けれども門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好加減な当(あて)ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には一人(ひとり)で黙つてゐるよりも堪(こら)え易(やす)かつた。
「此間から奥さんの事で貴方(あなた)も嘸(さぞ)御迷惑なすつたらう。此方(こつち)でも御父(おとう)様始め兄(にい)さんや、私(わたくし)は随分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達て御出(いで)の時(とき)、とう/\御父(おとう)さんに断然御断(ことわ)りなすつた御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないと諦(あき)らめてゐます。けれども其節御父様は、もう御前の事は構はないから、其積でゐろと御怒りなされた由、後(あと)で承りました。其後(のち)あなたが御出(おいで)にならないのも、全く其為(ため)ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを上(あ)げる日(ひ)には何(ど)うかとも思ひましたが、矢張り御出(いで)にならないので、心配してゐます。御父さんは打遣(うちや)つて置けと仰います。兄さんは例の通り呑気で、困つたら其内(うち)来(く)るだらう。其時親爺(おやぢ)によく詫(あやま)らせるが可(い)い。もし来(こ)ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい。尤も御父さんは未(ま)だ怒(おこ)つて御出(いで)の様子です。私の考では当分昔(むかし)の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、貴方(あなた)が入らつしやらない方が却つて貴方(あなた)の為(ため)に宜(い)いかも知れません。たゞ心配になるのは月々上(あ)げる御金(かね)の事です。貴方(あなた)の事だから、さう急に自分で御金(かね)を取る気遣はなからうと思ふと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒で堪(たま)りません。で、私の取計で例月分を送つて上(あ)げるから、御受取の上は是で来月迄持ち応(こた)へて入らつしやい。其内(うち)には御父さんの御機嫌も直(なほ)るでせう。又兄(にい)さんからも、さう云つて頂く積です。私(わたくし)も好(い)い折(をり)があれば、御詫(わび)をして上(あ)げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が宜(よ)う御座います。……」
まだ後(あと)が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は中(なか)に這入つてゐた小切手を引き抜(ぬ)いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した上(うへ)、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて嫂(あによめ)に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた。
代助は洋燈(ランプ)の前にある封筒を、猶つくづくと眺(なが)めた。古(ふる)い寿(じゆ)命が又一ヶ月延(の)びた。晩(おそ)かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂(あによめ)の志は難有いにもせよ、却つて毒になる許(ばかり)であつた。たゞ平岡と事を決する前は、麺麭(パン)の為(ため)に働らく事を肯(うけが)はぬ心を持つてゐたから、嫂(あによめ)の贈物(おくりもの)が、此際(このさい)糧食としてことに彼には貴(たつ)とかつた。
家(いへ)の事は左のみ気に掛(か)からなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病気と、其源因と其結果が、ひどく代助の頭(あたま)を悩(なや)ました。それから平岡との会見の様子も、様々(さま/″\)に想像して見た。それも一方(ひとかた)ならず彼(かれ)の脳髄を刺激した。平岡は明日(あした)の朝九時頃(ごろ)あんまり暑くならないうちに来(く)るといふ伝言であつた。代助は固より、平岡に向つて何(ど)う切り出(だ)さう抔と形式的の文句を考へる男(をとこ)ではなかつた。話す事は始めから極(きま)つてゐて、話す順序は其時の模(も)様次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する様にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安静を切に冀つた。成るべく熟睡(じゆくすい)したいと心掛けて瞼(まぶた)を合せたが、生憎眼が冴えて昨夕(ゆふべ)よりは却つて寐(ね)苦しかつた。其内(うち)夏の夜がぽうと白(しら)み渡(わた)つて来(き)た。代助は堪(たま)りかねて跳ね起きた。跣足(はだし)で庭先へ飛び下りて冷たい露(つゆ)を存分に踏んだ。夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の出(で)を待つてゐるうちに、うと/\した。
「大変御早うがすな」と門野が驚ろいて云つた。代助はすぐ風呂場へ行つて水を浴(あ)びた。朝飯(あさめし)は食(く)はずに只紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、殆んど何が書(か)いてあるか解(わか)らなかつた。読むに従つて、読(よ)んだ事が群(むら)がつて消えて行(い)つた。たゞ時計の針ばかりが気になつた。平岡が来(く)る迄にはまだ二時間あまりあつた。代助は其間(あひだ)を何(ど)うして暮(く)らさうかと思つた。凝(じつ)としてはゐられなかつた。けれども何をしても手に付(つ)かなかつた。責(せ)めて此二時間をぐつと寐込んで、眼(め)を開(あ)けて見ると、自分の前に平岡が来(き)てゐる様にしたかつた。
二人(ふたり)はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いて見たかつた。然しそれが何(ど)う云ふものか聞き悪(にく)かつた。其内(そのうち)通例の挨拶も済(す)んで仕舞つた。話(はなし)は呼び寄せた方から、切り出すのが順当であつた。
平岡は断然たる答を一言葉(ひとことば)でなし得なかつた。さう急に何(ど)うの斯(か)うのといふ心配もない様だが、決して軽(かる)い方ではないといふ意味を手短かに述(の)べた。
此前暑(あつ)い盛(さか)りに、神楽坂へ買物に出た序に、代助の所へ寄つた明日(あくるひ)の朝(あさ)、三千代は平岡の社へ出掛(でか)ける世話をしてゐながら、突(とつ)然夫(おつと)の襟飾(えりかざり)を持つた儘卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度(したく)は其儘に三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出て呉(く)れと云ひ出(だ)した。口元(くちもと)には微笑の影さへ見えた。横(よこ)にはなつてゐたが、心配する程(ほど)の様子もないので、もし悪(わる)い様だつたら医者を呼ぶ様に、必要があつたら社へ電話を掛ける様に云ひ置いて平岡は出勤した。其晩は遅(おそ)く帰つた。三千代は心持が悪(わる)いといつて先(さき)へ寐(ね)てゐた。何(ど)んな具合かと聞(き)いても、判然(はつきり)した返事をしなかつた。翌日朝起きて見ると三千代の色沢(いろつや)が非常に可(よ)くなかつた。平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎へた。医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血の為(ため)だと云つた。随分強い神経衰弱に罹(かゝ)つてゐると注意した。平岡は夫(それ)から社を休(やす)んだ。本人は大丈夫だから出て呉(く)れろと頼む様に云つたが、平岡は聞(き)かなかつた。看護をしてから二日目(ふつかめ)の晩(ばん)に、三千代(みちよ)が涙(なみだ)を流して、是非詫(あや)まらなければならない事があるから、代助の所へ行つて其訳を聞いて呉れろと夫(おつと)に告げた。平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかつた。脳(のう)の加減(かげん)が悪(わる)いのだらうと思つて、好(よ)し/\と気休(きやす)めを云つて慰めてゐた。三日目(みつかめ)にも同じ願が繰り返された。其時平岡は漸やく三千代の言葉に一種の意味を認(みと)めた。すると夕方(ゆふがた)になつて、門野が代助から出した手紙の返事を聞(き)きにわざ/\小石川迄遣(や)つて来(き)た。
「三千代さんの君(きみ)に詫(あや)まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだらう。或は同(おんな)じ事かも知れない。僕は何(ど)うしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思ふから話(はな)すんだから、今日迄の友誼に免(めん)じて、快(こゝろ)よく僕に僕の義務を果(はた)さして呉れ給へ」
「いや前置をすると言訳らしくなつて不可(いけ)ないから、僕も成る可くなら卒直に云つて仕舞ひたいのだが、少し重大な事件だし、夫(それ)に習慣に反した嫌(きらひ)もあるので、若し中途で君に激されて仕舞ふと、甚だ困るから、是非仕舞迄君に聞(き)いて貰ひたいと思つて」
代助は一段声を潜(ひそ)めた。さうして、平岡夫婦が東京へ来(き)てから以来、自分と三千代との関係が何(ど)んな変化を受けて、今日に至つたかを、詳しく語り出(だ)した。平岡は堅(かた)く唇(くちびる)を結(むす)んで代助の一語一句に耳(みゝ)を傾けた。代助は凡てを語るに約一時間余を費やした。其間に平岡から四遍程極めて単簡な質問を受けた。
「悪(わる)いと思ひながら今日(こんにち)迄歩を進めて来(き)たんだね」と平岡は重ねて聞(き)いた。語気は前よりも稍切迫してゐた。
「左様(さう)だ。だから、此事(このこと)に対して、君の僕等に与へやうとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。今のはたゞ事実を其儘に話した丈で、君の処分の材料にする考だ」
「三千代さんの心機を一転して、君(きみ)を元(もと)よりも倍以上に愛させる様にして、其上僕を蛇蝎の様に悪(にく)ませさへすれば幾分か償(つぐなひ)にはなる」
「すると君は悪(わる)いと思つた事を今日迄発展さして置いて、猶其悪(わる)いと思ふ方針によつて、極端押して行かうとするのぢやないか」
「矛盾かも知れない。然し夫(それ)は世間の掟(おきて)と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上(あ)がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫(おつと)たる君に詫(あや)まる。然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ」
「平岡君。世間(せけん)から云へば、これは男子の面目に関(かゝ)はる大事件だ。だから君が自己の権利を維持する為(ため)に、――故意に維持しやうと思はないでも、暗に其心が働らいて、自然と激して来(く)るのは已を得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」
「そりや余計な事だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ」
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件ぢやない人間だから、心(こゝろ)迄所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来(き)たつて、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫(おつと)の権利は其所(そこ)迄は届(とゞ)きやしない。だから細君の愛を他(ほか)へ移さない様にするのが、却つて夫(おつと)の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて己(おのれ)を抑(おさ)える様に云つた。拳(こぶし)を握つてゐた。代助は相手の言葉の尽(つ)きるのを待つた。
「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉(うれ)しくつて其晩は少しも寐(ね)られなかつた。月のある晩(ばん)だつたので、月の消える迄起きてゐた」
「君は何だつて、あの時僕の為(ため)に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の為(ため)に三千代を周旋しやうと盟(ちか)つたのだ。今日(こんにち)の様な事を引き起す位なら、何故(なぜ)あの時、ふんと云つたなり放(ほう)つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讐(かたき)を取られる程、君に向つて悪い事をした覚(おぼえ)がないぢやないか」
「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望(のぞ)みを叶(かな)へるのが、友達の本分だと思つた。それが悪(わる)かつた。今位頭(あたま)が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に若(わか)かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過(す)ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の為(ため)ばかりぢやない。実際君の為(ため)に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣(や)り遂(と)げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐(かたき)を取られて、君の前に手を突いて詫(あや)まつてゐる」
「僕は君の前に詫(あや)まつてゐる人間だ。此方(こつち)から先(さき)へそんな事を云ひ出す権利はない。君の考から聞くのが順だ」と代助が云つた。
「僕は今日(けふ)の事がある以上は、世間的の夫(おつと)の立場(たちば)からして、もう君と交際する訳には行かない。今日(けふ)限り絶交するから左様(さう)思つて呉れ玉へ」
「三千代の病気は今云ふ通り軽い方ぢやない。此先(このさき)何(ど)んな変化がないとも限(かぎ)らない。君も心配だらう。然し絶交した以上は已(やむ)を得ない。僕の在不在に係(かゝ)はらず、宅(うち)へ出入(ではい)りする事丈は遠慮して貰(もら)ひたい」
「夫(それ)は困(こま)るよ。君と僕とは何(なん)にも関係がないんだから。僕は是から先(さき)、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時丈だと思つてるんだから」
暫らくして発作の反動が来(き)た。代助は己(おの)れを支ふる力を用ひ尽(つく)した人の様に、又椅子に腰を卸(おろ)した。さうして両手で顔を抑えた。
代助は守宮(やもり)に気が付く毎(ごと)に厭(いや)な心持がした。其動(うご)かない姿が妙に気に掛(かゝ)つた。彼の精神は鋭どさの余りから来(く)る迷信に陥いつた。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつゝあると想像した。三千代は今死につゝあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢ひたがつて、死に切れずに息(いき)を偸(ぬす)んで生きてゐると想像した。代助は拳(こぶし)を固めて、割れる程平岡の門を敲(たゝ)かずにはゐられなくなつた。忽ち自分は平岡のものに指(ゆび)さへ触れる権利がない人間だと云ふ事に気が付いた。代助は恐(おそ)ろしさの余り馳(か)け出(だ)した。静かな小路(こうぢ)の中(うち)に、自分の足音(あしおと)丈が高く響(ひゞ)いた。代助は馳(か)けながら猶恐ろしくなつた。足(あし)を緩(ゆる)めた時は、非常に呼息(いき)が苦(くる)しくなつた。
「御前(おまへ)だつて満更(まんざら)道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出(しで)かす位なら、今迄折角金(かね)を使つた甲斐がないぢやないか」
代助は今更兄(あに)に向つて、自分の立場(たちば)を説明する勇気もなかつた。彼(かれ)はつい此間(このあひだ)迄全く兄(あに)と同意見であつたのである。
「御前(おまへ)は平生から能(よ)く分(わか)らない男だつた。夫でも、いつか分(わか)る時機が来(く)るだらうと思つて今日(こんにち)迄交際(つきあ)つてゐた。然し今度(こんだ)と云ふ今度(こんだ)は、全く分(わか)らない人間だと、おれも諦(あき)らめて仕舞つた。世の中に分(わか)らない人間(にんげん)程危険なものはない。何を為(す)るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前(おまへ)は夫(それ)が自分の勝手だから可(よ)からうが、御父(おとう)さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は有(も)つてゐるだらう」
兄(あに)の言葉は、代助の耳(みゝ)を掠(かす)めて外(そと)へ零(こぼ)れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄(あに)の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄(あに)から、今更同情を得やうと云ふ芝居気は固より起らなかつた。彼(かれ)は彼(かれ)の頭(あたま)の中(うち)に、彼自身に正当な道を歩(あゆ)んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父(ちゝ)も兄(あに)も社会も人間も悉く敵(てき)であつた。彼等は赫々(かく/\)たる炎火(えんくわ)の裡(うち)に、二人(ふたり)を包(つゝ)んで焼(や)き殺(ころ)さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此焔(ほのほ)の風に早く己れを焼(や)き尽(つく)すのを、此上(うへ)もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭(あたま)を支へて石の様に動かなかつた。
「代助」と兄(あに)が呼んだ。「今日(けふ)はおれは御父(おとう)さんの使(つかひ)に来(き)たのだ。御前は此間(このあひだ)から家(うち)へ寄(よ)り付(つ)かない様になつてゐる。平生なら御父(とう)さんが呼び付けて聞き糺(たゞ)す所だけれども、今日(けふ)は顔(かほ)を見るのが厭(いや)だから、此方(こつち)から行つて実否を確(たしか)めて来(こ)いと云ふ訳で来(き)たのだ。それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら、――御父(おとう)さんは斯(か)う云はれるのだ。――もう生涯代助には逢はない。何処(どこ)へ行(い)つて、何(なに)をしやうと当人(とうにん)の勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又親(おや)とも思つて呉(く)れるな。――尤もの事だ。そこで今(いま)御前(おまへ)の話(はなし)を聞いて見ると、平岡の手紙には嘘(うそ)は一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それぢや、おれだつて、帰つて御父(おとう)さんに取り成し様がない。御父(おとう)さんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。好(い)いか。御父(おとう)さんの云はれる事は分(わか)つたか」

 

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